第四十二話・藍と二人で
僕がここにある世界を現実であると実感するようになってから、一年近くが過ぎた。
僕はまた、大学に通うことになり、単位も何とか稼ぐことが出来た。
これは藍のおかげもあったが、単位を取ることは大学生である以上、当然の義務だった。
藍は、僕を大学に車で送っていくと、口を何度も開けたが、僕は首を振った。
僕は甘えることが出来なかった。
久しぶりに実家に帰ったとき――それが現実であったのか確かめるすべは無いが――僕は、両親とその家に甘えていた。
一杯に吸い込んだ家の匂いは、僕を堕落させるには、十分な量の催眠剤を含んでいた。
僕は自室のベッドにうつ伏せになると、枕に顔面を埋めた。それは気持ちのいい、天国のような気分だった。それを味わうことに対して、抵抗していたのが可笑しくなるほど、強烈な怠惰が襲ってきたのだ。
僕の薄弱な意思は、家の中では通用しない。
せめて家の外にいるときぐらいは、立派に自立した人間でいようと思ったのだ。
だから、決まった時刻にバス停のベンチに腰を下ろしている僕を見て、藍は残念そうにアクセルを踏む。
雨風関係なく、僕はバスに揺られたのだった。
相変わらず友人たちとは仲がよかった。
友人に紹介された他大学の女性は、確かに素敵な人だった。
気立てのよさそうな、淑やかな女性だったと第一印象では記憶している。友人に連れられていったカラオケボックスに彼女はいたのだった。
僕は藍に殴られるような悪夢を脳裏に描きながら、その場にいた。
だから、僕はその女性が僕の近くに座ることを、慎重に辞退した。僕は、友人の顔を立てるためにそこに出席していたのだった。
藍には黙っておくべきだったが、僕は今後のことを考えると、どうしても自白せずに入られなかった。
僕は大講義室の最後尾の席に、藍と一緒に座っていた。僕はその授業を履修していなかったが、聴講という形態をとって、藍の授業に邪魔をしていた。
僕は友人との事の次第を藍に小声で告白した。
藍はそれを聞いた瞬間、髪の毛が逆立った。怒りと分かる、単純な暴走だった。
勢いよく立ち上がった藍は、僕を睨み付けてこう言った。
「自分の胸に手を当てなさい」
握り締めた拳が、羽化する卵のように震えている。どうやら、忍耐力を最大限に引き上げているようだった。
怒りが勝るか、忍耐力が勝るか。
僕の言葉はそれを逆撫ですることにしかならないので、僕は沈黙の人形と化す。一度ならず、二度までも、僕は浮気に近い行いをしたのだから、藍にとっては堪忍袋の尾がどんなに太くとも、その太さはもはや小指一本程度しかないだろう。
僕が鉈のような物で切りつけてしまったのだから、太い綱も後一太刀だ。
「そのとき麻斗はどう考えていたのよ」
「今のようになってしまうこと。いや、それ以上のこと。言ってしまった以上、何を言っても言い訳になる。ただ、言っておきたかった。隠すことが終わりの始まりだと思う」
藍は、空気の抜けた風船のように力を抜いた。だが、一閃が僕の頬を閃いた。
「言ってくれてありがとう。でも、これで許したことにはならないわよ。私は怒っているの」
藍は、沈静化しつつある怒りごと椅子に座って、黒板に視線を戻す。シャープペンシルの握られた左手と、藍の横顔。
そこからは特待生奨学金を得るほど学業成績のよい藍であることの、何か証のようなものが見て取れた。
藍は、僕とは比べ物にならないほど優秀であった。僕を見つめていてくれることですら、不思議でしょうがなかった。
藍には、もっと優秀で自立心に溢れた、僕とは正反対の人間が似合っていると、僕は考える。
藍は僕の友人男子にも、すこぶる評判がいい。藍は、美しくなっていた。僕にそれを列挙することは出来なかった。もし出来たら、きっとノート一冊分になってしまうだろう。
友人たちの弁を書き連ねていっても、皆が皆色々な美を挙げているからだ。
では、僕自身の気持ちはどうかと、問われるとする。
しかし、僕は挙げることが出来ない。
それは長らく傍にい続けたせいもある。家族内に、それが無いように、僕は藍に美しさを見出せなくなっていたのだ。
僕にとって藍は、かけがえの無い存在であり、それは恋愛に似てはいるが、少し別のものだ。
それを言葉で表現するのは、難しい。それに見合った言葉が見つけられない。僕の語彙力の乏しさが悔やまれる。
だが、その未知の言葉の理解はしていた。
心臓を取り巻くその膜が、きっとそうなのだろう。僕を正直に、誠実にさせようとする効能を持っているそれが、その言葉の意味なのだろう。
音楽を聴く前にその解説を読んでも意味が無いのと同じで、その言葉を聞いても実際にその感情を体感してみないと分からない。
僕がここでそれを言葉にしようと試みているのは、僕の気持ちの整理なのだろう。僕の記録として、残しておきたいのだろう。後世の子孫に伝えるのか、来世に遺伝子の記録として伝えるのか、それはまだ分からないが。
話は飛んでしまったが、藍は、僕とは釣り合っていない。
友人達が口を揃えるように、僕は果報者なのだ。藍にとって僕は、足を引っ張るお荷物的存在なのかもしれないと、時々僕の無能さに呪詛を吐く。藍に再会した高校時代の友人は僕に言った。
「宮沢から、卑猥な想像が浮かんでこないよ」
それは、僕の初恋の相手と付き合っていた友人だった。再会した彼は立派な若手実業家として、人生を風靡していた。
「とにかく出来ないんだよ。不思議だけどな。どんな腰のラインをしていて、どんな胸の形をしているとか、どんな男とどんな態勢で事に応じているか、とかな。全く想像できない」
相変わらず藪から棒の友人の態度に僕は辟易したが、数多の女性を腕の中に抱いてきた友人にとっては、不思議なことだった。
今でも、両手に花を抱いている友人は、確かに自他共に認める好青年だ。卑猥な好青年というのもどこか無茶ではある。
しかし、その言葉がかたにはまっているのが実業家である友人のすごいところだった。短く刈られた髪は若々しく血気に溢れた感を醸し、高級ブランドのスーツを纏い、そこから見せる独特の所作は、色気を感じさせる。
それは同性から見ても、目尻が垂れるほどのものだった。
特に、ポケットからタバコを取り出すときの、胸に手を入れる仕草。銀製のライターを甲高い音で開けてから、火をつけるときの手の中の火。火の色を映した口から広がる肌の濃淡。煙の最初の一吐き。車をバックで入れるときの、後ろを向く姿。助手席に首を回し、右手はハンドル。運転を預けていることが、直接に命を預けていることにも連動しているのだろうか。そうしてバックで車を駐車させるときの友人の、首筋にある筋肉の張りと横顔は、惚れ惚れするばかりだった。
そこに色気を感じたのは僕だけかもしれないが、僕にはそれが友人のステータスなのだな、と思ったのだった。
その友人をして、藍の卑猥な想像はしがたい、と言わしめるのだから、藍には特別な何かがあるのだろう。
僕はそこでも思ってしまうのだった。
僕は藍に釣り合っているのだろうか、と。
「僕は、藍に釣り合っているのか……」
僕は、つい口に出してしまった。頭で声にしたつもりが、口に出てしまっていた。
藍は僕の言葉を聞いて、シャープペンシルの動きを停止させた。
僕のほうをゆっくりと見つめるその姿は、僕に何かを問いかけているようで、信じられない、といった驚愕の表情をも感じ取れた。
事実、藍の表情はそれと同じで、その瞳の広遠には哀切さえ込められていたのだった。
「それを決めるのは麻斗ではないわ。そして、私でもない。決めるのは、私たちと関係の無い他人。でも、それは問題ではない」
藍が、数ミリずつだが、僕に近付いてきているのが分かった。口は高炉のように燃え滾り、言葉は炎のように熱い。
「どうしてそう思うの。私には、麻斗がどんな人間にしろ、麻斗しかいない。私の、隣に、いるのよ。決して、後ろにいるわけではない。前にもいないわ」
隣に。藍は、その言葉に強く力を込めた。僕と藍が対等の立場に立って、同じ愛を共有している。藍は、きっとそう言いたかったのだろう。だから、隣、と強調して言ったのだ。
「でも……実は」
藍は、自らの体が言葉によって動かされているのに気付いたのか、椅子に体を預けるような、落ち着いた態勢に戻る。藍が吐いた息は、体の中にある毒のようなものを吐き出したように見えた。それは、この講堂を腐食させるほどの毒気を含んでいるような気がした。
「そう思っていたのは、私のほう。私は、麻斗に釣り合っているのだろうか。そんなことを毎日のように考えている。麻斗は私のことが必要ではない。麻斗は、私を見ていない。そんなこと」
「そんなことない」
僕は手を伸ばした。藍の顎を持ち上げるように、頬を親指でなぞった。
ここは、授業の真っ最中の講堂だった。
僕は、伸ばした右手の先にある藍の顔が、笑顔に変わるのを見ていた。哀切が消え、微笑みに変わる様を。夜の帳が消え、朝日が昇るのを。雪解けの後に芽吹いた新芽を愛でるように。僕は、見ていた。
「そんなこと、ない」
藍は、僕の腕の上を視線でたどり、やがて僕の顔に行き着いた。僕の瞳の中には、柔らかい藍の頬が映っていた。藍の瞳は僕の瞳を捕らえて、離さなかった。
「大事な部分、解説していたのに」
藍は、僕の瞳に自らの瞳を落としながら、そう呟く。そう呟きながらも、耳は僕のほうに傾けていたのだから、
「単位を落としたら、麻斗のせいね」
と言うのは、野暮というものだ。僕は、通じ合うための手を落とし、藍のそばで寝ていることにした。藍は僕が手を話すと名残惜しそうに流し目をしながら、黒板を見て、聞き逃したことを推測しようと、専心していた。左右に盛んに動く瞳の速度は音速よりも速く、ほぼ瞬間移動といっても抵触の無いくらい、端から端へ一瞬のうちに移動していた。それは、情報を読み取る機械のような精確さを持している。
僕は腕で額を支え、うつ伏せで寝ることにした。
隣で、藍が黒板に視線を走らせているにもかかわらず、だ。講師の声が、いい子守唄になっていた。異色のヒップホップのように聞こえた。
藍が、オヤスミ、と小声で言った気がした。
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