最終話・三人の時間
蝉時雨が聞こえていた。
油蝉の鳴き声が、僕の肌をかきむしる。それは太陽の仕業だったが、僕には蝉の仕業のようにも思えた。
新緑の美は、木漏れ日に比例する。そう僕は思う。木陰に作られる小さい光の区画は、まるで氷河期の終焉を告げる雲間の光のようにも思えるからだ。
曙光と呼ぶことの出来るそれが、僕の人生や、物事の新たな出発の縮図に思えた。
しかし、この場所は違った。ここは、生の終着駅だからだ。汽笛を上げる列車も無ければ、車掌もいない。もちろんプラットホームも。
人生行路。
僕らは、人生という列車に乗っているのだ。
黒地に緑の斑紋を持つ蝉が、みいんみいん、と鳴いていた。
僕の目と耳には、その鳴き声と、光が散乱していた。
僕の歩いた後には、砂利が、その靴跡をつくっている。砂浜を歩いているようだった。敷き詰められた砂利が通路であることを表している。
十字路を何度か曲がって、僕は太陽を正面に捉える。
僕の探していた場所はそこだった。
専用駐車場からあまり離れていないというのに、僕は長い時間をかけてここまで来た。要領の悪い道のりを辿ってきたのだろう。
ここは、迷路のようなところだ。同じようなビルが立ち並び、通路に地名も無い。ジオラマの世界は、驚くほどに簡略化された世界だった。
太陽は、僕に語りかけようとはしない。蝉もそう。自分を誇示しているだけだ。それを、子供が虫取り網を振り回して蝉取りをしている。
このジオラマの周辺は蝉にとって、集会場のような場所である。ちょうどいい高さと、清涼さ、木陰もあって、移ろいやすい。
子供の無邪気さゆえの残虐さから逃れるには、格好の場所。
蝉は、子供たちの愚鈍さを小馬鹿にするように、お尻から水をひっかける。子供はそれに奇声を上げて悔しがり、捕獲心に火を点す。
虫籠には、すでに何匹もの蝉が捕獲されているが、蝉はそれが牢屋だと知っていても鳴くのを止めなかった。
人生を精一杯謳歌しているようにも見えた。
たとえ囚われの身だろうと、時間は存在し、謳歌すべき時代もある。
蝉にとってそれは、鳴くことであり、それは木の幹だろうが、虫籠の中だろうが関係ないのだろう。
僕には、それが羨ましく思えた。
自分の目的を果たすという一途な気持ち、その部分にだけ。蝉は、数年地中にいて、たった一週間だけ地上の空気を味わう。
僕は沈思する。
蝉はなぜ鳴き、なぜ一週間しか生きられないのか、その儚さを。
究明することはしない。むしろ、そうすべきではないと思う。
それが蝉の美しさであり、切なさだと思えるからだ。ただ、一瞬でも本当の輝きを放つことの出来る蝉は、僕にとってはやはり羨ましい存在であった。
花が供えられていた。
特製の花瓶に、真新しい花が生けられていた。定期的に誰かが訪れているのは明らかだった。
よく見れば、供えられた花に空蝉がつかまっている。目は透明で、殻の内側まで見通せた。
羽化してしまう前の蝉は、地中で一体何を見ていたのだろう。そして、どんな夢を見ていたのだろう。
数年という長い夢。その中で何を見つけ、何を感じていたのだろう。
彼らは、それを羽化してもなお覚えているのだろうか。
僕は覚えていた。
ただ、彼らと異なっているのは、それが夢か現実かという一点だけだ。
夏目春美は、確かに死んでいて、彼女の墓が今、僕の目の前にあること。
それが、夢ではないことを語りかけてきていた。
初夏が牙を剥く。日差しの雨を降らせる。肌を焼く光の雨だ。石の肌もすっかり黒く焼けていて、溶かした鉄板のように熱かった。
目を遠くにやれば、あまりの熱に陽炎が立ち昇る。ビルや木が、まるで海草のようだった。ビルに彫られた名前を見れば、夏目春美と彫ってある。
僕は、ここへ来なければよかった、と思った。
蝉が鳴いている。子供のはしゃぎ声が聞こえる。ここは熱いし、汗が滲む。足元から、太陽から、熱の板ばさみ。
僕は、これが、夢ではないことを悟った。
近くの駐車場に車の止まる音がした。砂利をかき分けるタイヤ。擦れあう砂利の音。エンジン音が炎天下に消える。閉まるドアの音。
僕は春美の墓碑を見つめながら、それらの音の推移を聞き取っていた。
やがて、水の流れる音がした。桶に水を入れているのだろうか。おそらく墓に水をかけるつもりだろう。その証拠に杓子をとる音がした。墓を清めるための、月日の垢を落とすための清水を汲む音だ。
蝉と、子供たちの間に、微かな清涼感がこだまする。水の流れる音は、その音だけで、人の心を洗い流してくれるようだった。
少なくとも、僕にはそう感じられた。
砂利を踏みしめる人の足音。誰かが僕のほうに近付きつつあった。
僕はとっさのことに、我を忘れた。それが誰であるか分かっていたからだ。
知っていた、と言い直してもよかった。
僕は春美の裏側に、春美の背中にもたれる形で隠れた。
太陽は僕を確実に捕らえていた。
足音が、春美の前で止まった。
「暑いわね」
最初、僕に話しかけているように思えて、肩を震わせた。自分の肩幅と、春美の幅を比べながら、僕は藍に発見されてはいないのだと、僕に対しての言葉ではないと、安堵した。
「今日は、あなたの二回忌よ」
そう言って、藍は、桶に杓子を入れたようだった。
水の揺れる音が、耳に涼しい。
藍は、杓子を春美の頂点で逆さまにした。杓子から零れた水が、その裏側にいる僕にまで及んだ。髪の毛の上から僕は、水にまみれた。その点では春美も同じだった。僕の薄着に水がしみ込んできた。毛先から落ちる水滴は、僕の視界を縦に裂く。
「なのに私は何度もここを訪れている。この世で一番嫌悪すべき人のところへ」
声には、普段の藍からは想像できない感情がこもっていた。
「麻斗のことを覚えている? 墓の中にいても、麻斗のことを考えるの?」
春美は、何も答えなかった。
水が蒸発した肌には、汗の一滴も無い。
それが今の春美なのだった。
四角柱、物々しい様式の楼閣になってしまっている。
「私は、考える。私は、麻斗に嘘をついているから。それも、人生で最大の嘘。あなたが、まだ生きていて、麻斗と出会っていない、という嘘。春美は、笑う、それとも怒る?」
春美は答えない。沈黙が、夏の喧騒の中にある。
「怯えてもいる。麻斗が真実を知ることを。私を支えてくれなくなる日が来ることを。いつか、私は麻斗と結婚するかもしれない、そう考えてみることがある。でも、決まってその答えは全て同じなの。私は、麻斗とはきっと結婚はしない。その前に終わってしまうような気がする。原因は分からない。でも、きっとそうなってしまうような気がするの」
僕の頭に、春美の熱がやけどするほどほど伝わってきた。
口を閉じている間はそこに存在するのに、口に出してしまった瞬間に、存在しなくなってしまうものは何か。
僕は、かつて聞いたこの問いかけを思い出していた。
あのときの僕の答えは、マニュアル通りに答えただけの、感情のない答えだった。
藍が言いたかったことは、きっと春美のことだ。
口に出すたびに、自分の中の何かが確実に削ぎ落とされていく。
それは、身体であり、心であるのだろう。
藍にとって春美はそれほどまでに巨大な存在だった。
「春美の場合も考えてみるのよ。不思議なことに、あなたが、麻斗の子供を腕に抱いている様子が、ありありと浮かぶの。麻斗に似て、きっとかわいい赤ちゃん。麻斗は、きっと出産に立ち会えない。麻斗は、見かけよりも臆病だから……。春美なら――知っているわよね」
僕を襲った水が、乾いていく。見えない水蒸気になって空へ上っていく。
「春美は、麻斗にとって最良の人。愛し合うことの出来る人」
藍が、微笑した気がした。
きっとその微笑は、何度か見たことのある微笑に違いなかった。
「浜辺で、私、聞いてみた。私は美人かって。麻斗は、答えてはくれなかった。ずっと、あなたを探していた。それが幻だと分かっていても、麻斗はずっとあなたを探していた。それだけ春美が愛されていることが、ただ純粋に羨ましかった。そして――」
頭の上に残る水滴が、微温湯に変わろうとしている。
今日の日差しは、真夏のそれに近い。初夏だというのに、本年度最高気温を記録しそうな勢いに思える。熱せられた春美に接しているから、僕の体温も同時に上昇しているのかもしれない。
「痛かった」
涙声になった言葉。その言葉と言葉をつなぐ間に、藍はいくつもの痛みを再確認しなければならなかったのだろう。
出てきた言葉は、沈痛で、震えていた。
「こんな言葉があるわ。死人に口無し。あなたは今、語らぬ者になったけれど、同時にこうにもなったわ。死人に朽ちなし。まさに正鵠を得ている。とんだ皮肉。あなたは、麻斗の中では死んでいなかった」
僕は足下に視線を落としてみる。蟻が僕の膝まで上ってきていた。触角を動かして、この場所を探っているのだろうか、ぐるぐると迷いながら、僕の上半身を目指している。
「だから、私は、自分でも信じられないようなことをしてしまった。あなたへの愛情を痛いほど見せられてしまったから。痛みが数倍にもなった。だから、この胸の痛みから逃れられるなら、と思って、あなたと麻斗の部屋を……」
あの時僕の歩く傍を横切った、巨大なトラックがそうだったのだろうか。
「許してほしいとは言わない。それが正しかったと思っているから。あなたは、ここにいて見ているだけの人になってしまった。現実には干渉できない人になってしまった。私は、出来る。後釜だと言われてもいい。私には、それしかなかった。春美、どうか……」
静寂が、三人の間を流れた。こうして、三人が一堂に揃うのは、初めてだった。
そして、おそらくこれが最後。
僕はそっと、春美の横から藍を見た。藍は、手のひらを合わせて深く合掌していた。
神聖な風景に思えた。誰も近づけない聖域のように思えた。
「安らかに」
合掌の手を解放した藍は、目を開けてそう言った。僕はその藍を見て、また春美の背中に、自分の背中を預けた。
蝉の大合唱が、とめどなく続いている。
子供の笑い声が、まるで夢の世界のような出来事に思えてくる。
藍は、桶を持ってこの場を去るようだった。杓子が桶の中に沈む音がした。桶と杓子がかち合う音がする。
遠ざかっていく。
「言い忘れていたけれど……」
藍が、春美を振り返った。その目には涙が湛えられており、今までに無い美しい藍がそこに存在していた。
「浜辺でね、麻斗が言った言葉」
藍は涙を湛えたまま、生まれ変わったかのように初々しく、瑞々しく、笑った。
「私はね、麻斗にこう問うたわ。私と春美、どちらを本当に愛しているか。その答え」
僕は手のひらを庇のようにして額に当て、影をつくった。
隠すために作ったその庇の下で、僕は、汗ではない、かけられた清水でない、もうひとつの透明な水を流していた。
僕は、喉が自分の意識とは無関係に痙攣するのが堪らなく嫌だった。それが、その行為の証拠となることを理解していたからだ。
蝉時雨が、僕の声を隠してくれることを願った。
藍の髪が、風に揺れる。
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