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鎖状の楼閣
作:NAO



第六話・彼の見てきたもの


「春美?」
 玄関へ走る。
「春美!」
 僕が玄関のドアを開けると、そこには藍がいた。
「……」
 彼女は黙然と僕を見上げている。目はどこか悲哀に満ちていて、小さなバックの取っ手を握り締める両手には、力が入っていた。僕は、苛立ち焦る心に何とか鍵をかけて、こんな所でもなんだから、と言って藍を中へ入れた。とりあえずは、藍を食卓に――春美の席に藍は座った――つかせ、飲み物を出した。藍は湯気の立ち上るコーヒーを冷まさずに口に含むと、少し逡巡した表情を見せてから嚥下した。
「……麻斗」
「待って、電話」
 藍の言下を遮るようにして、けたたましい電子音が鳴り響いた。僕はキッチンの壁に取り付けられている受話器を取る。
「はい、もしもし」
 答えたのは春美の母親だった。彼女は、僕と春美の交際を唯一、真摯に受け止めてくれた人で、春美の父親と口論になる春美の仲裁に入ってくれたのも彼女だ。今こうして平穏無事に春美と暮らせるのも、彼女のおかげと言っても過言ではないだろう。
「麻斗君かい? 元気そうで何よりだよ……」
 その声は、どこか暗鬱としていた。もしかすると、春美の事だろうか。
「春美の事は……どうだい」
 図星だったようだ。僕は狼狽し、どう言ったものか迷う。もしかしたら、春美は今実家に帰っているのだろうか。だとしたら、僕の春美に対しての何かが原因なのだろうが、思い当たるふしが全く無い僕には、皆目見当がつかない。
「どうなんだい……」
「……大丈夫です」
 言ってしまった。これは嘘ではない。断じてない。春美の心境がどうであれ、僕が彼女を傷心させるような言動をとったとは考えられない。しかし、僕がそう思っていても結局は春美自身がどう受けとめているかであって、決して僕は言い訳など出来る立場ではない。加え、春美の母へ報徳するどころか、もしかしたら泥を塗ってしまったかもしれないので、焦る。僕は、母親の叱責を受けるために身構えるが、叱責はいつまで待っても発せられなかった。
 それどころか……。
「……ならいいんだけどね。声が聞けただけで十分だよ。……頑張るんだよ。こんな年増に出来る事なら、なんでも言ってちょうだい」
「はい、おそれ……いります」
 といった会話が成り立った。
 春美が実家に避難した説は否定されたわけだ。僕は溜飲が下がる思いで息を吐くと、受話器を戻した。これで、また春美は行方知れずだ。僕は、後頭部をしかめ面で掻きながら、今後の僕の運命を思慮する。
 そして、はたと気付く。
 藍がここに来ているのは何が目的だ。
 僕の脳中に新たな推測が持ち上がる。藍は、春美の、使い、かもしれない。春美が僕に直接言うことが出来ない言葉を言うために、代弁者として藍を使わせたのか。有り得ない話ではないが、藍が春美に協力的でないのは思慮の内だ。
 かくして僕は、春美がほんの半日、何の連絡も伝言も無しに外出したというだけで、これほどまでに大人気無く、それこそ親とはぐれた迷子の様に、惑乱してしまうのだった。
 本当は、春美は僕が一昨日言ったCDを買いに出かけただけかもしれないのに、僕はそんな自分を安心させる予測さえ出来ないのだ。どうしても邪推ばかりしてしまう。
 僕は、未だに自分が子供である事を思い知らされた。年齢は立派に大人になっているのに、性格は見事に子供を表している。腹中で猛獣が暴れ狂って、僕の弱さを責め立てた。僕はすっかり藍の事を忘れて思念没頭していた。
 僕が藍の事を思い出す事になったのは、自分の腑甲斐無さを認め、第三者、つまり藍の助けを得ようと思い立った時だった。
 恋人同士の問題――僕の思い過ごしかもしれないが――に他人の力を借りるのは不本意だが、僕に選択の余地は無かった。一刻も早くこの夾雑的な心を取り除きたい気持ちで一杯で、ともすればこぼれてしまいそうな僕の春美への気持ちを、春美の心身に注ぎ込みたい衝動に駆られていたからだ。
「藍、春美が今どこにいるのか知らないか。今朝まで一緒にいたはずなんだ」
 意外にも、藍が返してくれた答えは、僕の探し求めていたものだった。
「知っているわ。春美の居場所」
 

 空は驟雨の様相を呈していた。灰色の雲に一瞬にして蹂躙された蒼穹は、今にも泣き出しそうだ。
 藍は春美がいる場所を知っているらしく、僕をそこまで案内するという。僕は言われるがままに彼女の車に乗りこんだ。まもなく発進し、薄暗い公道を車が疾走し始める。
「……春美から言われたのか。僕を呼んでくるように」
 藍は毅然とした態度で前方に目を馳せるだけで、答えようとはしない。僕は悶々と腕を組んで視線だけ藍を貫いていた。
「春美は僕に何も言ってはくれなかった。昨夜もそうだ。二人でいた時には、そんな素振りは見せなかったのに。藍、教えてくれないか。春美は今どこにいて、何をしているんだ。藍、お願いだ、藍」
「……中学校以来ね。そんなに一生懸命私の名前を呼んでくれたのは。確か、私がリレーのアンカーで、麻斗からバトンを渡された直後だった。必死の形相で『藍! お前なら抜ける!』って」
 愁容で語る藍。
「高校に入学してから、麻斗は春美の名前ばかり呼ぶようになった。私の名前を呼ぶ回数に反比例して。恋は盲目とは、言い得て妙ね。麻斗は私の気持ちをほったらかし」
 僕は藍の真意を図りかねた。今更過去を蒸し返すつもりは無い。僕は今幸せなのだ。春美の存在しない過去など、思い出す必要も無い。僕が思い出すのは、二年前、高校の卒業式からだけでいい。鼻水をすすり上げていた、だらしのない少年時代など、思い出しただけでも嫌気がさす。
「……やめてくれないか、嫌いなんだ。その頃は」
「春美ね。そうでしょう? 彼女の記憶だけ保管しようとしているんでしょう」
「……ああ」
 僕が肯定すると、藍は唇を噛んで押し黙り、暫時、運転に集中した。
「着いたわ。ここよ」
 そこは、墓地だった。ここに春美がいる。しかし、なぜ。
「こっちよ」
 藍に先導され、墓碑の間隙を縫う様にして闊歩する。僕はかつてここへ来たような気がした。春美と二人で来たのだろうか。どこかに春美がいる事は事実だが、依然としてその既視感が、僕の頭をもたげていた。突然、前を歩いていた藍がこちらを振り返る。
そして、藍は言った。
「麻斗、春美よ」
 果たして、それは何であったのか。藍の視線を辿った先には、春美がいた。
 春美の墓碑が。
 手の込んだ冗談だと思った。僕は笑いを零す。勿論、質の悪い冗談に対してだ。
「ふざけるのもいい加減にしろ。早く春美の所へ――」
「麻斗」
 真率な声が僕の行為を遮った。
「麻斗の瞳に何が映っているのか、私には分かっている。でも――」
 決意に顔を強張らせ、藍は言いきった。
「彼女は一年前に死んでいるのよ」
 藍の言葉を起端に、ついに雨が降り出した。
「麻斗、あなたは知っているはずだわ。それなのに、現実から逃げている」
 春美がすでにこの世に存在しない。それは、絶対的な嘘であり、虚言以外の何物でもなかった。もちろん、僕がそんな嘘を信じるわけがない。
「だが僕は、春美と昨夜、話をした。それが嘘だって言うのか」
「ええ、嘘よ」
 雨が一段と勢いを増した。服に染み込んでいく雨が、僕の身体を残酷に冷やしていく。墓碑の上で、僕の肩の上で、乱暴に雫が跳ねる。
「夏目春美は、去年の今日、蜘蛛膜下出血で倒れ、即時入院。そしてまもなく、麻斗が、看取った。奇跡的にも、麻斗は死ぬ寸前に春美の声が聞けた。脳が硬化してしまう前だったのが唯一の救い――」
 藍の言葉を待たずして、目の前が明滅する。そして、唐突な脳への衝撃に僕は顔をしかめた。
 雨が、僕の心を情け容赦無く打ち付け、苛む。
 ――麻斗……私は……麻斗に愛してもらえて……幸せ。でも、私に拘泥しては駄目
 そして春美は。
 春美は、帰ってきた。二人の住む場所へ。
 僕がマンションで待っていると、春美が、
 ――ただいま。
 と、日頃のトーンの高い声を張り上げて帰って来た。そして、春美は僕の瞳の中で特別、輝いた。僕の肥大する愛を受け止めるように、彼女はいつも僕の傍にいてくれたし、笑顔を燦燦と振りまいた。今でもそうだ。あの部屋に戻りさえすれば、春美は僕を笑顔で迎えてくれる。春美の居場所はここではないのだから。僕は、春美の死という厳然たる事実を歪曲させていたわけではない。ましてや、記憶の片隅に鍵をかけて封印してしまったわけでもない。今、僕は冷静だ。だが、それでもその冷静の中に純然たる春美の姿があるわけで、墓碑などはこの場に存在こそすれ、現実ではない。虚構の混じった冗談でしかない。
「冗談も、いい加減にしてくれないか」
 藍は、僕を悲しそうに見つめている。その目が嫌悪に満ちているような気がした。まるで僕のほうが夢を見ているといわんばかりの瞳の色だ。黒く湿っていて、澱んでいる。暗闇に対する目の動き。僕を邪険に扱っているような、憐みと軽蔑に固執した目。
「なら聞くわ。春美は食事をした?」
「春美は小食だ。もともと食べる量は少ない」
 瞳の色がいよいよ濃くなっていく。藍が何かに呑まれていく。それは、殺意に似ていたのかもしれない。
「春美は外出をするの?」
「僕が、大学に行った後に、家を出る。だから、僕は見ていないが、春美は時間を厳守する人間だ」
 藍の顎から、雨の滴が垂れている。地面に到達するころには、それが雨なのか雫なのか、判別することさえ困難になっていた。墓と墓の通路は、むき出しの地面と砂利だ。土砂降りの雨に耐え切れなくなった大地が、苦しそうに水を表面に吐き出している。やがてそれは、小さな流れになり、墓の囲いに沿って流れ始めた。低いほうへ、低いほうへ、傾斜と水の関係は、いたって単純明快だった。
「春美は、麻斗になんて話すの」
「それを藍に言う必要があるのかな。これは、僕と春美のことであって、藍に話すことじゃない」
 水の筋が、僕の体と藍の体を、執拗に舐めていく。冷たい舌で、凹凸に沿って舐めていく。服の上であっても、露出した肌の上であっても。僕がそこに立っている限り、藍がそこに立っている限り、雨というサディスティックな現象は、執拗さを失わない。
 藍が、突然頭をかきむしり始めた。身をよじるように激しく頭皮を痛めつける。僕は、狂乱した藍を止めに入る。頭皮に牙をむく手を受け止めた。爪には赤い血が付着しており、爪の隙間に長い髪の毛が入り込んでいた。爪の上の赤い血は、直ぐに雨によって色彩を薄められ、透明になっていった。藍は僕の目を必死に見つめる。そこに隠れている害虫を威圧して、追い出させようとするかのように。
「現実と、虚構の違いは何。私の見ているものが虚構だというのなら、麻斗の見ているのは何。春美は何なの。春美は死んだのよ。確かに死んだの。覚えているでしょう。私が病院まで乗せて言った日のこと」
 頭が痛む。軋むような痛みだ。無理やり型にはめようとするが故の、削られる四辺。そぎ落とされた邪魔な部位は、粉になっている。
「病院に着いたとたん、麻斗が車を飛び出していった。私がその後を追いかけていったときには、麻斗は春美のベッドの傍にいた」
 ドリルで削られるような耳障りな音がする。脳が微妙に振動しているようだ。揺れるのは脳だけではない、世界が揺れている。雨が二重に降り、乱立する墓碑の林も、その数を倍化させている。
「その後直ぐ。その後直ぐに春美は亡くなった。分かるでしょう。春美は、質問に答えられるような状態ではなかった。傍にいるのが麻斗かどうかも分からなかったのよ。脳自体がおかしくなっていて、言葉を認識するだけでも時間がかかったはずよ。認識していたかも定かではない」
 白い病室は、まるで大きな棺桶のようで、白いヴェールが春美の顔にふわりと舞い降りる。春美は目を開けたままで、強い意志を瞳の奥で燃やしていた。光を失うさまは、僕の体を硬直させていくほど、衝撃的だった。稲妻にでも打たれたかのように僕の体を何かが駆け抜けていった。
「みんな心配してくれたわ。友達みんな。麻斗が窮屈になるのではないないかって思えるほど、気を使っていた」
 春美の葬儀は、淡々と進行していった。春美の実家は狭くて、車で葬儀に参列する人たちの難儀になるからと、葬儀場を借りた。名札がかけられた、花の乱舞。無表情で無機質な坊主の読経。焼香をあげる参列人。黒い服。匂い。涙を流していた春美の母は、壇上で花に囲まれた春美を見ては、また泣いた。参列者に声をかけられ、生前の思い出を語られては、また泣いた。涙が、式場の絨毯に染み込んだ。
 僕は、泣いてはいなかった。
「春美の葬式に、私、参列したわ。クラスの人たちみんな来ていたじゃない。麻斗も、そこにいたわ」
 僕は、そこで中央で微笑んでいる春美の写真を見ていた。見つめていれば何らかのリアクションがあると思い、見つめていた。突然ウインクをするかもしれない。瞬きをするかもしれない。それは、僕と春美の我慢比べだった。
「春美の匂いは麻薬なのよ。麻斗を狂わせている。それは、あのマンションにあって、今も麻斗を蝕んでいる」
 僕は葬儀の最中も、終了してからも、泣かなかった。涙一つ、目頭を押さえることも、熱くなることもなかった。
 僕は、泣かなかった。
「麻斗、春美のいた場所へ行くのは止めて」
 葬儀の後に、マンションに戻ると、そこには疲れきった顔の春美がいた。だがそれはいつもの春美ではなかった。春美は、表情が少なくなっていた。記憶を辿っているような仕草が目立った。新しい振る舞い、言葉、それらは完全にどこかへ消え、旧態依然な春美がいた。
「春美の記憶が、そこに氾濫している。記憶が春美を見させている」
 僕の春美が記憶による産物というのなら、薄れていく春美の記憶は、時間によって殺された。僕の瞳に映る春美の姿を、次第に漠然とさせていったのだ。先ず、彼女の表情。印象の強い笑顔以外の表情を忘れさせていった。日に日にそれが累積していった。そして、今朝、実像に見えた春美が、事実上消滅した。今あるのは、断片的な彼女の思い出であり、フィルムだ。あらゆる場所で映し出される、フィルム。それは現実ではなく、過去。その名を、思い出。
 春美は、いない。しかし、春美は生きている。
 僕は藍の手を離し、春美の墓碑に向き直った。藍は、僕が手を離したときにはもう、先ほどのように自虐することもせず、弛緩した体をそこに凝然とさせたままだった。
 僕は我知らず、呟いた。
「……春美……」
 雨の音が、よみがえってきた。いつごろから雨音が消えていたのか分からない。雨の道筋は視界に映っているのに、その音は消失していた。僕と藍の声だけがそこに流れていた。
 その時、立ち尽くす僕の左手に、温かい感触が伝わった。
後ろから、藍が僕の手を優しく握ってきたのだ。長年感じられなかった温もり。なぜ、切ないと感じるのか。
「……春……」
 言葉尻は、もはや声にはならない。
 卒業式に告白した記憶が逆流してくる。
「春美先生、僕はあなたが好きです。これ以上、無い、というくらいに」
 僕は、僕以外の誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
 春美は、達観した様子で僕の眼前に立っていた。
 ――そうか…そうなんだ…勇気が無くて言えなかったのは、私。麻斗君の方が、よほど私より、大人よ。
 そして、軽く頷いていた。
 僕は、空を仰ぐ。
 春美は死んだ。
 しかし、僕は、そのとき、それを頭では分かっていても、理解はしていなかった。
 いつのまにか、雨が止み、雲間から数条の光芒が大地に陽を注いでいる。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
この小説は一度ここで終わったはずでしたが、その後紆余曲折あって長編に書き直しました。誰に見せたいわけでもないのに、日記のように書き続けました。結果的に掲載してしまったわけですが(苦笑)
そんな作者ですが、評価、感想、栄養になります。











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