第四十一話・賭け
藍は実に上機嫌で、運転している間中、鼻歌を歌っていた。
車のギアが入れ替わる音と、藍の鼻歌の音程が幼稚なハーモニーとなって僕の耳に届いていた。
僕と藍を載せた車は立体駐車場へと入る。一階から六階とほぼ満車で、一回りせずとも、次の階へ行くことになった。
三階への上り坂を登る車が、スペースシャトルの打ち上げ台に思えた。車のマフラーから巨大な火炎を噴出し、宇宙へと向かっていく。僕らは荷台を切り離して、地球軌道を周回する。
藍は、周回を中断して、宇宙ステーションに車を接合させた。すると、おもむろにハッチを空ける。
外からは、生暖かい風が吹き込んできた。
藍は、無邪気に微笑みながら、僕の横についていた。その耳には、あの赤いピアスが揺れている。
駐車場のエレベーターを降りると、人込みに衝突した。
買い物袋を両手に二つぶら下げた婦人が、僕と藍の横を、買い物袋に遊ばれながら通り過ぎた。袋から長大な葱が突出していたことからして、デパート地下食品売り場から来たことを物語っていた。買い物客の袋の中身には、様々な生活の風景が買い込まれている。白い袋から透けて見える食品の数々に、夕食のカレーを想像させられた。
牛乳と、コーンフレークが大量詰まっているのは、朝が忙しいのか、それとも面倒なだけなのか。
牛肉と野菜で膨れているのは、きっとすき焼きか焼肉なのだろう。
僕はそんな風に、白い袋を眺め続けていた。
「今の人は、インスタント食品が多いね」
「ああ、料理が苦手なんだろう」
藍は、楽しそうに頬を動かして頷いた。
「一人暮らしかも」
「大学生だろうな」
「違うわ、きっと単身赴任」
小学校の頃。僕は藍と一緒だった。病めるときも、藍が付き添っていた。こうして横にいて、こうして僕に話しかけていた。
自然と話が弾み、自然と笑いが零れ、自然と笑顔が広がる。自然に溢れる安心、自然に解される緊張と苦悩。
僕には、藍が平穏の象徴のように思えた。
自動ドアが左右に開いたところで、藍は僕に歪んだ顔を見せる。
「麻斗、少しだけ待って、化粧直し」
藍は、周囲に聞かれないように小声で僕に言った。あたりは来店客と、帰りの客とで込み合っている。
「ああ、化粧が漏れたら大変だからな」
藍は、僕を意地悪そうに見詰めた後、一目散に化粧室に消えた。
僕は、人の流れの中に立っている。次々に来店する人の幸せそうな顔を見ていると、考えずとも頬がたるむようだった。
春美という虚妄を愛した自分が恥ずかしく思えてきた。手をつないで来店するカップルのように、僕は見られているだろうか。
現実の恋人として眺められているだろうか。
僕は振り向いた。来店する客の表情ではなく、帰る客の表情を見るために。来店客が幸せそうな顔なら、帰っていく人の顔はどんな色をなしているのだろう。
だが、僕が見たのは、人影だった。僕は誰かにぶつかっていた。それは、どうやら女性のようだった。女性は尻餅をつく形で倒れ、ハイヒールの踵が僕のほうを向いていた。
「すいません、大丈夫ですか」
僕は手を差し伸べようとしたが、その女性は何事も無かったのかのように、僕の助けを自らの手で制し、僕の目の前で立ち上がった。
僕はその姿勢のよさに、伸びきった背筋に、美しい背中のラインを思い出した。
春美は、僕に目すら合わせずに、出口へと向かっていった。
僕は追いかけなかった。
春美は死んでいるのだ。いや、死んでいるはずが無い、春美は想像の線上に生きる架空の人物だ。
だが、その姿は紛れも無い僕の愛した春美だった。僕は金縛りにあったように指一本動かせなかった。春美が去っていく姿を佇んだまま見送っていた。
歩く姿は凛然としたもので、他の買い物客とは世界を異ならせる。僕の視界の色を抜き去り、春美だけを染めさせる。
そんな芸当ができるのは春美だけだった。
胸がざわめく。視界が揺れる。足が震える。
今のは、春美ではない。
春美に似ている別の人に違いない。僕は、そう思うことで、現在の平和に依拠しようとした。
僕の白銀に描かれた、美しいシュプールが、いつまでも消えない。それが夢ではなく、現実だと強硬する。
他方で、現実は夢を殲滅しようと躍起になる。それは、僕の頭の中で勃発した。艦砲射撃で、海岸の橋頭堡を一掃の後、上陸艇を発進させる。波を切り裂く無骨な上陸艇の上で、船に酔う兵士の吐瀉物が散乱する。戦地へ向かう恐怖に、胃袋をやられたのかもしれない。やがてそこは一進一退の攻防の舞台となる。兵士がトレンチに身を潜めると、隣には力尽きた仲間が見える。今でも頭の上を銃弾が横切っていて、遠くでは着弾の衝撃に土が、舞い上がっている。通信兵が戦況を報告している。衛生兵が、トレンチ内を駆け回っている。ここまでして、戦わなければ手に入らない正義。
それが、生と死。負ければ正義はない、勝利した者にだけ絶対の正義が与えられる。
夢と現実の相克。夢と現実の世界大戦。僕はそれを見ていた。決着したかに見えたそれ。
僕は、いまだに夢を見ているのだろうか。それともこれが現実なのだろうか。赤の他人の春美が存在し、どこかで僕はその春美を見ていた。
僕はその横顔を忘れられずに、妄想の引き金を引いた。
結果、出来上がった春美の夢に、僕は没入していた。だから、今会った春美は一応の春美であり、僕の愛した夢の中の春美ではない。
だが、どこかでそれはあっけなく否定される。春美は僕を見ておらず、僕と確認しないでこの場を去っていった。
僕が急いで走って言って春美の腕を取ったなら、春美は僕であると驚き、笑ってくれるかもしれない。もう一度、やり直せるかもしれない。あの部屋で。
藍は、きっと来ない。
これが現実ならば、藍はあの化粧室から出てこない。藍は僕が傷付け失踪した。
その藍が、笑顔で僕に接近してくるはずが無い。藍がそんな狂気めいたことをするはずが無い。
あの春美が現実で、今いた藍が夢。僕はまた、白昼夢を見ていたのか。
藍は出てこない。
化粧室から出てくる藍を想像できない。僕はまだ、藍を信じ切れていない。
今までが夢なら、その可能性があるなら、僕はかけてみたかった。
これが現実なら、春美を追いかけることが出来る。
幾つもの夢と、たった一つの現実。その現実が今だと証明したい。春美は生きていて、僕の帰りを、首を長くして待っている。
藍は、僕のことなど全く蚊帳の外にして、大学で勉学に励んでいる。
僕はどこかでそれを期待していた。だから、僕は化粧室から出てきた藍を見て、罪の意識を感じたのだ。
「麻斗、ごめんね」
僕はその藍の落ち着いた声の張りに、身構えた。
「何が」
僕は、咄嗟に聞き返していた。
「え……何がって、待っていてもらったこと」
そしてその答えに、前述の意識をさらに強く胸に宿したのだった。
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