第七話・思い出のレストラン
レストランのウインドウには、流れ行く幾筋もの水が、重なり合って、重なり合って、大きくなって、重さに耐え切れなくなって、下へ下へと引かれていった。
雨が降っていた。
レストランの外には、急に降り出した雨に狼狽し、カバンで頭を覆いながら疾走する若者や、開き直って自転車を悠然とこぐ少年が通り過ぎてゆく。漫然と瞳に映りこむ代わり映えのしない情景が、胸にしみるように熱い。
――何でこんなに早く待っているかな……。
春美はいつも僕がこのレストランで待っていると、決まってこう漏らした。
彼女は、待つのも、待たされるのも嫌いだった。
僕は待つのが好きだったから、彼女がそう言っても当たり前のように待ち合わせの三十分前には必ずこの窓際の席を陣取り、カプチーノを注文して、彼女が待ち合わせ時刻に来るのをただひたすらに待つ。
時刻が定刻に近付くにつれ、ウインドウ前の、人の流れの中に彼女がいるのを、胸を躍らせて探した。
やがて彼女が現れると、ウインドウ越しに僕を睨み付け、無音声映画を見るように口を開閉して、言葉を伝えようとする。僕は春美が何と言っているのか分かっているのにもかかわらず、わざとわからない振りをして、首を横に振ったり、かしげたり、肩をすくませたりして、彼女をやきもきさせた。彼女は意地でもそこから伝えようと必死になってその行為を続けるから、通りすがる人々は含み笑いをこぼし、珍奇そうに僕たちを眺めては、雑踏の中に消えていった。
やがて僕のほうから折れると、彼女は大きく嘆息して、やっとレストランの中に入ってくる。
――何でこんなに早く待っているかな。
僕が、なぜ、と彼女に問うと、
――だって、そうでしょう。待っていると来ないような気がして不安になるし、待たせるのは待たせるので、君を不安にさせそうだし。
僕は春美が眉根を寄せて深刻に語るのを見ている。僕が、待っているほうが好きだ、と言っても、彼女は、
――私に悪いとは思わないの?
と言って譲らない。
――だから、待ち合わせ場所には二人同時に来るのがいいのよ。
そう言って僕たちはそこを出て行く。
言うまでもなく、僕は今でも、春美を忘れられない。
にわか雨が僕と藍を濡らしたあの時、僕は眼前に曙光の如く広がった眩しすぎる光の線上に、春美とは違った、もう一人の人物の温もりを感じた。
僕の手に、仄かな柔らかさが伝わって、とても握りやすいと感じてしまった。
僕の手中には、いつも春美の手があったのに。
僕の不安定で、平衡感覚のない精神の中にあって、唯一の厳然とした精神。その箱の中を占有していたはずの春美が、水を手ですくうように徐々に漏れ出して、そこに新しい、今度は確かな暖かさを感じるものが入り込んで、独占しようとした。
それはつまり、春美が存在しないという事実と、藍が存在しているという事実に他ならない。
幻想が、実態ではないように、実態もまた、幻想ではない。
その違いは、歴然だ。
触れられるほど近くにいるのに、僕の手は春美を通り抜けていってしまう。僕の心の眼下に広大に広がっているのに、寝転がることもできず、ただそこにあり、眺めているだけ。
展示されたオブジェのように。画廊に飾られた絵画のように。捕獲された保護動物のように。
触れたいのに、触れられない。話したいのに、話せない。愛したいのに、愛せない。
春美が近いようで、遥か遠い。
「お客様、お下げしてよろしいでしょうか」
ウエイトレスが、僕の隣に立ちながら告げる。僕は、また同じコーヒーを注文して、ウエイトレスを下がらせた。
このレストランは、僕と春美がよく待ち合わせに使っていた場所で、春美がいなくなった後も、当たり前のようにそこにあった。大学の講義が終わると、僕はここで人生の一部分を費やしている。空いてしまった春美との予定を消化するために。本当ならば、今日も春美とここで待ち合わせているはずだ。
僕らは、毎週土曜日になると暗黙の了解で、ここで待ち合わせていたから。でも約束の時間が過ぎても、春美がここへやってくることはない。
彼女はちょうど一年前に蜘蛛膜下出血で、この世を去った。意識を失う直前まで僕は春美の手を握っていた。
突き刺すほどの目、微動だにしない身体、春美の体温、息遣い、唇の動き、克明に記憶している。夢にまで、見ている。
夢の中で春美はいったい何度、僕の前から消えていったのだろう。繰り返し、繰り返し、その部分を夢は見せる。見せ付けるように。
夢を見るという行為そのものには、二つの理由がある。ひとつは恐怖を緩和させるため。もうひとつが記憶を鮮明にする促進剤的役割だ。その二つの理由のうち僕はいったいどちらに属するのだろうか。僕はどこかで、春美を忘れたがっているのか、それとも、今以上に愛したいのか。
答えは、すでに分かっている。
心の表面では分かっている。
正しいことも分かっている。
だが、僕はその答えを出すことを嫌悪している。倫理に縛られた人間主義。偽善的で、吐き気がする。
「麻斗。やっぱりここに」
僕は外の風景から声の主に視界を反転させた。
「……藍」
僕がつぶやいた後、彼女は僕の向かいの席に座った。襟元が大胆に開いた、黒い薄手のニットウェア。黒いライン刺繍の入ったスカート。
白と黒の対比が、僕には善悪の対比に思えた。
彼女は、すぐさまウエイトレスをつかまえる。
「彼と同じ物を」
「かしこまりました」
ウエイトレスは、店の奥へ消えていった。僕と春美は、いつもここで同じコーヒーを一杯飲んだ後に、店をあとにする。
「麻斗」
僕は、視線を合わせずに外の風景にまた焦点をあわせた。
「……まだ立ち直れないの?」
「……その話は、聞きたくない」
「麻斗……」
今度のは、軽い溜息混じりだった。
「時間はこうしている間にも刻一刻と過ぎているのよ。止まってばかりはいられないの」
ウエイトレスがカプチーノを持ってきた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「え、ええ」
水をさされた形になった藍は、歯切れが悪くそう答えると、早速カップに口をつけた。
「……」
外の雨は、降り止む気配が全くなく。
「毎日講義もあるし、試験だって近付いている、単位取得や、卒業論文のことも視野に入れなくてはいけないし、いい加減前進しなければ、何も解決しないわ」
車の水飛沫が中年男性のスーツにひっかかって、足元が泥だらけになっていた。中年男性は自分のスーツの汚れに気づくと、顔色を変えて車のバックライトめがけて怒鳴っていた。
男の落とした漆黒の傘が、風に連れられて動き出した。
「麻斗、聞いているの」
色彩豊かな傘が、道端にゆれている。春美は、傘を持っていないことがほとんどだった。天気予報が降雨を告げても、持ってこなかった。僕が言っても持ってこなかった。
結局、雨が降ると、二人で走った。彼女は、濡れるのが好きだったのかもしれない。
――案外、濡れてみるのもいいでしょう。子供のころから、わざと水溜りを見つけては、飛び込んで遊んでいた。長靴の中が水であふれて、足に張り付いて。洋服を濡らして遊んだのよ。もちろん帰宅してからこっぴどくしかられたけれど。
笑いながらそんなことを言っては、ビニール傘を買おうとする僕の手を強引に引っ張って雨の中を散々連れまわした。
濡れ鼠の僕らは、雨に翻弄されている人々の間にあって、唯一雨を純粋に楽しんだ。次の日僕は不覚にも風邪を引いて寝込んでしまった。
――雨に嫌われたわね。
そんなよく分からないことを言う彼女が、翌日僕の枕元にいた。
「ねえ」
藍は僕の頬を両手で挟んで無理やり藍のほうを向かせた。僕はその行動を、露骨な表情で嫌悪した。
「……ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
藍が手を離しながら、許しを請う。僕はそんな藍の媚びるような仕草に、怒りに似たものを感じた。藍が嫌いなわけではない。しかし、今の僕にとって彼女は目障りな人間に過ぎない。彼女の小言や、聖人めいた忠告、助言、説法は、分かっているだけに、分かりきっているだけに苦しい。
そして僕の気に触ったと見れば、すぐにこれだ。
下から見上げるような、ねだるような目。僕を惨めにさせる目だ。
「だったら、帰ってくれ」
「その前に、話を聞いて」
「聞きたくないって言っただろ」
彼女の言葉を耳にするたびに、激昂のボルテージが上昇していく。
「でも――」
「帰れ」
僕は怒りの波を抑えることもしないで、テーブルを拳で思いっきりたたいた。テーブルの上にあった調味料や、カップが音を立てて倒れる。藍は泣きそうな表情をたたえながら、歯を食いしばっていた。僕は周囲を見渡して、他の客が僕への忌諱と、藍への同情に瞳を染めているのを感じ、テーブルに千円札をたたきつけると、そのまま藍を置いてレストランを出た。
僕は、荒れている自分を知っていて野放しにしている。もうどうでもいいという開放的で、アナーキーな気分が、今の僕の現状だ。
「麻斗、待って」
遠くから藍のパンプスの音と、叫喚が響いてきた。僕は振り向かず雑踏の中に消えようとする。わざと人ごみの中に入っていく。藍が僕を見失うように。
「麻斗」
そのあまりにも悲痛な叫びが最後だった。泣いているような少し上ずった声だった。
――麻斗、君は少し、子供っぽいところがあるわね。
昔、春美は僕と藍が喧嘩したことを知ったあとに、こう言った。
憂慮のこもった声と表情で。
僕は子供っぽいという言葉を訂正しようと躍起になった。僕にとって、子供という表現はだらしない、情けないという意味の代名詞になっている。一人では満足に立つことも、歩くこともできず、他人に甘えてばっかりで、そして従順。僕は確かに、そういう人生をかつて送っていた。だがそれが、その忌まわしい過去があってこその、今がある。春美との今があった。
春美は続ける。
――だって、彼女の言葉を受け入れようとしたことなんてないじゃない。今話してくれたことだって、藍ちゃんのほうが正しいと、私は思うわ。麻斗のしていることは……そうね、例えて言うなら、反抗期の子供よ。正しいのに、先に言われてしまったから、反抗するしかない。従うことに対して嫌気がさしている。きっと麻斗は彼女にこういう捨て台詞を吐いたんじゃないかしら。その話は聞きたくない。どう、当たった?
僕と春美が喧嘩したのは言わずもがな。
しかし、今からすれば、それは正鵠を得ている比喩だった。
悔しかったのだと思う。
僕は正しいことを言われてしまった悔しさに、反抗をしたのだ。屁理屈は、駄々をこねる子供と同じ。論壇から去るのは、自分が間違っているのを理解しているから。そう、悔しいことに、僕はまだ子供だ。親指をしゃぶっている子供だ。
素直になれない。今までの自分を変えられない。人はスイッチではない。容易に自分の性格を切り替えられない。
こと、僕に関しては。
僕は、人いきれの中にあって、一人冷め切った、ある意味では、まったく退廃した心象を持って、幽鬼が如く歩き続けていた。
駅前通りでは、ストリートミュージシャンが、思いのたけをメロディに託し、熱唱。
聞き入っている若い女性が、聞き終わった後に笑顔を浮かべて、喝采。
待ち合わせの男性が、待ち人が来ない不安からか、電話。
高校生の男女が、バスが出発しそうなのを知って、疾駆。
男子数人が、道端に座り込んで談笑、そして、爆笑。
裏通りに入ると、一年前の新聞が丸められていて、一面に載っている当時の有名人が、困った顔で写っている。今では廃れて、テレビの特集でも組まれない限り、その姿を世に現すことはない。ゴキブリが入っていた空き缶は、潰されていて、蹴り飛ばすとゴキブリが排水溝に落っこちていった。
濃い化粧の女が我が物顔で歩いてくる。胸を強調した衣装は、さながら私は娼婦であると公言しているようだった。
すれ違うと、甘い香水の匂いが鼻につく。僕には合わない匂いだった。
――香水は、つけない主義なのよ。教師である以前に。
ショウウィンドウに並べられた大小さまざまの香水を手に取ってから、春美は言った。
――私には、私の匂いがあるからよ。人にはね……生物の先生の受け売りだけど、人には、その人独特の体臭があるのよ。体臭は、漢字で書くと、臭いっていうイメージがあるでしょ。でもね、匂いっていうのは、五感の中でも、とても重要視されるものなの。考えてみて、視覚と聴覚をふさがれた時点で頼れるのはまず、嗅覚でしょう。それで、その人独特の匂いだけど、匂いにも人それぞれの嗜好がある。特に体臭には。自分の匂いが分からないのは、きっと他人にそれを嗅いでもらうためではないかしら。自分で分かる必要がないから、他人には分かる必要があるんだって。私が香水をつけないのは、私の匂いを、いい匂いだって思ってくれる人に出会うためなのよ。匂いの嗜好が一致している人は、きっと何かの運命じゃないかって、そう思えるのよ。
春美は、人とは違っていた。思考や、視野、寛大さ、どれをとっても人一倍だった。僕が春美に惹かれた理由のひとつに、それがあげられる。
人がどうでもいいと思うことでも一生懸命に考える。
些細なことでも、事の心理を探求しようと努力する。
そんな春美の姿を眺めるのが好きだった。
――麻斗の匂い?
僕は春美に自分の匂いのことについて聞いた。
――そうね……出会った時……。
腕を組み、指を上唇に当てる。
ちらり、と僕に目を向け、にやり。
――危険な匂いがしたわ。
と言って笑っていた。
裏通りを抜けた僕は、春美のマンションのある通りを遅々とした速度で、味わうように歩いていた。春美のマンションは近い。
――きれいな銀杏ね。
黄金に色づいた銀杏に天を遮られた二人は、秋の夕べを楽しんでいた。落ちてくる銀杏の葉を手でつかもうとするたびに、風圧でするりと手のひらから落ちていく。あるがままに葉の落ちる軌道に手を置いておくと、銀杏は自分から飛び込んできた。逆らわず、自然のままで。
――逆らわず、自然のままで。いい言葉ね。
僕が銀杏の葉のつかみ方を説明している途上に出た言葉に、彼女は感心しながら深くうなずいた。
――逆風だって、自分の向きを変えれば追い風になるものね。麻斗には、いろいろと気づかされるわ。
銀杏は、今はおとなしく秋が来るのを待っている。
また秋が来れば、僕の頭上に黄金の雨を降らせることだろう。
また……秋が来れば。
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