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優しい雨
作:北田くま


その日は雨だった。

冬の空気はただでさえ冷たい。寒さには慣れていたつもりだったが、それでも彼の体は無意識に震えていた。

濡れた毛はその地肌にぺったりと張り付いて、体温を奪う。

冷たいコンクリートの路地上で震えていると突然大きな影が出来た。見上げると傘を持った若い女性が彼をじっと覗きこんでいる。

「ねぇ、アンタ。そこ寒くない?」

それがはじめて人間にかけられた言葉だった。

生まれたときから天涯孤独。人間どころか今まで自分に話し掛ける者などいなかったので、彼は初めての会話に戸惑った。が、少し考えて

「寒いよ」

と鳴いた。

でも平気さ。生まれたときから慣れっこだから、と付け足した。

「うちに来ない?すぐそこなんだけど」

人間はすぐに答えたが、それがまた突拍子もないことだったので彼はまた戸惑ってしまった。

「猫でも大丈夫かい?」

それは彼にとって、今までにない感情だった。獣特有の警戒ではなく、敢えて言うならば遠慮のような。

「平気よ」

彼女は笑った。野良猫の彼に、初めて人間の友達ができたのだ。

人間の家は広かった。といってもほとんど他のものと比べたことがないので確ではないけれど、とにかく彼にとっては広かった。

彼女は奥の棚からフワフワのタオルを取り出すと彼の体の滴を拭き取って、

「こたつで暖まっていいわよ」

と『コタツ』を指差した。

はじめて見るコタツを前に、彼はまた悩む。

彼は人間の暖房器具には少しばかり恐怖心があったのだ。

昔一度だけ人間の家に忍び込んだことがある。その日も今日と同じような雨だった。

住人の留守を狙ってこっそりとしのびこんだ、その家には暖炉があった。

暖を求めて暖炉の炎を覗き込んだ瞬間、彼は鼻を火傷した。

その日以来、人間の暖房器具は恐ろしいものとして彼の脳にインプットされてしまったのだ。

「急に暖かくなったら火傷をしてしまうかもしれないから、ありがたいけれど遠慮しておくよ」

少しの沈黙を経て、彼は丁寧に断った。

それからいくらか暖かくなった体をフローリングの床に寝ころげて、彼は気になっていたことを尋ねた。

「どうして僕を誘ったの?」

「そうね。友達が欲しかったのよ」

真っ黒な顔に一際目立つ金色の瞳を大きくして彼はへぇ、と言った。

「友達がいないのかい?」

「いたわよ。ちゃんとね」

彼女は少し悔しそうな口調でそう答えた。

「じゃあ、なぜ?」

「友達がいたのは昨日までよ」

彼はよく意味がわからなかったが、もう一度へぇ、と毛を逆立たせてみせた。

「私ね、オカシイんですって。自分では何が変なのかわからないんだけど」

先程まで部屋の入り口で佇んでいた彼女だが、こたつの前に寝そべる彼の横に静かに座った。

「どうしてかしら。ただ彼を愛していただけなのに。友達の恋人を好きになっちゃいけないなんて、一体誰が決めたの?」

「さあ。よく、わからないよ」

「自分の気持ちに素直になりたいだけなのよ。私ね、誰が誰に恋をするかなんて自由だと思ってるから」

まだ恋をしたことのない彼にとって、それは難しい話だった。

ただ、街を歩く女子高生が「恋したい」などとはしゃいでいる会話を聞いたことがある。

街の通りを手を繋ぎ歩いてゆく、恋人同士らしき男女を見たことがある。

そんなに多くの人間が惹かれる「恋」は素晴らしいものなんだろうと信じていたのに、目の前で語る彼女は何故かとても寂しげだ。

恋って辛いものなのか。彼はそう確信した。

「だからね、私言ったのよ。彼に付き合って欲しいって。そうしたらどうなったと思う?彼どころか次の日から友達は誰も口を聞いてくれなくなったわ」

「そうなんだ。人間って、不思議だね」

「好きな人と友達を一度に失うって、ものすごく辛いことよ。寂しいなんてものじゃないわ」

生まれたときから孤独で暮らしてきた彼にとっては、これまた理解するには難しい話だった。

けれどそれを知ったらきっと彼女は悲しむだろうから、彼は思いきり耳をピンと立てて彼女の声を聞いていた。

彼女は彼が聞いているのかいないのかはあまり気にしていないようで、お構いなしに話し続ける。

辛いのにどうして人間は恋をするのか彼は聞きたかったが、彼女があまりにも勢いよく話すものだから途中で忘れてしまった。


「アンタは強いわね。ずっと独りだったんでしょう?」

「まあね。でも、平気さ。生まれたときから慣れっこだから」

「孤独じゃない世界を知ってしまった私とまだ知らないアンタ。一体どっちが不幸なのかしら」

「さあ、考えてみたこともなかった」

「アンタのように強く生きられたら、私も楽になれるのかしら。いつかきっと私も…」

彼女は小さな話し相手を抱き締めた。

急に暖かくなって彼は火傷するかと思ったが、しなかった。

あの日の暖炉とは違う暖かさだった。日向ぼっこよりも心地好い温もりのなかで、彼は彼女を見上げる。

彼女の瞳からはポロポロと滴が落ち、彼の額を濡らした。

彼は初めて人間の涙を見た。キラキラと光を反射して、それは綺麗だった。

そして今朝の雨と違い、それはとても暖かかった。

しかし綺麗なのになぜか胸が締め付けられた。

どうしてこんなにも悲しい気持ちになるのか、彼は不思議でたまらなかった。

黒猫はまだこの感情の名前を知らない。

ただ、もしも自分が人間だったなら、彼女よりも大きな体と腕を持っていたなら、と考えた。

そうだったなら優しい雨を降らすこの人間を、抱き締められるのではなく抱き締めたいと、心からそう思った。














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