第八話・愛しき人のクローゼット
春美のマンションに到着したのは、十分後だった。
正面玄関を通り、エレベーターに乗る。三階を押す。到着のベルが鳴る。その間、二十秒。ランプの変異を見なくとも、もうそろそろ降りるころだと分かる。もう、慣れきっていた。三階に着いて、右折し、僕は春美の部屋に帰ろうとする。
僕の帰るべき場所へ。唯一の正しき場所へ。
「どうして、ここにいるんだ」
僕は玄関のドアに寄りかかっている藍を目にして、問いかけた。
「ここに来るって分かっていたからよ」
僕はあからさまに舌打ちする。そして、目をそらして、藍の横で鍵を開ける。こういうときに限って、鍵は簡単には開かなかった。
「……麻斗、聞いて」
鍵を回す僕の手を素早く、優しく包み込む。僕の手にまた、切ない温もりが浸透してきた。
春の陽気に似た、そこから染み渡っていくような、柔和な太陽の微笑。
冷たい夜風に氷結した僕の手を、溶かしていく白湯。
手の甲から溶け出して、腕を上り、胸に広がって、全身へと。
僕は、その温もりを振り払わずにはいられなかった。
僕は藍の言葉を無視して、玄関のドアを開ける。体を中へ滑らせる。
「麻斗、待って」
ドアは、大きな音をたてて閉じられた。僕は、温もりの残滓を噛み締め、抜けていくのを待った。
また体が冷たくなっていく。
「そこにいるなら、答えて」
僕の足音が玄関口で途絶えたのを分かっているのか、藍は、細く、今にも消えて空気の一部と化しそうな、虫の声を僕に届ける。ドア越しの藍の声は、別れ際の恋人を思わせた。
「ううん。答えてくれなくてもいい、聞いて」
暗い闇の中で僕は、息を潜めている。
「私が、春美の代わりになれないかな。麻斗さえよかったら、私、努力する。春美に近づけるように。私が嫌なら、私ではない誰かを想ってもいい。想ってもいいから。だから、だから……」
「おやすみ」
僕は、ドアから離れ、中に入っていった。足音をわざと立てて。藍の声が聞こえても、僕は結局、玄関には戻らなかった。
僕は、寝室へ歩を進めた。枕の二つ置いてあるベッドに腰掛ける。
目の前にはクローゼットが見える。
――麻斗、この色にはこの色のほうが、明るくて春らしいわよね。
その隣には化粧台。
――悪かったわね、化粧が濃くて。これでもほかの人よりは薄いほうなんだから。
その隣には本棚。
――読む前から決め付けるのはよくない。面白くないとか、面白いとかは、読んでから言うこと。題名だけでは、その作品は判断できないわよ。
この部屋には、思い出が溢れている。
どの風景にも春美がいて、笑ったり、怒ったり、悲しんだりしている。
春美に包まれている。僕は春美の中にいる。
僕はクローゼットを開けた。中では、春美の洋服が笑っていた。おもむろに二、三着の洋服をハンガーと一緒に取り出し、抱きしめた。顔をうずめて春美の匂いを探し求めた。
かすかに、彼女の匂いがする。貪るように鼻で匂いを吸い上げた。春美の体臭。次々と洋服を引っ張り出しては山のように積んだ。僕はその山中に埋もれ、春美に溺れ、消え行く春美をとどめようとした。
まだ、春美は残っている。存在している。
春美。
僕は、自分の服を脱いで春美の服を着た。小さくて窮屈だが、春美の大きさがわかる。目をつぶって春美がこの服を着ているところを想像する。
きっと似合っているはずだ。僕は彼女に綺麗だと言えずに、黙り込んでしまうだろう。こんなことなら、もっと春美に言ってあげるべきだった。
「春美、きれいだ」
僕はそばに春美が立っているつもりで言った。彼女は照れて赤面しているはずだ。
僕は、もう彼女を保つことができない。
一年前の僕なら、確固たる彼女を保っていたころの僕なら、彼女が赤面するだろう、ということは確信を持って言えたはずだ。
しかし今となっては、それは、はずだ、と言う予想を持ってでしか言えなくなってしまっている。
時間は、残酷だ。
春美を奪っていく。
記憶には金庫と言うものがない。いわば、すべての記憶が平等に管理されている。春美の記憶の全てを保管して、そのほかの記憶を消去するということは不可能だ。原野に放置された記憶の数々が、いつかは風に飛ばされて、霧散する。春美だけを残せない。
僕は自分を抱きしめた。
この体積が春美。
春美を抱きしめているような気分になる。
次に僕は化粧台に座り、紅蓮の口紅を取り出した。春美の唇が触れていたそれを、自分のそれに塗りつける。春美と口付けている気分になる。甘く、甘美な春美の上唇。僕はいつもそこから彼女とキスをした。自分の腕にキスをする。春美にキスされているような電撃が突き抜ける。
僕はその格好のままベッドへうつぶせに倒れこんだ。シーツを握り締め、手元に引き寄せる。ここにも春美がいる。春美の汗がしみこんでいる。鼻腔をくすぐり、肺を満たす。脳天に充満した恍惚と、酩酊した僕の体。ふらふらになって向いている方向もわからない。
――靴下を脱ぎながら、私を抱くのはやめて。
上着を脱いだ僕は驚嘆し、しばし凍った。僕は上半身を春美にさらしながら、ベッドの上の春美を見下ろしていた。彼女はと言えば、僕の瞳を真摯に見つめ半分怒ったような雰囲気を上気させて、見つめ返していた。僕が呆気に取られて沈黙していると、彼女はふっといつもの表情を取り戻して開口した。
――流れ作業みたいで嫌なのよ。この私たちの行為の心底は、愛し合うことよ。快感を求めることじゃないと思うわ。快感を求めるのなら別に君に抱かれなくたっていいわ。でも私は、麻斗に、抱かれているの。いい、私を流れ作業のようにあつかうのはやめて。セックスに手順なんて関係ないのよ。君なりの、私なりの愛し方があってもいいと思うわ。例えば……縛る、とか。
僕の興奮はその冗談に凍り付いて、ついには冷や汗も凍り始めた。春美の悪戯な表情に僕は恐怖さえ覚えた。
――麻斗は……
彼女は微笑みながら上半身を起こすと、左手で重心を支え、右手で僕の髪に触れた。
――純粋なのね。
僕の頭の中には、もはやこれから僕たちが何をしようとしたのかさえ、欠片も残っていない。
――聞いて。世界には現在何十億と言う人々が生きていて、暮らしている。環境も違っていれば、人種も違う。みんな何一つ同じものはない。持っているもの、背負っているものも、みな十人十色。愛し方だってそう。一人一人違う。何十億通りという愛し方がある。そう考えれば、私たちがしようとした、鋳型にはまった愛し方なんてちっぽけでしょう。無理にとは言わないけど、自分なりの愛し方を模索してもいいと思うわ。
僕はそれ以来、自分の愛について考え始めた。
僕は今まで、セックスという行為は恋愛の延長線上にある、終着点だと思っていた。
異性を意識することを出発点とし、会話すること、触れること、唇を重ねること、その最後に体を重ねあうこの行為があって恋愛はひとつの終局を迎えるものだと。
それ以上、異性に求めるものはないのだと。
だから、セックス以上の快感、いや、愛の形はないのだと思っていた。
しかし、現代の自分たちのおかれた環境を鑑みると、それはただの通過点に過ぎないことが分かる。
愛のないセックスから始まって、そこから愛が芽生えることだってあるほどなのだから。肉体的恋愛(愛を肉体に見立てて求め合う行為と僕は識別する)を非難しているわけではない、むしろ僕は、そこを恋愛の終着点として考えるのではなく、精神的恋愛(いわゆる一般的なプラトニックラブ)という、あるひとつの愛の形を、更なる通過点として考えるようになった。しかしながら、この恋愛形態は各々の価値観によるところが大きく、その各駅停車の切符が、特急に変わることだってあるし、一生涯駅に停車したままだということもある。
終わりなど、ないのだと思う。
僕はその後もやはり春美を抱いたし、絶頂も感じた。
心地よかったし、幸せだった。
そう考え始めたころから、僕は、少しずつ春美に発見を求めるようになった。春美のへその下には、ほくろが二つあった。僕はなぜかそれがいとおしかったし、よく行為の最中にそこに目がいった。気になりだしたらそこを避けるわけにもいかなくなった。
唇から下への愛撫の途中で、僕はそこを中継地点のように用い始めた。ほくろのそばには必ず治らないあざができた。僕が春美に残した刻印のように感じられた。
僕は、僕なりの、発展途上だが、自身初めての、愛し方を見つけていた。
僕は、変わっていった。
彼女は子供に歌う子守唄のように、僕に対して優しく指標を垣間見せた。時には諭すように、時には説得するように、時には告解するように、そして時には自分の過ちを認め、他人を尊重した。さりげなく、流れの中で。
――同情は……嫌いよ。
ただ、欠点と言えるものもあった。全てにおいて寛容な彼女も、同情、憐憫と言う一点においては、非常に神経が過敏になった。
彼女は同情を嫌った。特に、その種の混濁した輝きを持つ双眸を軽蔑した。それは彼女の出生が故だが、春美自身はそれを気にしてはいなかった。
表面上は。
僕が彼女の出生の秘密を聞いたのだって、僕と彼女が付き合い始めてだいぶ経過した後、そう、春美がこの世を去る一週間前だった。
彼女は自嘲混じりの低い声で、コーヒーメーカーに水を入れながら背中越しに語った。
――私の父親は別にいるのよ。今いる父はね、母と結婚する以前に事故で睾丸を失ったの。
僕は最初、春美が何を言っているのか理解できなかった。父親が別にいる、睾丸がない、一体それが春美とどういう関係にあるのか、まったく想像も、見当もつかなかった。僕が腑に落ちない顔をしていると、彼女はコーヒーメーカーの水を入れ終え、テーブルに座って話し出す。僕の網膜を突き抜ける視線が、僕の意識を捕縛した。
――私はね……
あのときの春美の表情は、言葉では表現できない。
――試験管ベイビーなのよ。優れた学者の精子が私の元。母体も優れていないと良質の精子はもらえないんだから。父は子供を作る機能、と言うか、精子を作る機能が欠如しているから、子供が欲しいとなると、それも仕方ない選択よね。
春美はずっと僕の瞳を凝視している。
――そして母から生まれた子供は、母には似ていても、父には似ていない。訪れる親戚の人たちや、旧来の知人は、父の事故の細部を知っていたからいいとしても、生まれてから出会った人たちはみんな私にこう言ったわ。
僕は、僕の瞳が映す春美から目を逸らすまいと、気力の限り春美の眼差しに焦点を合わせ続けた。
春美から目をそらしてはいけない。
事実を真実として受け止めなければならない。
この言葉を、語句を、心象を、事象を、春美を、ちゃんと受け止めなければならない。
念じた。
――『あら、春美ちゃんは、お父さん似ね』そういって私を痛めつけたわ。私が真実を言うと、その人たちはさらにこう言うの。『お気の毒にね、辛かったでしょう』あの目で。私を見下した目で。あんたたちに私の苦しみの何がわかるっていうの、そう言ってやりたかった。見せかけだけの、お気の毒様。聞き飽きたわ。親身になった風体でそんなことを言って、私を癒せるとでも思っているなら、それは思い上がりだわ。きっとどこかで安心しているのよ。私じゃなくてよかったって。みんなそんな目で私を見下すの。目は口ほどにものを言うって肌で感じた瞬間よ。
――同情って言う字も、情を同じにするって書くけれど、同じになんかできないわ。不可能よ。分かるはずもないもの。知ったかぶりよ。そして、自分にあるものが、この子にはない、可哀想、と、私をさげすんでいる。あの目、今でも離れないわ。道端を歩っているときも、食事をしているときも、教壇に立っているときも、麻斗と話しているときでさえ、人さえいればそんな目をして私は見られている、という強迫観念があって、カビのように私の心にこびり付いているの。ひどいときには、木目が瞳にみえたり、テレビに映るニュースキャスターに見下されていたり、鏡に映った自分にも見下されているような錯覚さえ見るの。だから今まで、誰にも言わずにしまっておいた……。
僕は、目をそらしてしまう。しまった、と思ったときには、もう遅かった。
――……言わなければ、よかったわね。でも、言わなければ私は麻斗に正直になれないと思ったのよ。うれしかったわ。ここまで受け止めてもらえる人に出会えて……。
そう言って、寂しく笑い、彼女は席を立った。
後に残された僕一人の沈黙は、二人でいるときの沈黙より重く、そして苦痛を含有していた。
僕は、春美の存在をすべて受け入れることはできなかった。
春美が僕に秘密を吐露したのは、僕に受け止めてもらえると確信したからに違いない。
形として僕は、春美の期待を大きく裏切る結果に終わった。その後の春美の態度は普段とたいして変わりはなかったが、僕の態度は少なからず変化してしまった。どんな質問や、返答にも、僕は春美に対して、なにがしかの気遣いをするようになってしまった。
平等に、対等に隣に立てなくなってしまった。僕はどこかで、彼女を見下してしまったのだろうか。
――話すべきじゃなかったかもしれないわね。後悔してもいるし、していない部分もある。こんな風になるなんて思ってもいなかったから。
春美が倒れる前日の会話だった。
今もし、時間が戻せるのなら、目を離さずにじっと春美を見てあげたかった。春美のすべてを看破するような、寛大な心を瞳に宿して。
そんな、戻っては来ない過去に悔やむ僕を残し、瞼はゆっくりと現実と僕を隔てていった。
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