第三十九話・虚空の部屋
証明写真のボックスの中で、僕は目を覚ました。
そこは、かつて藍と一緒に撮ったことのあるボックスだった。薄いカーテンから、隙間風が吹いている。
回転椅子に腰掛け、頭を硬い壁に預け、腕を組む。
そんな無理な体勢で寝ていたおかげで、体のあちこちが、僕の行動に難色を示した。
夢を見ていた。醜くやつれた夢だった。
まるでホームレスや、乞食になったような妙な気分だった。
超現実的ともいえる夢の流れ。時間の確実な経過。感覚の先鋭さ。世界の二重構造。
それが全てにおいて、僕の夢だったのか、現実だったのか。それを知る術は無い。
僕は額を押さえた。
夢と現実を決めるのは、脳だ。夢を見させるのも脳である。現実を認識させるのも脳である。
それならば、春美を立ち上がらせるのも、藍を感じさせるのも、脳だ。
僕は大きくかぶりを振った。
思考回路が灼熱の赤と化し、今にも千切れそうだった。脳が僕の思考を強制的に停止させているようだった。もしくは、貯水量を超過しそうなダムか。決壊を何とか抑止するために、僕は、痛みから離れた。離れさせられた。
僕が自分をコントロールできなくなっているような感覚だった。
僕以外の何者かが僕を動かそうとしている。それも、勝手に。果ては、現実とも取りかねない、一触即発の夢を見させて、僕の感覚を麻痺させようとしている。これは、危険だった。僕は先ほどの夢の中でさえも、確かな五感を起動させていた。蜘蛛を潰した感覚。手に張り付いた蜘蛛の足を剥がす感覚。隙間風の冷たさ。
わざわざ、これは現実か、と問わなくとも答えが分かっているような、擬似的ではない、本物の現実感だった。
僕は今、錯綜している。迷路などという平板な次元ではない、立体的な迷路。二面性を包含した究極の迷路の中にいる。
もしかしたら、それはただの砂浜で、何の障害物も、遮蔽物も無いのかもしれない。それを僕が勝手に障害物や、遮蔽物を創造して、自らを迷わせているのかもしれない。
そして、脱出する手立ても無い。出口があることすら分からない。
僕はボックス出入り口のカーテンを開けた。
どうやら、辺りはすでに太陽が昇りきっているようだった。建物で太陽を直接拝むことは出来ないが、遠くに見える建物の影でそれが分かった。
僕は藍の後姿を探して、電車に乗った。
藍の足の赴くまま、僕も赴いた。やがて辿り着いた交差点の真ん中で、僕は叫んでいた。
それは、慟哭であり、喉を焼くような激しい悲鳴だった。
僕は喉仏に手を当てた。
「……」
喉を空気が通り抜けていった。土管を通る風のように。喉の内側は、荒れているようだった。
ざらざらとしていて、声を出そうとすると鋭い痛みが走った。喉の途中に、栗が転がっている。空気を往復させるたびに、栗がこまのように回転し、自慢の鋭利な棘で、僕の喉を切り裂いていくのだ。
出来ることなら、喉にこの手を差し入れて、栗を取ってしまいたかった。
ついでに胸の奥でつかえている黒い物質と、腹の底に沈んでいるグロテスクな液体を。
どちらも僕にとっては病原体である。交差点で叫んだ僕は、それを真っ先に吐き出そうともがいた。身を捩って吐瀉しようとした。
だが、吐けども吐けども出てくるのは、軽く透き通った液体ばかりで、真に重要で重く硬い病原体を吐き出すことは敵わなかった。
喉が焼かれている。それも高熱で。
僕の足は、僕の意思とは関係なく、歩き始めた。この表現には、多寡、語弊がある。歩いているのは僕であり、ほかの誰でもない。僕が歩きたいと思えば、その方向に足を踏み出せる。
歩きたくなければ止めればいいわけだ。
その脚の動きが、今僕の手によって統率されていない。向かう先がどこであれ、僕の足は僕の意思を離れ、一人歩きをしているのだ。
深層意識の決定と、見解を示すことが出来る。表面的に思考して発露に至る感情や、意思とは別に、反射的に発生する根底真意的な何か。
その説明は、導かれる、という意味に似ているかもしれない。
自分。それを必要としない、他力的な行為。僕を誘う何かがそこにあって、僕を呼んでいる。僕もそれに呼応して、正確には僕の深層意識がそれと呼応して、足を向けている。
少し、思い出していた。
僕が初めて父を本気で起こらせたときのことだった。場所は、おそらく応接間であったと思う。
お前がやったのか。
父は、そう言って僕の頬を手のひらで打ちつけた。犯人を僕と確信しての強行だった。
僕は絨毯に横様に倒れ、ひりひりと痛む頬を手でかばった。泣いてはいなかった。
思えば、僕はいつから泣かなくなったのだろうか。
最後に泣いたのはいつだったろう。卒業式の日にも、僕は泣かなかった。
親しかった友人、悪友と離れ離れになってしまうのは、身を切る思いだった。
笑いあって、悲しみをともにした彼らは、誰もが同じ気持ちだったに違いない。彼らは、僕を除いて、全員泣いていた。
卒業証書授与。そのときはまだ、大丈夫だった。目尻に大粒の水滴が、現れてはいたが。
だが、それも、仰げば尊し、を歌うまでのことだった。普段、合唱のときは、蚊の泣くような声でしか歌わなかった友人も、そのときばかりは、なぜが大声で、まるで上官の命令に返事をする二等兵のようであった。
涙を隠す、そんなことでさえ頭に無かったのだろうか。
歌うことが、誇りであるかのように、彼らは胸を張って歌った。
それは中学校の卒業式であった。もちろん離れ離れといっても、国内外のレベルの話ではない。
会おうと思えば、直ぐに合える距離の話だ。彼らもそれを知っていただろう。知っていたのにもかかわらず、今生の離別のように泣いていた。
父が、僕を見据えている。鬼のような形相で。僕はその目で殺される。
僕が泣いたのを覚えているのは、小学校一年のときだ。それも僕が考えうる限り最悪の形で。
泣いた原因は、そこに藍がいなかったからだ。今までどんなときも一緒にいた藍が、そこにはいなかった。
ただクラスが別だっただけなのに、僕はそれが天地ほども違って見えた。藍に僕の弱い部分を囲繞してもらっていたから、それが取り払われ、いざ鎌倉となったとき、僕は過去に類を見ない恐怖感に捕らわれた。周囲の人々の目が、敵意に満ちていると錯覚した。
僕は、授業が終わると隣の藍のクラスに直行して、安心を得た。
だが、それは長くは続かない。あっという間の時間で、またもとのクラスに引き裂かれた。僕は再び不安と恐怖に苛まれる。
休み時間になるといなくなる僕に気付いた先生が、僕に理由を聞いてきた。
僕は藍がいないことの重大さを、当時の言葉で、先生に必死になって伝えた。
先生はそれに対して、完璧な内容の答えをくれはしなかった。
あなたの周りはね、優しさでいっぱいよ。
父は、僕の頭を拳で叩いた。
母が、辛抱堪らず飛び出してきた。
後ろの席の男子が肩を叩く。
ねえ、一緒に混ざらない。
お父さんはね、好きで麻斗を叩いているわけではないのよ。
母は、ベッドにもぐりこんだ僕に向かってそう優しく言った。
父に制裁を受けたあとには、必ず。
僕の痛みが、切なさに変わるその瞬間。
愛されていることを感じる瞬間。
僕は涙が出そうになる。シーツを強く握り締めながら、母の悲しそうな、しかし、慈愛のこもった声を聞く。
その言葉は、僕の憎悪を見事に中和する。
僕の憎しみと怒りの炎を、いとも簡単に鎮火して見せる。
そして、その代わりとして、きれいな花を置いていく。優しい花。愛の花。
僕の胸には、たくさんの愛の花束があった。
今も、もしかしたらあるのかもしれない。
心の風景。それを眺めながら、僕は導かれた。
藍の家に行くわけでもなく、実家に戻るわけでもなく、大学に行くわけでも、晴美に復讐をするわけでもなかった。
銀杏並木を通ると、まだ青い銀杏の葉が、僕の頭上に広がっていた。
この道には見覚えがある。春美のマンションに繋がる道だった。
たくさんの荷物を搭載しているだろう巨大なトラックとすれ違う。
僕は銀杏並木を左に折れた。
向かいには、両手を広げるようにして建つマンション。ゆっくりとエレベーターで春美の部屋がある階へ。
僕は、春美の部屋へ向かっていた。
深層心理が告げた真実。
僕は春美に惹かれている。心の奥までも。僕はもう春美なしでは生きていけないのだろうか。
拘泥すること。
それは、春美が使った言葉。
こだわること。小さいことに固執して、融通の利かないこと。春美は、自分に執着するな、と言い、僕の手の中からすり抜けていった。
満足に僕の言葉も理解できない危機に瀕していても、僕に伝えようとする言葉だけは、頑として維持し続けた。
あれは、遺言のようだった。
僕に焦点を当てる強き瞳の光。あの瞳で僕をその言葉に集中させた。
僕は今も、そしてこれからもあの言葉を一生涯、一言一句忘れることは無いだろう。
私に拘泥しては駄目。
今思えば、彼女は倒れる以前からその言葉を用意していたのではないか。
僕が春美の独白に目を逸らした瞬間からだろうか。
この愛の終わりを予感したときからだろうか。
僕と別れるときに言うつもりだったのだろうか。
だとしたらそれは、最悪の皮肉というものだ。死んだにしろ、生きていたにしろ、僕はその言葉を聞くことになっていたわけだ。
私に拘泥しては駄目、と。
僕は春美と僕の暮らしへと続く玄関のドアを、始まりのドアを、初めてこのドアを開けたときから、いまだかつてない遅々とした速度で開けた。逡巡していた。開けることに。
しかし、僕はそれでも、最後まで開けて、体を滑り込ませた。
春美の匂いは異常に少ない。これは、皆無といってもいいほどだ。
僕は靴を脱ごうとして、その異常さに首をかしげる。春美の靴が無い。
いつも僕の靴と並んで置いてあった春美の靴が無い。
僕は、下駄箱を開ける。僕の不安は的中した。春美のミュールはおろか、僕のスペアの靴も無い。靴全てが無い。
そこでいったい何が起こっているのか。
僕は靴を放り投げるように脱いで、つまずくようにダイニングに殺到した。
事態は核心に達する。
そこはまるで、引っ越す前の部屋のような、部屋を観覧しに行ったときと同じ。
全くの虚空。原点。全てが、存在しなかった。
僕は眩暈に襲われた。頭痛を伴った強烈な眩暈だ。まるで夢を見ているような、奇妙な感覚。床の質感や、そこから感じる足先への滑らかさ、空気の停滞感と、蒸し暑さ、それがあまりにも現実的だった。
僕は探す。春美の生きた証を。そこに春美がいたという証拠を。
寝室へ、僕は飛び込んだ。備え付けのベッドに倒れこんだ。貪るように匂いを鼻へ押しやる。洗い立てのシーツが僕に残酷さを伝える。
完璧なまでに清掃の行き届いた、ベッドに、僕は愕然とする。匂いのひとつもない。充満していた春美の匂いですら、ゼロに近い状態だ。
むしろ、無、といっても差し支えない。クローゼットを乱暴にあけて、服を確認してみても、そこには付属のキャスター付ハンガーと、消毒の匂いのする空間だけがあった。
服などどこを探しても無い。糸屑の一本も見つからない。
それは、本当に夢のようだった。錯覚としか言いようの無い世界。僕の記憶を根底から覆す、消滅させる、僕とは違った時間軸がそこにいけしゃあしゃあと存在している。
キッチンへ。
テーブルも無い。こんなことがあるのだろうか。キッチンにある細かい調理器具はおろか、コーヒーメーカー、観葉植物、テレビ、食器、調味料、それらが忽然とその影を潜めている。
僕は床に這い蹲って、何かの痕跡を探す。両手を雑巾のように広げ、床をさすった。木目の一つ一つを入念に、まるで検察の家宅捜査のように。頭髪の一本でさえ見逃すつもりは無かった。
そこで何が起こって、どうしてこうなってしまったのか、僕は見極めるつもりだった。
隅々まで、僕は手を雑巾にした。ほこりひとつ無いとは、まさにこのことだろうか。
潔癖なまでの清潔。生活感の欠如。人が住んでいたとは思えない完璧な姿で、その部屋は僕を包んでいた。
僕と春美が住んでいた頃、僕一人が住み始めた頃、実家に戻った頃、そして、今。
僕が実家に帰っていた時、と、今、を結ぶミッシングリンクが、存在しない。その間にどんな事態をこの部屋は迎えたのか。僕には想像もつかなかった。
バスルームへ行っても、洗面所へ行っても同様の結果だった。
蛇口がひねられた形跡も無く、水滴ひとつついていない。鏡は新品のように輝いているし、コップに入った二本の歯ブラシも、歯磨き粉も無い。
僕はテーブルの無くなったダイニングルームに佇立する。少し向こう側には、ソファとテレビがあったはずだった。
ここに僕と春美が住んでいた。僕が大学への進学を決定的なものにすると、春美は婉曲的にこの部屋に住まないかと誘った。
寂しいから犬でも飼おうかな、と普段決して言わないことを言った。
それは本人も承知しているのか、どこか歯に詰まるような言葉の流れだった。
僕は、ほんの冗談交じりで、じゃあ、僕を飼えばいい、それなら寂しくなくなる、と正気の沙汰では言えないことを、手からこぼれる砂のように、さらりと言ってのけた。
春美は僕のこの言葉を待っていたのだと思う。柄にもないことをしてまで、導き出そうとした。
次の言葉で春美はその僕の言葉から冗談の札を剥がし、真剣という札を貼り付けた。
それが、この部屋での暮らしの始まりだった。
僕は、卒業式を終え、高校生時代にピリオドを打っていたから、外で春美に会うことに躊躇は無かった。
友人の何人かにその姿を見られたこともあったが、冷やかされる程度で済んだ。
春美のほうは、同僚の教師から、何か気に障ることを言われたそうだが、僕には弱音を吐かなかった。
僕はそのことすら知らなかったのだ。在校生の風聞を聞きつけた友人が、僕にそっと耳打ちをしてくれたことで、僕は知ることになった。
僕は春美にそのことを告げようとした。
だが、その僕の言葉は、春美の手のひらによって制された。
この部屋の中では、暖かい感情のままでいたい。
春美はそう言った。
この部屋で始めてキスをしたのは、ソファに座りながら二人でテレビを見ていたときだった。
番組が終わってCМに切り替わった時。ふと見詰め合った瞬間、僕は唇を近づけていた。
動機はなんだったのか。
見詰め合った目と目に、春美の了承を得た気がした。以心伝心といったら言いすぎだが、信じる気にはなれた。
春美も僕の内心を知っていたのだろうか。唇が触れ合う瞬間で目を瞑った。無表情に近い微笑を浮かべ、ソファに体重を乗せた。
僕の右手は、背もたれを掴み、左手はクッションへ。
新しいパソコンのCMだった。それはノートパソコンで、世界最小最軽量の新型だった。
今でも、あのときのCMの謳い文句が耳に新しい。
世界最小最軽量ノートパソコン。今度は、世界を持ち歩く。
耳にはしたが、目にはしていなかった。
僕は春美を見ていた。
かすかに目を開けると、そこには春美のうっすらと紅葉した頬、まぶたと長いまつげが映し出されていて、艶かしかった。
以後のCMは覚えていない。
僕の防音装置が最大になってしまったからだ。春美の回りにだけ存在する音を集積していた。
あのときのキスはぎこちなかった。
僕はなぜか息を止めていた。そっと相互の唇を触れるだけのキスしか、経験したことが無かった僕は、春美が舌を入れてきたことに驚駭して、僕がソファの上になっているのにもかかわらず、少し体を引いている始末だった。
キスをしていることを忘れるような、自分自身が溶解していくような、熱い接触だった。
人は慣れていく動物で、僕はしばらくそうして夢中になっているうちに、少しずつ学習していくのだった。
春美は、唇が触れる直前まで、目をつぶらなかった。
僕の顔を確認していたいという欲求にとらわれるのだそうだ。
自分とキスをするときに、相手がどんな顔をしているのか。それを知りたいと言った。
僕は、それが恥ずかしく思えてしょうがなかった。
しかし。
この部屋はそれらの思い出が全て嘘だと思わせるくらいの、虚無に満ちていた。僕と春美を培った全ての生活の道具が無かった。
そして、その息吹も。真っ直ぐな床があるだけ。それ以外は、まるでキューブの中にいるよう。春美を連想させるものも無い。
ここに春美の記憶は存在しない。無論、春美の言葉も姿も立ち上がってこない。思い出はよみがえっても、春美の姿を見ることは出来なくなっていた。
春美がこの世を去った。
初めに、僕の脳が思い込みで認識し、触れることのできる春美が現れた。
そして、あの春美の墓前での出来事以来、完全に消え、代わりに虚像である錯覚の春美が現れた。
遠くに蜃気楼のように現れる、春美になった。触れることが出来ず、ただ見ているだけの、まるで写真のような、または、現実に記憶を重ねる存在に。
そして、時が経つにつれ記憶が薄れるのと並行し、やはり最後には現実から消えた。
思い出でしか、春美と会えなくなっていた。目に映ることの無い春美。記憶の中でしか映ることの無い春美。目に映るきっかけとなる、全てがここにはなくなっていた。
僕はある特異な結論に終着しようとしていた。
これは夢であって、現実ではない。
今までも、それに似たような夢は見てきた。白昼夢でさえ、僕は見たことがあった。
だから、その結論もあながち外れてはいないはずだ。であるなら、この場所が空虚に染められているのも、夢であるはずだ。
現実に起こりえない。
そう、夢、であるならば。
「麻斗」
背中から、明るい声が聞こえた。
それは、僕の今の心境を吹き飛ばす、始まりのような声だった。
しかし、それは終わりだった。
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