第四話・一目惚れ
国語教師、それが春美だった。恋は盲目とはよく言ったものだ。古典的に言えば、紫の上に出会った光源氏のような、前世からの因縁、契り、ゆかり――いわゆる運命的な一目惚れだ。
とえりあえず僕は春美に気に入られたい一心で、国語の授業――春美は古典――だけは、一生懸命傾聴したし、テスト勉強も他教科以上に時間を割いた。僕は、彼女に僕の名前を呼んで欲しいというささやかな願いのために努力したのだった。
そして、三年間の片思いの末、僕は卒業式のまさに当日、春美先生に思いの丈を打ち明けた。
何と言ったかは、ずっと心の中に秘めている。
――そうか…そうなんだ…
この後に続く彼女の言葉もだ。この言葉こそ、世界中で唯一、僕のために彼女が発してくれた最初の言葉であり、僕だけのものなのだ。
誰にも話さないし、紙に書き留めるつもりも無い。
僕の心中に一つだけ、あればいい。
その日から、春美先生は、春美になった。
その後、大学進学を果たしていた僕は、春美のマンションから大学が近いのもあいまって、彼女のマンションに居候――同棲かもしれないが――することになった。結果、今の僕がある。扶養されていない、と思う。大学の費用は別として、生活費はバイトで、家賃代わりに炊事、洗濯、掃除は、僕がしている。
とは言え、大学の費用は別として……と言っている時点で扶養されているのだ。
しかし、自己満足程度にはなった。仕送りなどと両親に依存していない。僕は今、独力で歩いている。そう考えていたからだ。
が、やはり春美の家に住んでいる僕は、まだまだ歩行器無しでは歩けないわけで、結局子供なのだ。
バスを待っていた僕に声がかかったのは、腕時計に視線を落とした時だった。バスが停車する場所に、軽自動車を横付けして、快活な声を発する。
「麻斗、遅刻でしょう」
運転席から助手席に身を乗り出しながら聞いてきたのは、同じ大学の宮沢藍だった。
「空き缶を捨てたら、乗り遅れた」
僕はそう吐き捨てた。しかし、それと一緒に罪悪感まで吐き捨てられたことに、僕は少しだけ気持ちが楽になっていた。
藍は、不理解を示す皺を寄せ、僕を見つめた。
藍とは、幼稚園からの仲である。
家が近かった事が縁で、僕と彼女は幼馴染、かつ、ある程度気心の知れた親友であった。
ある程度、といったのは、中学校までがそうだったからだ。
高校に入学してから僕は、藍とはほとんど話さなくなった。僕が、彼女から離れていったのだ。友達間で交わされる会話の隅に、時折藍の情報が入る程度で、あとは藍のことなど考えもしなかった。それでも、家が近かったために何度か会話しないわけにはいかなかった。
藍は、同い年のくせに妙に年上のような、単純明解に言えば、保護者のような物言いをしていた。妙に鼻につく話し方だった。記憶が確かならば、高校に入学してから、その色が現れた。思い当たる点が無い訳ではない。
高校入学当時の僕は――あまり口外したくは無いが――子供だった。
背丈、声音、面、性格、その僕なる人間の構成における重要なファクターが、子供を体現させていたからだ。そんな僕を見かねて、藍が保護者ぶっていたのなら、中学校時代からそうであってもおかしくはないはずだが、この色は、何度も言うようだが、高校から始まったのだった。
だが、僕は変わった。
進化したと言ってもいい。春美という女性との邂逅で、僕は心身ともに成長したのだ。
古典を猛勉強する、不明瞭な点が出てくる、春美に質問する。この一連の作業を僕の日課にすると、僕は嬉々として春美に会いに行った。時には、十分理解している問題なのにもかかわらず質問した事もあった。
――麻斗君。
この響きが甘美だった事を今も覚えている。想起する度、こそばゆい感慨に顔がほころんでしまう。
つまり、藍が僕を子供扱いするのは、実際僕が、高校の初めの時期まで精神的、身体的に子供だったからだと推測される。しかし、判然としないのは、藍が何のために、そうするかだ。そういえば、藍は春美をあまり良く思っていないふしがある。それに、どことなく藍が春美に似たような立振舞をしていたような気がしないでもない。ここ一年間は、特にそれが顕著だ。
「麻斗!」
藍が、僕を呼んでいる。僕は、バス代が節約できるので、彼女の厚意に甘える事にする。そして、しきりに反芻する。バス代節約のために乗るのであって、決して子供染みた甘えではない、と。
僕が車に近付くと、藍は助手席のドアを押し開け、僕を受け入れた。
発車した車は、やがて赤信号にさしかかり、停止する。僕は、特別藍と話す話題も無かったので、閉口したまま。暇を持て余すように、視線を外に投げていた。
次に僕は、この車内に灰色の帳が下りていることに気付いた。息苦しい事この上ない。話すことが全く無いのだ。春美となら、こうはならない。けれど、藍は別だ。
藍は、春美ではない。
しかし、一年ぐらい前まではあったのだ。ここでその原因になっていたのは、藍の表情。どこか物悲しい。消えかかった炎。陽炎のような、声。
「麻斗、大丈夫?」
こちらに向けた微笑と声には、愛惜がある。気を使っているとも取れる。だが、その瞳の色は一体何を意味しているのか。一見優しい火を灯してはいるが、内包している火は、もっと別なもの。
そう――憐憫だ。
僕に対して、大丈夫、と言ったのは、僕の顔色が悪いからだろうか。
多分、そうなのだろう。
藍との付き合いは春美より長いのだから、僕の顔色の微妙な変化に気付いても不思議ではない。むしろ、信憑性がある。とりあえず、僕は藍に言葉を返すことにする。
「元気だよ」
僕は取って付けたような笑顔で、いい加減に手を振った。
「……そう。良かった」
いっそう藍の表情に悲色が広がったのは、僕の思い過ごしだろうか。
このやりとりは、実は今日に始まった事ではない。
僕が大学二年生になる前、大体一年前くらいからだと思う。藍に限らず、友人などからも時々言われるようになった。そろって、
「大丈夫か」
「元気か」
などと口にし、そろって心配そうな声音で、そろってぎこちない挙措で、そろって哀憐を称えた瞳なのだ。その度、僕の気分は萎えるし、空気の色が仄暗くなる。だから僕は、彼らが何かやましい事を僕にしたのではないのかと考えている。だが、そんな邪推ばかりしても事態が好転するわけでもないので、僕は諦めも乗じて笑顔で対応している。しかし、そうすると逆に彼らは、深い哀切を目尻や頬に刻む。きっと重要な事実なのだろうが、知らぬが仏と、僕は考えた。
「……麻斗」
藍が、僕の名を呼んだので、僕は走り出した前の車のナンバーを眺めながら、先を促した。
「……」
僕はこの僅かな沈黙から、藍が当初の言葉とは異なる言葉を繕っていると分かった。だてに長年親友をやっているわけではない。
「……良い天気ね」
と、彼女が言ったとき、僕はそれを確信した。
その日の大学の帰り、僕はビタミンの混合された錠剤を買った。
春美の今朝を心配しながら、僕は僕の体調と春美の体調が取り越し苦労であることを祈った。
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