第31話:全速漸進
「ちょっと外歩かないか?」と俺は美成に訊いた。「風に当たれば、気分も晴れるだろうし」
俺は嘘をついた。風なんか全く吹いていない。
「風なんか吹いてないでしょ、何の用?(俺はさすがと思った) 特に用がないならやめて迷惑なんだから、こんな夜遅くに」
かすれた声で言った後、美成が突然玄関のドアを閉めようとしたので、あわてて俺はドアを止めた。そして一言謝ってから「しまった」と思う。
「謝らないでっていってんでしょ!? あんたがそうしたいんでしょうが」
「んー……なら外歩くぞ」俺は怯まずに言った。
確かに空気は止まっていて無風状態だが、そんなことどうだって良い。まぁそれにこの状況を当てはめて考えるのなら、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
歩けば風も吹くだろうから。風を待っているだけでは風は来ないというやつだ。そんなことはないのだけど。
俺←←風×
俺→←風○
と言う図式を、俺は頭の中で思い浮かべてみた。そしてもう一度、ここであきらめるわけにはいかないと思う。理由は何だってかまわずに、美成と何か話して、決めて、進む。
ただ俺の脳みそは考える。それはほぼ無意識と勝手に近い。
一体俺は美成と何を話すのだろうか?
衣子のこと、美成のこと、俺のこと、俺と美成のこと、俺と衣子のこと、衣子と美成のこと、あるいは俺と美成と衣子のこと?
少し考えて俺はやめる。それは自覚的である。とにかく、そういう総合的な話なのだ。
美成は渋い顔で俺を試すような目で見つめ、しばらく黙っていた。不機嫌そうな顔だ。疲れてもいるのだろう目の下にうっすらと隈が見える。
俺はもう一押ししてみる。
「美成、物言わなきゃ、人間はわかり合えない、だから話そう」
美成は少し考えて言った。優越感に浸っているようにも見えるし、またそうも聞こえた。
「ふん人間は、基本的にわかり合えないの。 知ってるよね? 理解って言葉…」
俺は知っていたので美成の話を待った。鈴虫がどこかで鳴き始めた。俺は待ちながら、その鈴虫の声を聞いた。
ヒリリリリリ、ヒリリリリリ。
「それって、まぎれもなく誤解のことか、さもなければ、そうありたいって君が望む願望のことなんだって」美成は体重を載せ替えた。「それくらいは君も考えたことあるでしょ?」
しばらく、そのことについて考えてみた。確かに、俺は理解とは?について考えたことがあって、まさしくその時はそういうものだと暫定した。しかし、それならそれでかまわないと今では思う。美成がわざわざそんな話を持ち出してきた理由は、俺を退ける為ではなくそれでもいいの?と問うのが目的だろうと思う。そして俺は言う。
「じゃあ、俺はきっと、美成とわかり合いたいんだ、これは願望だな……つーか俺はそれでも良いから、俺は気にしないから、早く行こう」
美成はまた黙る。ゆっくりまぶたを閉じた。今にも泣き出しそうな悲痛な表情をしている。でも涙は目からは出てこない。そこには美成の強さみたいなものが伺えた。
掠れた声で美成が小さく言う。
「どれくらい?」「歩くの?」美成は頷く。
「少しだな」
「はっきり言って?」
「それはわからないけど、気が済むまでずっとだって良い、このままどこかへ消えるまでは無理だけど、そういう感じ……とにかく今は美成と話していたいんだよ」
今度はかなり長い間押し黙って美成は何かを考えていた。それから何かを決めたように目を開け、静かに玄関から出てきた。美成は裸足にスニーカーを突っかけていた。ドアが美成の後ろでカチャッと閉まり、俺たちを照らしていた光がなくなった。
美成はここいらでは見かけないカジュアルな制服を着ていた。これが‘あっち’の制服なのだろう。スカートは短めのチェックで、白いシャツの裾がべろーんと出ている。胸元はリボンではなくネクタイだった。女の子が締めるネクタイの新鮮さに惹かれ、俺はしばらくネクタイの乗った胸の膨らみを眺めていた。俺がそうしていると、美成がどうしたのと問うように俺をじっと見た。
俺は言う。
「それ、似合ってる」「そう?」「服が似合うって言われても嬉しくないのか?」「まぁ多少は」美成らしいなと俺は思う。そして続ける。「……なぁ美成」「何?」
「普通の人間なら、理解し合えないんだろうけどさ、俺たちならできるってそう思う」
「それも願望?」
「いや、したいんじゃなくて、できる気がするんだ、それは願望と言うよりは確信に近い」
はぁと長いため息の後に、美成は前を見据えてまた何かを考えた。そしてそのままどこかを見て言う。
「できるって思いたいっていう、君の願望かもね……」
そう言って、美成は寂しく微笑む。
俺は笑う。その寂しい笑顔を見る。それは疲れと、悲しみと怒りの影を孕んでいるが、なお美しいものだった。
そして美成が紛れもなく人間であり、血が通っている女であることを認識した。
今まで俺は、美成は黄金律の美術品のようだと思っていた。天才で美人で料理上手でセックスも良くて、スポーツもきっとできるのだろう、こんな完璧な女性を愛することができて幸せだと思っていた。しかしその観点は、心がなく、動きも笑いも怒りもしない出来のいいただ美しいだけの人形を鑑賞するようなものであったのだと、今では思う。
美成は人間である。泣きもすれば、怒りもする。だからこそ笑える。悲しみがあれば喜びがあっても良いはずだ。それくらいは許されても良いはずだ。
そしてここからまた何かが始まる。それは秋から冬に季節が変わるがごとく冷たくもの悲しいものだろうけれども、石のように停滞しているよりはずっと熱い、燃える何かであると俺は思う。 |