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鎖状の楼閣
作:NAO



第五話・チャイム


 二人で暮らすマンションに着き、玄関のドアを開ける。
 家中真っ暗だった。
「春美」
 名を呼ぶが、返事が無い。僕は、今度は呼ぶだけでなく、歩き彼女を探した。その途中、手のつけられていない朝食を目にする。
 春美は、寝室にいた。
 ベッドに背をもたれさせながら床に座っている。
「どうして電気をつけないんだ」
 僕が言うと、春美はその部屋の窓から空を見上げていた細面を僕に向け、婉然たる笑みを見せた。僕は、その美しさに目を奪われる。おそらく彼女が見上げていたのは空ではない、月だ。その証拠に月光が彼女を包んでいる。これが竹取物語なら、月に帰ってしまうところだ。僕は、春美の隣に腰を下ろした。
「満月か。藤原道長の気分だ」
 ――この世をば、我が世とぞ思う、望月の、欠けたることも、無しと思えば。
 僕は、この満月のように幸福で満たされていた。春美だけが、この世のすべてであり、欠けることのない完璧な存在だった。
 春美は、僕の肩に頭を持たせかけた。そっと覗くと、儚げな笑みが浮かんでいる。月よ星よと春美の相好を眺めながら、僕は彼女に聞いた。
「そういえば、春美の好きなミュージシャンのCD売っていたけど、買わないのか。いつも発売日当日に買っていたんじゃないのか?」
 春美は僕の肩の上で小さく頷く。
「……なら、僕が買ってこようか」
 僕が言うと春美はまた僕に笑顔をくれた。
 春美の笑顔ほど癒されるものは無い。
 他人に与える笑顔とは違う、僕への笑顔。目を細めて、口角を少し広げて、眉を微かに下げながら、頬が形良く動き、平穏や安息をない交ぜにした笑顔。社会のしがらみ、不安、焦燥、嫉妬、苦痛。それら全てから僕を救い出してくれるだけでなく、居場所までも僕に所与してくれる笑顔。出来ることなら僕と春美を鎖で繋いでずっと近くにおいておきたい。彼女の笑顔は僕にとって人生で唯一つの宝物。
「夕食にしよう。直ぐに出来るから」
 言いながら、僕が春美と手を繋いだままキッチンへ歩いていこうとすると、するりと彼女の手が離れた。僕が振り返ったと同時に、春美は開口した。
 今日は、いつものトーンの高い声ではなく、か細い声だった。
「麻斗……私に拘泥しては駄目」
 僕は怪訝に眉をひそめるが、春美はそれ以上何も言わなかった。
 それが、とても気になった。
 次の日、僕が目覚めたのは、太陽がまさに天頂に昇らんとする頃だった。僕はのそのそとベッドから体を起こすと、けだるさと鉛の様に鈍重な頭を引きずって、食卓へ向かった。
「春美」
 しかし、彼女からの応答は無かった。
 そして僕は、箸のつけられていない夕食を目にする。ラップすらされていない。僕は、夕食をしばし見詰め、茫洋たる頭で考えた。最近、春美が食事をしている姿に出会った記憶が無い。彼女の小食は毎度の事だが、それにしても絶食はいくらなんでも度が過ぎる。もしかしたら僕のいぬまに食事を取っているのかもしれないが、朝、夕と食事を抜くのは、人間ならば苦痛のはずだ。生活のもといとして衣食住が謳われるように、人間の三大欲求として飲食、色、睡眠が謳われるように、食はその中核を成しているのだから。
 ダイエットの可能性を考えてみる。
 が、やはり有り得ない。春美の身体は、十人が十人痩せていると答えるほど、線が細い。抱き締めた時のあの感覚といったら。僕が愛しさの余り強くしてしまえば、壊れてしまうのではないかと思えるほど、弱々しいのだ。
 なら、彼女はなぜ食べる事をしないのか。僕の料理が口にあわないのか。僕が彼女の気に触るような事をしたか。それとも、彼女は何らかの病気なのか。
 僕は早鐘にせかされて、食卓の周りをぐるぐると回っている。
 春美は、何を考えているのだろうか。
 僕は自分の頭を拳で叩く。一瞬でもよからぬ妄想をしてしまった自分自身を許せなかった。僕は春美を信じている。彼女に限ってそんな事は無い。春美は純粋で誠実だ。嘘をつくことを何より嫌悪し、同様に、同情や憐れみを何よりも忌諱する。春美は僕に、
「嘘は何も生まない。生むのは虚構だけ。虚構はやがて消滅する。そして、そこに現れるのは、孤影悄然として居場所を失った一人の人間。私は麻斗に嘘をつかない。君に嘘をつくことは、私の心に嘘をつくのと同義だから」
 と言い、またあるときは、
「同情ってね……重いのよ。私の触れて欲しくない部分に触れてしまって謝罪される時、一番そう感じるの。気を使われていると感じるのは、とても辛い事なの」
 と、言った。物事は信じる事から始まる。僕が彼女を疑ってはいけない。
 しかし、心変わりが、人には存在する。
 馴れに対する飽きがある。
 春美が僕を好きでいてくれる確証がどこにあるというのか。
 思えば、僕に何も言わず春美が外出したのは、これが初めてだ。僕に言えない事でもあるというのか。あるとすれば、それは何か。
 春美。教えてくれ。春美。
 春美が本心で会話しているのか。僕は知らない。
 僕を愛しているのか。僕は知らない。
 春美を愛する僕の心は真実だ。なぜなら、ここにある。僕のこの気持ち。この不安。春美を欲している僕。これを愛していると言わずに、何を愛していると言えばいいのか。
 だが、春美自身の心は。春美は僕を愛してくれているのか。
 僕のような気持ちになったことはあるのか。無かったらそれは…。いや、考えたくない。春美は僕を愛してくれているはずだ。言葉や身体でそれを表現してくれた。
 だが、僕はそれでも足りない。二人抱き合った後のあの空虚感。このまま存在自体が必要としなくなってしまうような、えもいわれぬあの空虚感。これは、それと酷似している。
 愛している、でも足りない。
 身体を重ねあった時の恍惚感、絶頂感でも足りない。
 僕は春美と一つになりたい。それこそ、身も心も。肉体などという心の鋳型枠を捨て、心という名の液体を混ぜ合わせる。それこそが、今僕の求めているもの。
 しかし、それは不可能。
 不可能だからこそ僕は、春美を求めなくてはいけない。僕は春美を愛している。その事実。
 彼女を探し、彼女の肌に触れ、声を聞き、笑顔を見る。失態を晒した時のはにかむような笑顔でも、まずいと悟ったときの苦笑いでもかまわない。どんな笑顔でもいいから確認しよう。
 春美の笑顔が僕の居場所。彼女が今、どこで、何をしているのか、僕には分からないが、もし僕が春美にとっての居場所であるのなら、春美はきっと僕の傍へ帰って来る。そして、いつものあの燦爛とした笑顔で一言、
「ただいま」
 と言ってくれれば、僕も、おかえり、と強く優しく彼女を抱擁しよう。
 それだけで、この胸を突き刺すような苦痛や、頭をもたげる邪推から解放される。僕が、皆の言う、大丈夫、になれる。
 
 ――そして、チャイムが鳴る。












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