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作者: 摂津守

 昼下がり、ボロ平屋の一室で男は黙々と小説を書き続けていた。男の顔は焦燥に色あせていた。締切が近い。男は必死の思いで、作業に集中している。カリカリとペンが原稿用紙をなぞる音がせわしい。


 ニャーン。猫の声。


 ペンの音は猫の声にかき消された。猫の声もペンの音も切れた。男の集中も切れた。男の目は声の主に向いた。

 綺麗とも汚いともつかない雑種の猫が庭で毛づくろいしていた。

 猫は男の視線に気付いた。目が合った。猫は純真無垢な瞳で男を見据えていた。怒りも恐怖も怯えもない、ただ、見られているからこっちも見る。くらいのものだった。


 男は鬼の形相をして、猫を睨みつけていた。怒りのあまり、四肢はワナワナ震え、目は充血し、鼻息は荒くなる。生来、男は生き物が苦手だった。特に理由はない。なんとなく、苦手だった。今まで生き物に関わらないように生きてきた。

 今この瞬間をもって、男の生き物に対する感じ方は大きく変わった。苦手から嫌いになった。理由は簡単。仕事を邪魔されたからだ。溶岩のようなドロドロとした嫌悪、憎悪といった感情が、沸々と心の底から這いだしてきた。


 男のペンを握る手に力が入る。ギュッギュと拳が真っ赤になるほどの力がこもる。

 男の目がカッと見開かれた。喉からくぐもった奇声が上がった。同時に、男はペンを猫に向かって投げつけた。

 ペンは宙をクルクル回転して、勢いよく、猫のその狭い額に命中した。猫は小さな悲鳴を上げ、即座に立ち上がって遁走した。


 男は大いに気分が晴れた。生来、嗜虐趣味のケがあった男は、この件でそれを完全に目覚めさせてしまった。仕事に追われ、抑圧され、鬱憤をつのらせていたというのも、それに拍車をかけたに違いない。

 気分は晴れたものの、仕事が捗るわけではなかった。逆に、停滞の感を強めていた。小動物を虐める快楽が染みつき、忘れられなくなっていた。その日はもう仕事にならなかった。猫に投げつけたペンを手に取るたび、あの時の快楽がよみがえってしまう。


 翌日。前日と同時刻。男は、時々発作的に沸き起こる嗜虐的快感をなんとか抑えつけ、押し殺し、机に向かっていた。集中が乗ってきたところで、また、猫の声がした。

 男は庭を見た。昨日の猫だ。酷い目にあったというのに、こりずに猫はやってきた。さすがに昨日のようにはリラックスしていない。ただ、お座りをし、男の方をじっと見ている。

 男の中の感情が爆発した。まず怒り。それから、これから行う虐待への期待、歓喜。それにより得られる快楽を想像し、胸も頭も狂気で一杯になった。男は笑いながら怒っている。醜く、おぞましい猟奇的な顔。


 男はペンを強く握った。男の脳裏に一つの思いがよぎった。ペンを頭に突き立ててやる! 男にとっては天啓のようなものだった。それが男の捻じ曲がった欲望からくる妄想であることに気付かないくらい、男の頭は、もう狂気に堕ちている。

 男はゆっくりと立ち上がった。少しの物音も立たないようにゆっくりと。呼吸も落ち着いていた。男の頭は男の人生でかつてないほど目的に対して冷静を極めていた。猫を殺す。この一点において、男は怜悧だっった。


 ゆっくり、ゆっくりと、男は足を踏み出す。ボロボロの畳が軋まないよう、薄ら積もった埃がたたないよう、慎重に、丁寧に足を出す。だんだんと、瞳に映る猫の像が大きくなる。だんだんと、男の視界に猫が広がる。男の視界に、猫しか映らなくなったとき、男は発作的に走り出していた。感情が抑えられなくなっていた。


 男が走り出したのをみて、猫は猫の早歩きといった具合の軽快で小気味よい足運びで歩き出した。

 しめた、と男は思った。これなら追いつける。

 男は猫の背に手を伸ばした。猫はピョンとひとっ跳び、それをかわした。

 男の顔は真っ赤になった。猫は速度を上げた。

 男と猫は玄関前まで来ていた。もう少しで、男は猫を捕らえられる。


 突然、猫は全速力で敷地外へと飛び出した。男はハッとなって足を止めた。猫を目で追った。猫が家の前の道を渡り切った直後に、トラックが通り過ぎていった。

 男の一メートル先に黒煙が浮いていた。黒煙は風に運ばれ、霧散した。男はゲラゲラ笑いだした。危ない所だった。と、男は思った。追っていれば間違いなく死んでいた。トラックに轢かれて。猫が俺を殺そうとした。傑作だ。

 男は一層、笑いを強めた。ゲラゲラ、ゲラゲラ、阿呆のように笑っている。


「俺が殺されるか! 猫ごときに俺が殺されるか! 所詮猫の浅知恵だ!」


 男は笑った。それが緊張感の限度を超えた時に起こる精神の防御作用だった。

 と、その時、


 ゴン。


 男は大きな音を聞いた。それはすぐ近くだった。余りにも近すぎて、それがどこからきこえてきて、どこで鳴ったのかわからなかった。音と同時に、男は倒れた。地上の感覚が希薄だった。そこが土なのか、アスファルトなのか、もうわからなくなっていた。温かいものが首を伝い、頭や顔に広がっていくがわかった。雨にしては温かい。それ以上は、もう何もわからなかった。男はそれ以上、何も考えることが出来なくなった。やがて見ることもできなくなった。目は、もう機能していなかった。ただ耳だけがやけに明瞭だった。


 倒れた男の直上から猫の鳴き声がした。それ以外何も聞こえなかった。それ以来、もう何も聞こえなかった。男にはもう何もなかった。生き物が持つ、全てのものを失ってしまった。

 屋根の上に猫がいた。たった一つ、屋根の瓦が欠けていた。ちょうど、猫のいるところだ。


 ニャーン。


 また、猫が鳴いた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 追い詰められておかしくなっていく主人公に、それをあざ笑うかのような猫。2重の仕掛け、人間よりもよほど冷静で残酷な様子に猫が怖くなりそうです。(猫は大好きなのですが)
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