第四十三話・初夏
不思議な夢を見ていた。
藍が、墓参りをしている夢だった。僕の視点からの夢だったが、僕は透明人間にでもなったように、藍からは視認されなかった。
徐々に接近していく視界。
藍は、しばらく黙祷した後で、墓碑に視線を合わせ、合掌した。
僕は藍の周囲の情景に見覚えがあった。
細かい砂利に覆われた通路。碁盤目のように区画整理された墓。
夜か昼か判別できないおかしな世界。それは夢だからだろう。
藍は合掌を終えると、墓碑を両手で抱きしめるようにして、額を墓碑に密着させた。
そうすれば心が伝わると思っているかのようだった。
そして、何事かを囁いた。僕は聞き取ることができなかった。
それだけ小さい声だったし、もしかしたら、それは聞いてはいけない言葉だったのかもしれなかった。
そこで、夢は終わった。
「麻斗、起きて。授業は終わっているのよ」
僕の背中を揺すって藍は僕を起こした。寝覚めは最悪で、頭の中で除夜の鐘が鳴っているかのようだった。藍が二重に見え、さらに、霞んで見えた。
僕は冴えない頭をコインランドリーに置いてある洗濯機のように、勢い良く旋回させた。洗濯後の衣服のようにすっきり爽快、とはいかなかったが、大分冴えていた。
しかし、頭痛だけはどうにも回復しなかった。
まだ洗濯機の中で回されているような気分で、脳が蕎麦のように、まな板に乱暴に打ちつけられていた。
「ほら見て」
藍は、僕に講堂内を見るよう促した。
藍が促すのも当然だった。僕と藍以外は、まったく人気が無く、そこは空洞のように静まり返っていた。
ただでさえ広い講堂に二人きりというのは、どうにも寂しい構図だった。
「麻斗が良く眠っているからそっとしておいたけれど。ここまでが限度よ。次の授業がもう始まってしまうの。それとも、また一緒に講義に来て、そこでも寝る?」
藍は、呆れたように腰に手を当てて聞いてくる。
「いや、次は僕にも授業がある」
「そう」
「ついてきてほしかった?」
僕は藍に聞いた。
「少し」
藍は、自分の瞳を挟むように、指と指で空気を摘んだ。藍の白いクリアケースに入った参考書と、ペンケースが空洞内に音を響かせた。
それは、この講堂の端にまで届くような、透き通った音だった。
「じゃあ、後でね」
藍は、楽しそうな背中を僕に見せた。
理工学部の実験がこれからあるのだそうだ。僕は、ここから少し離れたところにある人文学部棟まで戻らなくてはいけない。バスを使わないと、学部間の移動が困難なのがこの大学の悪いところだと、僕は思う。
周辺地図を開けばその差は小指から親指程度の距離だが、実際の距離はそれとはかけ離れている。
僕はこれからそこへ向かう。当然、藍の助けを借りることは出来ないから、バスだ。
僕は、自動販売機でペットボトルを一本だけ買って、バス停に歩くのだった。
再びやってきた初夏は、それが初夏とは言い難いほど熱波を見舞っている。
バスに乗ることは日課だった。
だがそれは、大学に進学してからのことだ。高校時代の僕の通学方法は自転車だった。傾斜は僕を苦しめ、自転車と併走することになった。自転車は坂までは利便な乗り物だが、坂の中腹に差し掛かると、ただのお荷物と成り下がっていた。
それが、三年間続いた。
自分でも太腿が硬くなったと思う。ジーパンのサイズを選んでいるとき、僕はウエストのサイズはあっているのに、太股の箇所でぱんぱんに張ってしまうのだった。仕方なしに、大きめのウエストを選ぶのだが、そのたびにすその丈を短くしていたから、僕は足が短いのだとばかり思い、それが劣等感になっていた。
だが、身体測定の座高のときにその雲は晴れた。
藍は、今頃あの横顔で講義を受けているのだろうか。
バスに揺られていると、色々な思考回路が活発に動く。僕と藍のこと、幼いときの思い出。高校の一時的な確執。懐かしい思い出があった。
バスが停車した。乗っていた老婆が、下車していった。小銭が投入される音が、僕の座席にも聞こえてきた。その老婆の後ろに控えていたサラリーマン風の大男が、老婆を見下ろしていた。老婆は年のわりに背筋が伸びていて、過去の美しさが推測された。
それに対し、サラリーマンは、大男の習性なのだろうか。天井に届きそうな頭を庇うために前屈みになっている。
どちらが本当に年を取っているのか、僕には分からなかった。
年齢は若さを決定する要素ではない。
姿が、若さを決定する要素なのだ。僕は今でもそう思っているし、正しいと思っている。
僕にそのことを教えてくれたのは。
僕にそのことを教えてくれたのは、夢だった。
夢に現れた、夏目春美だった。
全くすれ違うことの無かった人生。
本物の春美は、今高校で古典の授業をしているのだろうか。
思えば、いつから僕は夢を見ていたのだろうか。
僕には、その夢の始まりがどこなのか分からなかった。高校時代に春美を見初めたときだろうか。
それとも、道端で見た人を春美と名づけて、そうしたのだろうか。どちらにせよ、それは霧中の真実だ。
バスが道路の段差で弾んだ。車体が軋む。
僕は、車窓を眺めた。そこにあるのは町並みだった。見飽きた町並み。もう語るまでも無い、町。
そこにあるのが当たり前すぎて、僕には他の新鮮さを求めることしか出来ない。
それが、藍と僕のようなものであろうか。
幼い頃から時を同じく生きてきた僕と藍。藍は僕の全てを、僕は藍の全てを知ろうとしていた。だから、共有するものは共有し、欠如しているものがあれば分け与えて、平等にした。それが、当然の行動に見えた。
僕が、藍と別れるまでは。同級会で再会するまでの空欄が、今僕と藍の新鮮さなのかもしれない。
僕は自分で考え自分で笑った。足元に苦笑いを作った。
僕と藍が、全てを分かり合っていたわけではない。幼い頃から、僕と藍は喧嘩をしていた。それは、理由があったわけではない。理由と銘打つほどの理由でもないからだ。
きっかけは、些細なこと。もしも、僕と藍が分かり合えていたなら、喧嘩も、話し合うことも、笑いあうことも、泣きあうことも無かったはずだ。
全てを知っていることほど、つまらないものは無い。
僕と藍がこうしていられるのは、お互いに分かり合おうと、完全に理解しあえなくとも、それに近付こうとしているからだ。
僕は、藍を好きだ。
だが、その好きは、愛とは違う。
このまま大人になって藍と結婚することになっても、それは今と変わらない生活が続くだけだと思う。
僕が藍とこのまま生きていけるかどうかは、僕には予想がつかない。
未来の展望ができない。灯台の上に立っていたとしても、視界の先は深い霧で埋め尽くされていて、見通せない。
僕は藍とは結婚することは無いと思う。
それを知っていて、恋人同士でいるのだと思う。
別れることを知っていて、二人でいるのだと思う。その時その場面で愛し合っていても、このままその愛が一生続くとは当人も思ってはいない。
愛し合ったときに分かる終幕の予感。
身を削るようなもの。
人生の長さを思えば、その恋や愛も刹那的なもの。
いくつもの恋があれば、その数だけ別れがあった。
手をつないだときには考えないことも、手を離したときには考えてしまう。
それが、終わりの始まりであり、次の恋までの長い時間の始点なのだ。
僕は確かめたくなった。
ある場所へ行って、確認したくなった。
そこを訪れることで、確信を持ちたかった。後ろ髪を引く元となるその髪の毛を、切ってしまいたかった。
だがら、急に――ややもすれば、ずっと思ってきたことかもしれないが――確認したくなったのだ。
今日の天気は、快晴。
雨の降る予定は無い。気まぐれで雨の可能性もあるが、今日の雲に悪意は無い。
山の向こうには、壮大な雲の大群が控えているが、その到来を肌で感じるのは夕方のことだろう。町は、初夏の日差しに汗をかいている。通りを歩く人たちがハンカチで額の汗を拭い、太陽を睨み付ける。手で作ったサンバイザーは何の効力も無い。純白の日傘の下には、白色肌の女性。アイスクリームが店先で溶けている。子供の持つ風船は、新装開店の百貨店のもの。何百という風鈴が、音色を風に託す。
水色、白色、赤に、黒。そんな風鈴たちのアンサンブルが、このバスの中にも聞こえてきそうだった。弓に紫色の布をかぶせた団体は、やはり僕の母校と熾烈な争いを繰り広げた弓道部。弓が、街路樹をかすめていた。
緑に染まった葉が散る。
初夏だった。
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