鎖状の楼閣(41/45)PDFで表示縦書き表示RDF


鎖状の楼閣
作:NAO



第四十話・夢と現実の境界


「いろいろ部屋を見てきたけれど、この部屋が一番いいと思わない?」
 僕は反応できずにいた。僕が必死になって探していた彼女が、そこにいて、僕に部屋の相談をしているのだ。
「麻斗、ここにしましょうよ――」
 藍が、僕に微笑みかけていた。
「私たち二人の部屋」
 藍の幸せそうな声が、僕の耳には痛い。声が、鼓膜を突き抜けて、脳にまで達した。
 後頭部に打ち寄せる痛みの波動が、僕の目にうつる画像を揺らした。
 藍の姿は、僕が駅で見失ったときのまま。
「なんて、大学生の分際でマンション暮らしなんて出来ないけど。夢見るくらい、いいと思うでしょ」
 藍は、僕に抱きついてきた。まるで枕に顔をうずめるように。
「私たち、付き合い始めて、もう二年以上経つんだね。長いようで短いね」
 藍の言っている言葉の意味が、理解できなかった。
 僕が傷つけてしまった藍が、ここにいて、しかも笑っている。
「この部屋には、春美の思い出があったんだ」
 藍は、僕の言っていることが全く理解できていないようで、唇を引き結んで不思議がっている。
「ハルミって、誰のこと? まさか大学の晴美教授の事? 晴美教授、こんなところに住んでいたんだ。でもどうしてそんなこと知っているの? 怪しい……」
 藍の眼が僕を疑っていた。
 横目にのぞく藍の目は無邪気だ。
 僕を信じきっている目。僕が浮ついた心を持たないと確信している目だった。
 藍は、笑う。
「でも、そんなこと言ったって無駄だよ。麻斗を思う気持ちは変わらない。この二年間、いいえ、それよりもずっと前から」
 藍は言った。僕と藍は、もうずっと二人だった、と。二年以上も。いや、もっとずっと以前から。
 そこに春美の存在は無い。
 現実と夢の境界線はどこにあるのか。
 僕は、自分を疑い始めていた。僕にはその境界線がどこにあるのか分からない。夢の続きを目覚めてからも見続けているような気分だった。
 現実に立ち上がってくる春美。美しい思い出の数々。
 もしかしたらそれは架空の人物なのかもしれない。
 僕は長い、とても長い夢を見ていたのか。
 架空の人物春美を脳内に作り出して、その人形とままごとをしていたのか。
 夢に落ちる瞬間を人は認識できない。
 目覚めてみたら、朝日に顔を焼かれていた。その時間の流れを人は実感できない。
 それを考えれば、僕は眠ったまま、どこかで現実と夢を混同していたのかもしれない。
 証拠は無い。もしかしたら、これが夢かもしれないからだ。藍がこの空き部屋で笑っているのも実は夢で、起きてみたら、春美が僕の横で安らかな寝息を立てている。
 それこそが、夢から覚めた現実なのかもしれない。これが現実の可能性も当然、否定は出来ないが。
 一方では、これは夢で、僕は自覚夢を体験しているのかもしれなかった。
 いったいどこからどこまでが現実で、どこからどこまでが夢なのか。それを判断できないのは、僕だけではない。
 例えば、プラシーボ効果という実体験がある。
 灼熱の炎にあぶられて真っ赤に腫れ上がった鉄棒を、あえて被験者に見せてから、被験者に目隠しをさせる。それから、被験者に知られないように鉄棒を冷えたものと交換させる。その棒を被験者の肌に直接押し付けると、被験者はさも真っ赤な鉄棒を押し付けられたかのように呻き、そしてその皮膚は火傷をしてしまっているというものだ。
 これは、病気の治癒手段としても用いられている。ある病人に、特効薬と偽ったカプセルを処方してみたところ、その病気はたちどころに直ってしまったという症例もある。
 要するに、思い込み、が原因なのだ。
 春美は、存在する。
 この思い込みが、あたかも春美が現実の世に存在して、僕の恋人だったかのように、僕に夢を見させていたのだろうか。
 あまりにも精緻に形作られた春美が僕の虚妄だった。
 それは考えたくない。
 僕のこの春美を悼む気持ちが、全て嘘偽りだったとは、考えたくない。
 だが、僕がいるこの場所は到底その裏付けにはならない。全てが無いのだ。
 奇跡ではなく、結果。
 僕があまりに精巧な春美を生み出したのは奇跡であっても、それが失われたことに対しては、ただの結果である。
 事物全てには、厳然たる結果がある。生まれてきてしまった以上、終わりを見るのは万象の理。
 変えがたい現実だ。僕はその燃え尽きた灰を舐めているにすぎない。
 春美は、本当に夢だったのだろうか。
 拘泥しては駄目。
 あの言葉は、僕が僕に向けた戒告だったのだろうか。そうだとしたらなんと愚かなことであろうか。自分の夢に気付いていながらもあえてそれに溺れ続けるという、愚の骨頂に、僕は沈酔していたのだ。救いようの無い、愚者だった。
「さ、今日はここまで。麻斗が今日はご馳走してくれるんだよね。楽しみ」
 藍に手首をつかまれた。それは少し強引だった。
 僕は藍に引きずられるようにしてエレベーターに押し込まれた。藍はそんな僕を気にもせず、ただ楽しそうに足を躍らせる。
 僕と一緒にいることだけで、心が軽くなっているようだった。
「あ、ハルミといえば、思い出した」
 僕は、エリベータの中で僕を見つめる藍の言葉に、耳を尖らせる。
「高校のときの先生にそんな名前の先生いたような気がする。私その先生に習ったことあるんだけど、古典はあまり好きではなかったから、よく覚えていなかったんだ」
 エレベーターの機械音が、僕の耳を降りていく。はるか脳内にまで沈降していく。
 それは、海中に沈む深海探査船のようだった。僕の思考の深海を、潜ってゆく楕円形。未知の世界を静かに落ちていく。
 奥底に潜む生物は何か。巨大で凶暴な生物が、生息しているかもしれない。潜水艦乗りが恐れた、シーサーペントなる未知の怪物かもしれない。イカのような吸盤を持った怪物が、この紙のように薄い船殻に取り付くかもしれない。そうなったらおしまいだ。圧潰するまで引きずり込まれてしまう。僕は僕の中に潜むものを発見する前に、僕自身によって殺されてしまう。
 エレベーターが僕に与える重力の変化は、僕に不安を与えた。想像の幅を与えた。
「懐かしいな」
 藍は、郷愁に思いを馳せるように天井を見上げた。
「麻斗と一緒に学級役員になったこともあったよね。あの頃遅くなると手をつないで帰っていた。純粋だったよね、あの頃は」
 エレベーターはまもなく一階に到着し、僕らはエレベーターの口から吐き出された。藍は、手首をつかんで僕を車へと連れて行く。
「二人で見詰め合った家路。考えるだけで、胸が破裂しそうな状況だった。それなのに麻斗は……」
 藍は、急に立ち止まると、僕の手首を握りなおし、振り返る。エレベーターの中と同じように、また見詰め合った。
 散った木の葉も存分に吹き飛ばせない弱い風が、僕と藍の視線の間を転がっていった。
「二股をして」
 僕を強烈な角度で睨み付けた。眉を吊り上げるとは、こういう状態を指すのだろう。
「それから、私たちは一言も口をきかなくなって……大学に入っても口を利かなかったけれど」
 藍の烈火の眉は、哀切に歯止めをかけられ、正常な角度を通り過ぎ、今度は悲しげな角度になる。
 表情に富む藍は、誰から見ても愛らしい、と思えるだろう。
「同級会に出席して、麻斗が私に謝って。それで、元の鞘。また火が付いてしまったのよ、ここに」
 藍は、僕の手を握ったまま、心臓に僕の手を押し当てた。そこには、大きい火が現在でも燃え盛っているのだろうか。熱く、揺ぎ無い大火が。
 藍の前髪が見えた。藍は、自分の胸に当てた僕の手を見ていた。藍に触れていることで、僕は心地よい安寧を得ることが出来た。
 心穏やかに、時間が流れていくような気がした。
 人肌に染みとおるような温もりを、藍は、持っていた。僕の手を通って、やさしさが伝導してくる。
 僕の手は、さながら何の抵抗力も無い銅線のよう。藍の体温は、全てを通す電力。電源の無い僕を起動させるように。
 夢を見ていた。現実のような夢を。
 夏目春美。
 僕の愛した高校教師。彼女は現実には存在しない架空の人物。
 存在はしても、僕の人生とは、一点の交わりも無い人物。
 僕は、長い夢を見ていたのだ。覚めない夢を。現実の中にあった虚構を。
 信じる世界はどちらか。
 今それは傾き始めている。この、藍と僕が動いている世界を受け入れようとしていた。
 比重が変化しつつある。僕と春美と、晴美そして、藍が動く世界との。より、単純な世界との。
 あの部屋に夢の全てがあった。春美の存在が詰められていた。僕も安心してそこに置いていた。僕は、そこにしか実態を作れなかった。
 春美の息のかかったほんの小さな空間にしか。一歩外へ出ると、透明な春美しかいなかった。
 今はどこにもいない。僕の頭に残香があるだけだ。
 だが、それも夢の欠片。真実の世界では生きていけない代物だ。
 夢の隙間は、どこに存在したのだろう。
 そこから現実に夢が漏出したのだ。僕が現実と夢を混同させたのはそれが原因で、他に原因は見当たらない。
 春美は、夢の住人。虚妄の人物。
 僕はそれを信じるしかない。これ以上、迷わないために。身近な誰かを傷つけないために。
「そうだ、今日買い物に付き合ってくれるって言ったよね。これから行こうよ」
 僕は、現状の世界を肯定した。その合図として、僕は頭を上下に動かした。
 藍の車は駐車場には無かった。駐車場に向かおうとする僕の服を引っ張って、首を振る。
「今日は、路上に駐車しているの」
 藍は、そそくさと僕の背中を押した。藍の両手が、僕の背中を押した。考えていたよりも強い藍の膂力は、僕の体をいとも簡単に動かした。僕は足がもつれて、つまずきそうになったが、そちらに行く歩みを見せると、藍は急に両手の力を抜き、僕の横に並んだ。
 藍の車は、電話ボックスの横に駐車されていた。
「駅前のデパートにね、お洒落な店が入ったの」
 藍は、そう言うと、車の鍵を開けた。だいぶ車との距離は離れていたのに、ボタンひとつで開いてしまう。僕はそこに人類の進歩を感じた。
 僕の足は、木の葉を一枚踏みしめる。靴底で踏み躙られた木の葉は、痛々しそうに破れていた。その直ぐ横では、汚れなき木の葉が、風に揺れている。ほんの数センチの差が木の葉の運命を分けていた。
 僕は藍の車のドアを開け、助手席に乗り込む。
 足を入れようとした靴の底に、何かが隠れた。
 僕は座席に座ってから、足を持ち上げる。
 
 それは、ボタンだった。












ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう