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セブンスターズの印刻使い  作者: 白河黒船/涼暮皐
第三章 魔競祭事件
98/308

3-44『都合のいい奴』

 言葉の意味が理解できず、思わずピトスは面食らった。

 ――姉さん。

 なぜ姉なのだろう。誰が見たって、アイリスのほうが年下のはずだ。そもそもまったく似ていない。肌の色も、髪の色も。共通する部分なんてどこにもなかった。

 その疑問には、あっさりとクロノスが答える。


「単なる比喩表現ですよ、ピトスさん。血が繋がっているわけじゃありません」

「なら、どういう意味ですか」

「彼女が最後の失敗作(丶丶丶丶丶丶)なら、僕は最初の成功作(丶丶丶丶丶丶)だという、ただそれだけの意味です。同じ実験を受けたという意味で、彼女は僕の姉に当たる」

「同じ、実験……?」

「ええ。幸い、生まれつき肉体からだは丈夫でしたから。これでも鬼の血を引いていますからね。だからこそ、僕は教団にとっても貴重な実験例サンプルだったそうです。そして、だからこそ僕は《土星》になった」

「まるで、他人ごとみたいに言うんですね」

「物事から意味を見出すことが苦手なだけです。むしろ貴女たちにとってこそ、他人ごとではないと思いますが」

「どういう……」

「貴女も同じでしょう」

 クロノスが透徹した瞳で言う。

 目の前の男からは、自己というものがまるで感じられない。ただ言われるがままに仕事をこなし、命じられるがままに生きている。そんな感覚。

 それが――たとえようもなく不愉快だ。

「役目を与えられて生きてきた。そして今度は、自らに役目を与えている」

「…………」

「それがなければ、生きていられない」

「……知った風なこと、言わないでくれませんか」

 自分を抑えるので精いっぱいだった。ピトスは今、明確にキレている。

 だが、そんな感情の機微はクロノスに伝わっていない。彼は静かに言葉を重ねる。

「知っています。僕は。貴女の事情を」

「――――」

「なぜ貴女が学院に来たのかを。その戦闘技術をどこで学んだのかも。――どうして《紫煙》に近づいたのかも」

「……黙れ」

「だから教えてあげましょう」

「黙れ……」

「――貴女の仇は、僕たちです」

 頭に血が昇っていた。もはやピトスは冷静じゃない。

 時間さえ稼げればよかったのに。全てを忘れて、クロノスに飛びかかろうとしていた。

 それを留めたのは、一緒にいたアイリスだ。ピトスの意識がキレると同時、彼女は深く身を沈めると、それから跳躍してクロノスに迫った。

 その瞬間、ピトスは冷静さを取り戻す。

 咄嗟にアイリスの援護に回る。何をやっている。なんのためにここへ来た――そのことを忘れかけた自分を、殺してやりたい気分だった。


 それから――学院側の増援が来るまでに、およそ十分の時間が必要だった。



     ※



 クラン《銀色鼠シルバーラット》は、シルヴィアの夢だった。

 そのことを、フェオはほかの誰より知っている。


 そもそもなぜ《銀色鼠》なのか。

 銀色、のほうは単純にシルヴィアのイメージカラーだからだ。だが見目麗しい騎士の彼女に、鼠という言葉はいかにも似合わない。

 ――けれど、フェオは知っている。

 そこには姉の想いが、矜持が込められていることを。伝説の旅団に憧れた彼女が、分不相応にも高い場所を目指した騎士上がりが――それでも地を這う鼠の意志を忘れないために。

 ちっぽけなプライドだ。

 シルヴィアは叩き上げの騎士である。実家を出奔した彼女が、それでも歳の離れた妹のフェオをひとりで育て上げるために。彼女は騎士として弛まぬ鍛錬を積んできた。


 騎士、とは王国に仕える剣士の称号だ。

 魔術師でありながら、魔術よりも礼儀と剣技を重んじる変わり者たち。ある意味では冒険者以上に粗野でありながら、けれど決して曲がらぬ誇りを持つ頑固者の集団。

 王国のために、剣を捧げると決めた戦士の呼び名だ。


 そんな姉が、フェオにとっては誇りだった。

 シルヴィアは決して才能に恵まれていたほうではない。秀才ではあった。それに見合うだけの努力を積んでいた。どれだけ泥に塗れても、地面に這いつくばってでも、ただ自分の剣を信じて騎士団の長まで上り詰めた。

 その全てがフェオのためだった。

 誇らしい。尊敬できるし、自慢もできる――けれど。だからこそ。

 そんな姉の足を引っ張ることしかできない自分が、彼女は堪らなく嫌いだった。

 シルヴィアにとって、フェオは単なる足手纏いでしかないのではないか。そんな恐怖を、彼女はいつも抱いていた。

 若くして騎士団長にまで至った姉に比べ、自分のなんと役に立たないことか。どころか尊敬する姉の邪魔しかできていないのではないか。

 そんなことは許せなかった。

 いつだって助けてくれた姉を、今度は自分が助けられなくてどうする。


 フェオに才能はない。少なくとも彼女はそう思っている。

 魔術は苦手だ。学院に入れるほどの能力はない。せめて剣だけでもと思ったが、姉に及ぶほどの技術は手に入らなかった。

 けれど、そんな姉に対して、劣等感を覚えたことがフェオはない。

 尊敬しこそすれ、自慢に思いこそすれ、姉を逆恨みするなんてあり得ない。

 だから腹立たしいのは、そんなシルヴィアを支えてあげられるだけの能力が自分にないことだけだった。

 姉を超えたいと思ったことなんてない。ただせめて、足手纏いにだけはなりたくなかった。

 それだけがフェオの望みだった。


 実際には、まったくの正反対だったのだが。

 劣等感を覚えていたのはシルヴィアのほうだ。彼女は、リッターの家に伝わるといわれる吸血種の能力を、少しも引き継いでいないのだから。

 伝わっているほうがおかしいのだ。遥か昔まで遡る家系の血を、いきなり先祖返りして発揮しているフェオが稀有なのである。

 気の遠くなるほど何代も前の種族特性。そんなものを隔世遺伝しているフェオは、はっきりと周囲から浮いてしまう。そのことに気づいていないのは、それこそ本人くらいだった。

 シルヴィアが守っていたからだ。

 全ての悪意から、彼女は妹を守ろうとした。妹もまた、そんな姉を心から信頼している。

 だから彼女の意志が、本当は騎士団の仕事に向いていないと知ったとき、フェオは真っ先に応援した。少しでも力になりたいと、シルヴィアが定職を辞し、冒険者になることをただひとり支持した。

 それが、不器用な姉妹の関係だった。


 ――だからこそ許せない。

 シルヴィアの夢を邪魔した教団を、フェオは心から憎んでいる――。



     ※



「なんでなんでなんでなんでなんで――」


 学院の裏手は、そのままオーステリアの城壁と繋がっている。

 そこには出口が設けられており、普段は使われていないものの、城壁の外に出ることは可能になっていた。

 水星――ドラルウァ=マークリウスは、その先でひとり待ち構えていた。


「なんで貴女が来るんですか……貴女なんて呼んでないのに貴女なんて知らないのに貴女なんて――」

 まるで駄々を捏ねる幼児のようだ、とフェオは思う。

 見た目には二十代を過ぎている水星が、長い髪を振り乱して叫ぶ様は酷く醜い。

「……答えろ」

 フェオは言った。この女と、真っ当に言葉を交わせるかは疑わしい。

 それでも訊かずにはいられなかった。

 裏切りを重ねた旧《銀色鼠シルバーラット》の面々。殺される寸前だったシルヴィア。この街で多発しているという惨殺事件。

 その全てが水星の仕業だとすれば、何もかも説明がついてしまう。

 彼女の変身を用いれば、銀色鼠シルバーラットに教団の人間を送り込むことなど容易いだろう。どころか、初めは味方だったみんなだって、彼女に乗っ取られていたのかもしれない。

「わたしたちのクランを――銀色鼠シルバーラットを、めちゃくちゃにしたのは、あんたなの?」

「はあ……?」水星はがくり、と気味悪く首を傾げる。「なんですかなんですかなんですか、それ? 知りませんわかりません聞いてません関係ありません……なんでなんでなんで私の私の私のせいにするんですか、これだからこれだからこれだから――」

「とぼけるなっ!」

 激昂する。水星の言葉のいちいちが癇に触れた。

「あんたがやったってことくらいわかってる……! あんたが、あんたが銀色鼠シルバーラットを、お姉ちゃんの夢を台なしにしたんだっ!!」

「……私じゃ私じゃ私じゃないから。私じゃない誰かのやったことまで、私のせいにしないでよ――」

「ふざ……っ、ふざけ――」

「そんなのそんなのそんなの――」

 がくり、がくり、がくり。小刻みな痙攣をするように、水星の身体が揺れている。

 けたけた。けたけた。フェオを嘲笑うように、口に端が歪んでいった。


「――あんなところにあんなところに、いるほうが悪いと思わない……?」


 何かが切れる、そんな音が聞こえた気がした。

 気がしただけだろう。もう、耳なんて使っていたくない。

 言葉を聞くことをやめ、フェオは無言で駆け出した。目の前の相手を、ただ斬ることだけを目的として。

 ――殺してやる。

 最速で、最短距離を進んでいく。水星は反応さえできていない。

 そのまま刃を振るう。斜めに斬り上げるように。移動と抜刀が完全に連動した、見惚れてしまうほどに素早い最高の一撃だった。

 水星には為すすべもない。そのまま無防備に斬り裂かれ、上半身が下半身に別れを告げる。くずおれていく自らの足を見つめながら、にたり、と口許に歪みを浮かべた。

 腕が――伸ばされる。

 斬り飛ばされた水星の上体が、そのままの状態でフェオの首を掴んだのだ。


「――――っ!」


 呼吸を強制的に止められる。息を吸えない。肺がきりきりと痛みを訴えていた。

 首を絞める両腕を、フェオはそのまま切断する。

 やはり水星は躱すことさえしない。そんなことをする意味がないから。手首から先だけになった水星の両手は、斬られたことなどまるで関係ないとばかりにフェオの首を締め続ける。

 それだけではない。

 腕の切断面から、新たな手が生えてくる。何ごともなかったかのように再生し、その腕がフェオの腹部をしたたかに殴りつけてきた。

 が――っ、とフェオは息を零す。一緒に血まで吐いただろうか。

 そんなことを、斟酌している余裕はない。

 弾き飛ばされた姿勢のまま、フェオは左手で、首を絞め続ける水星の手を掴んだ。それを、力任せに引き剥がす。

 肉の破ける嫌な音。聞こえなかったことにする。長い爪と、驚くほど強い腕の力が、フェオの首筋に赤い噴水を作り出す。びちゃり、という嫌な音を立てて、血肉が地面に撒き散らされた。

 同時、逆側の手に剣を突き刺す。指の根元から切断して、強制的に戒めを解いた。

「は――あ……っ」

 肺腑へ空気が戻ってくる。奪われた酸素を取り戻すように、フェオは荒く息を乱した。

 左の首筋から、ぽたぽたと血が流れている。それでも、あのまま絞め殺されるよりマシだ。


 次の瞬間、背後から強烈な一撃を貰い、フェオは思わず踏鞴を踏む。

 いつの間に回りこんでいたのか。分かたれた下半身が、そのままひとりの人間の形にまで再生したということだろう。

 気づけば水星がふたりに増えている。斬られれれば斬られるほどに増殖するなんて、いったいどこの軟体系魔物だというのか。生理的な嫌悪感が、粘ついた澱のように心中で汚濁を増す。

「舐め――るなあ……っ!!」

 腕を、剣を、力任せにフェオは振るう。だが、それが水星に当たったところで、意味なんて何ひとつ存在しない。

 水星は無敵に近かった。物理的な損傷を、一切ないものとしてしまう。レヴィの《閉式鍵刃》やアイリスの《簒奪》のように、 魔力そのものを奪うなどといった対応策が必須になる。

 相性は最悪だ。魔術の苦手なフェオにとって、術式による対抗が必須になる水星はおよそ勝ち目のない相手だった。いくら斬ろうと刻もうと、水星にはなんの痛痒もない。


「う――あぁぁっ!!」


 剣を振るう。横薙ぎの軌跡。その後を追うように風がはしった。

 二体の水星が吹き飛ばされていく。けらけらと、けらけらと。醜い哄笑を撒きながら。

 風圧の中に刃が含まれていた。細かな風刃が水星を刻み、その肉体を細切れにしていく。躱そうと思えば躱せるのだろう。それをしないのは、フェオを馬鹿にしているからだ。

 皮が切れ、肉が弾け、血が迸る。それでも水星は嗤っていた。彼女にとって、こんなものは単なる暇潰しでしかないのだから。

「その程度でその程度でその程度で。本当に私を殺せると思ったんですかあ――?」

「うる……さいっ! 黙れ、黙れ黙れ黙れッ!」

「嫌ですね。馬鹿ですね。間抜けですね。身の程を知らず、ただ感情の赴くままに喚き散らす。魔術師失格です」

「あんたなんかに何がわかる!」

「わかりますよぉ。貴女のことなら――貴女以上に」

 だって。


「――貴女のお姉さんから、直接教わったんですから」


 フェオの動きが、そのとき、止まる。

 ――今、こいつはなんと言った?

 姉から聞いた。姉。たったひとりのフェオの姉。シルヴィア=リッター。クラン《銀色鼠シルバーラット》の創始者。

 ずっと不思議に思っていたのだ。

 どうして姉は、魔競祭が始まってからというもの、一度だってフェオの試合を見に来なかったのか。予選には来ていたはずなのに。あれ以来、フェオはシルヴィアを一度も見ていない。

 忙しいのだろう、と。そう勝手に思っていた。

 クランが大変な時期なのだから。わがままで学院に行ったフェオなど、見ている時間もないのだろうと。そんな風に考えていたのに。

「姉さんに……何を、した……?」

「姉さんというのは――」

 水星の輪郭が、歪む。一瞬、空気へ溶けるようにぼやけ、それから新しい形を作り出す。

 その姿は――彼女が敬愛する姉の姿と、まったく同じものだった。


「この顔ですかあ……?」


 弾ける。意識が沸騰していた。もう何も考えられない。目の前の存在を、この世から消し去ってしまうまでは。

 それはフェオが生まれて初めて抱いた殺意だ。

 その感情を、少女はまだ上手く制御することができないでいる。完全に乗っ取られていた。

 ただ怒りの赴くままに、剣を振り上げて水星に向かう。

 そんな攻撃が、通じるはずもなかったのに。


「――――っ!」


 突如、身体の動きが止まる。

 まるで気づかなかった。自分の身体が、拘束魔術で捕縛されているなんて。

 水星が厄介なのは、単に変身魔術の使い手だという部分だけではない。魔術師として純粋に優れている部分だ。そのことをフェオは失念していた。忘れていたわけではないが、変身という特殊な要素に気を取られすぎていたのだ。

「ばぁ――か」

 嗤笑する水星。フェオは身じろぎさえできない。

 そのとき、地面にぽっかりと穴が開く。いや、穴ではない。

 それは――口だ。

 直感的に理解できた。亀裂の走る地面が、水星にとっては口なのだ。フェオは身動きさえできず、大穴の中へと落下していく。

「噛まれて、死ね」

 水星の言葉。おそらく数秒ののちには、言葉の通りになるだろう。

 どう足掻く。身体は動かない。剣を振るえない。なら、

「う――あああああああああっ!!」

 咄嗟に、肉体から魔力を放出した。無理な魔力放出の反動で、肉体がぶちぶちと切れていく。それでも、このまま地盤に潰されるよりはマシだろう。

 魔力が吹き出す風のように、周囲の地盤へひびを入れる。できる抵抗なんて、そこまでだ。

 肉体が地面に挟まれる。地に空いた大顎が、フェオを噛み殺そうと肌を圧した。

「が――――、は」

 吐血。赤い色が地面を濡らす。内臓を痛めたようだ。強烈な圧力が全身にかかっていた。

 それでもまだ生きている。

 剣もまだ手放していない。

 それはすなわち――まだ抗うことをやめていないということ。

 魔力放出と、地盤崩壊の影響だろう。どうやら身体はもう動くらしい。押し潰された状態で、剣を振るなんて至難だろう。

 だからといって、諦めるわけにはいかなかった。


「く、あああああああああああああああぁぁぁっ!!」


 雄叫びを上げて、フェオは剣を振り上げる。剣閃などと称するにはほど遠い、ゆっくりとした力のない腕の動き。ただ魔力と筋力だけで、地盤を少しずつ割り砕いていく。

 びき、びき、びき――地面のひび割れが少しずつ進む。

 それを、渾身の力で押し広げた。少しずつ上がっていく腕が、やがて速度を獲得して、地盤を丸ごと弾き上げる――!


 大地が、裂けるように爆ぜて音を立てた。


 戒めから自由を取り戻し、フェオは跳ね上がるように地表へ戻ってくる。土に汚れた身体で、転がりながら距離を取った。ぽたぽたと口から落ちる血に、頭がぼうっと熱を持つ。

 それでも伸ばした剣の先に、けれど、水星はいなかった。

「……な」

 目を見開くフェオ。その背中から言葉がかかる。

「だから、馬鹿だって言ったのに」

 反射的に、剣を持つ腕を上げた。しかしもう、防御にも反撃にも遅すぎる。

 硬い棒が砕けるような、無機質な音が右腕から聞こえた。

 そのことを自覚するよりも早く、フェオは吹き飛ばされていく。何かが腕を強く打ち、その勢いで地面を転がっているのだ。

 打ち捨てられたように地面を滑り、跳ねながら、それでもなんとか立ち上がった。

 その瞬間、痛みが右腕に上がってくる。打たれた瞬間、剣を手放してしまっていた。

 水星に殴られたのだ。

 彼女の腕は、いつの間にか金属のような色になっている。だが、驚くべきはそこじゃない。

 フェオは、水星がいつ背後に回ったのかまるで気づくことができなかった。

 それも当然だろう。周囲に存在する、視界に入る全てが《水星》なのだから。その辺りの地面から身体を生やすことなんて、彼女にとっては呼吸のように楽な行為だ。

 そんなものは、ほとんど空間転移と変わらない。

 いや、どころかそれより最悪だ。水星は、周囲の物質全てから《自分》を作り出すことができるのだから。そんなものは、もはや無限の肉体を持っているのと変わらない。


 立ち上がったはずの足が膝を突く。体の前に、ともすれば心が折れたのかもしれなかった。

 ――勝てない。

 そう、思わされてしまった。こんな異常な存在を、どうすれば倒せるというのだろう。

 わからない。わからないわからないわからないわからない。

 剣は遠くに落としていた。腕の骨は折れている。魔力の残りも心許ない。


「……諦めるなら。もっともっともっと早く折れてくださいよう……」


 水星の言葉が耳朶を揺さぶった。けれど、その中身を意識することができない。

 頭の中にあったのは、薄っすらと淀んだ感情だけ。

 どうして。どうしてシルヴィアが、どうしてクランが――どうしてフェオが標的にされなければならなかったのか。

 その理不尽に堪えられない。

 やっと、姉の夢が叶えられると思ったのに。ようやくその手助けができるはずだったのに。

 こんな仕打ちは酷すぎる。

 抗っても抗っても、どうあっても越えられない壁があるなら――初めから教えてくれればよかった。そうすれば、夢を抱くことなんてなかったかもしれないのに。


 視界が滲む。その先で笑う水星を、もはやフェオは見ていなかった。

 数秒後には殺されるだろう。

 土台、自分には何もできないということなのか。

 かつての姉が憧れた、伝説の旅団とは違う。単なる一介の魔術師でしかない自分には、彼らのような――あの男のようなことはできないのかもしれない。

 そんなもの、知らなければよかった。

 あんなところに行けるなんて、教えられたくなかった。

 だって、そうすれば欲なんて出なかったのに。今の自分に満足して、先を見据えて絶望することなんてなかったのに。

 ――どうしてくれる。逆恨みだとはわかっていても、それでも気持ちを止められない。

 責任を取ってほしかった。それができないというのなら、せめて――。


「……誰か、助けてよ……っ!」

「――ああ。俺が、お前を助けてやる」


 答えがあるなんて思わなかった。フェオがわずかに顔を上げる。

 その向こう側に――いったいいつ現れたのか。誰かの背中が見えていた。

 古びた外套ローブ。ぼさぼさの、白髪が交じった黒い髪。そして立ち昇る煙草の煙。


「……なん、で……」

「それはこっちの台詞だ、馬鹿」

 いつもの通り、まったく優しくない声が聞こえた。

「なんでこんなとこにいるんだよ。危ないだろ、まったくどいつもこいつも……」

 そう。この男はいつだって優しくない。ヒーローだなんてとても言えない。

 口は悪いし、目つきも悪い。呪われていて、あまり自分から動こうとさえしない。

 なのどうして、いつもいてほしいときには近くにいるのか。

 そんなのは卑怯だ。ずるすぎる。都合がいいにも限度があった。

 それでも。こうして来てくれたのだ。

 そのことで、どれほど救われるかわからない。


「……アスタ」

「おう。アスタだよ」

「助けて」


 その言葉に、《紫煙の記述師》は嬉しそうに笑む。


「任せろ、フェオ」


 そうだ。アスタ=プレイアスは。

 セブンスターズの印刻使いは、いつだって、都合のいいときに現れる――。

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