第三話・回想
あの日。
合格者発表掲示版に自分の番号を見つけ終え、やや興奮も冷め始めた、安心感に全身を浮かせていた、あの日。
それは高校の入学式の三日前。
僕は、自らの足で、高校への通学路を確認していた。一歩一歩が、人生の階段を上っていくような感じで、あたかも成長したような気分になっていた。
桜の木もないのに、道端に桜の花弁が落ちているにでさえ、僕は深く感動していた。風のヴェールに運ばれて、ここまで旅をしてきた兄弟たち。アスファルトで身を寄せ合って、一体何の談義をしているのだろう。これからの進路の相談だろうか。
僕はとりあえず進路については一段落がついた。当面の目標だった進学校合格。それを達成したのだから。
どこか、僕は心に余裕があった。
勉強部屋という檻からの解放、勉強という強迫観念の治癒。踵が地に付かなくなっていた。僕の肩甲骨がせり出して、羽が生えたようだ。翼をはためかせて、あの大空へ飛翔できそうだった。
これから向かう大空は、雲ひとつない快晴で、宇宙まで見渡せた。オゾン層があの色を作っているのかと考えると、きっとオゾンは笑っているような感じがした。
僕がこの通学路でもっとも嫌いなのは、坂があることだった。
自分が選んだ学校だから、我慢は当然なのだが、メニューで見た料理の味の想像と、実際食べてみた料理の味とは違うように、体験してからではないと分からないものというのが、この世界には無造作に転がっていた。
成長痛のせいで、歩く度に、両足の膝が痛い。僕の足が脳の命令に抵抗して歩幅を狭くする。もう少しだ、と叱咤して僕は坂を上りきった。視界が開けると、校門の両端から、すでに隆盛を過ぎた桜が、身を震わせて花飾りを振りまいていた。校門の前方百メートルから、正面玄関までの桜並木。地元では有名な桜並木で、生徒以外の一般人も桜を見上げては溜息をこぼすという、魅惑の桜の出迎え。VIPのチェックインのような、特別待遇を受けた気分になれる。立派な正門もかすむ鮮麗さ。絨毯が桃色なら、降る雨も桃色だった。
異世界へ迷い込んだ。
そう思わせるに足る、光景だった。
僕は、異世界へ足を踏み入れる直前で足を止める。
校門が、学校と町を隔てる、境界線の一歩手前で。
僕は、空を仰いだ。新鮮な空気が僕の体を内側から洗い流してくれた。ここに来てまた達成感が湧き上がってくるとは思いもよらなかった。この先に待っているのは、この並木道のような人生に違いない、と僕は心密かに確信していた。
正面に向き直る。
足元を見る。
そして、踏み出す。
両足が校門の内側へ、吸い込まれる。
そのとき僕は、他の新入生より早く、入学式を済ませたのだった。
僕はいつでも、そうしてきた。幼稚園に入園したときも、小学校に入学したときも、中学校のときも、高校も大学もそうしてきた。
校門の手前で、踏みとどまり、自分の足を見下ろしてから、空を見上げ、最後に校門の中へ足を踏みこむ。なぜそれを始めたのかは、僕自身も分からない。ジンクスがあるのかもしれない。人生の転換期に立ったとき、儀式のように、僕はそうして来たのだ。
見上げた空の色は、必ず一定で、決まって雲ひとつない青空。吸い込まれそうな群青色…。
僕は、バス停の屋根の上に広がる空の色を確かめた。雲ひとつない、とまではいかないが、立派な晴れ模様だった。
僕は、延々と連なる自動車の行進の最後尾に目を凝らした。バスはまだその巨躯を僕の目の前には現してはくれない。乗用車の陰に隠れられる大きさではないから、突起しているボンネットがあったなら、それがバスである確率が高い。残念ながら、車高が際立って高い車は、僕の視力の限りを尽くしても、発見できなかった。ということは、バスはまだあの角を曲がりもしない、ということだった。あの角を曲がっても、ここまでやって来るのには、数分とかかるから、嘆息せずにはいられない。今日も大学の講義は途中からになりそうだ。
僕はバス停のベンチに深々と腰掛けた。ベンチの下に放置されたままになっている空き缶を拾い、設置のゴミ箱へ投棄した。あいにく、ゴミ箱の縁に当たって、跳ね返り、歩道の真ん中へ転がっていってしまった。どうせ僕が捨てたものではないから、そう思って僕は道路に向き直る。
信号機の前で停車していた車のドアが不意に開き、そこから、毛むくじゃらの腕が、ぬっ、と出てきた。
その邪悪な手には、車に付属している灰皿が握られている。僕は、その行動の一部始終を罪悪感に苛まれる思いで眺めていた。目が離せなかった。タバコの吸殻――フィルターと灰の山を、灰皿ごとひっくり返したのだ。アスファルトの上で、塵がもうもうと膨れ上がった。運転手は、赤信号が青に変わるのを目に収めるや、いましがた犯した罪を脳の外に追い出して、さっさと車を次の信号機へと発進させてしまった。ひき逃げを繰り返されるうちに、潰れ、舞い上がる灰の山は、視認出来ないほどに四散してしまったが、その罪だけは、いまだにたちこめたままだった。
僕のみぞおちの辺りで、不快感が黒い煙となって充満している。
白い肺に付着するタバコの煙のような、黒い粉塵がだ。
心の片隅で、空き缶が跳ね返る音がした。あの甲高い、犬を蹴った時の鳴き声のような。
僕はうつむいた。指を複雑に絡み合わせて、必死に考えまいとしていた。忘れようとしていた。
また、空き缶が遠くで転がる音が響いてきた。僕の脳内や、肺の奥で。僕の背後を通りすがる人々が、何気なく足にぶつけて、遠くへ追いやっている音だ。
バスがもう間もなく、このバス停に滑り込んできそうだった。自動車の台数で言うと、十台程度。軽トラックの後ろ、外国車の前。
空き缶の転がる音が、続いている。
そもそも僕には関係のない、空き缶だ。誰かが自動販売機などから購入して、喉の渇きを潤した。そして、そのまま、このベンチの下に責任、モラルとともに放棄していった。それをたまたま僕が拾って、親切丁寧に、ゴミ箱へ捨てようとしただけ。僕は、無視してもいいはずだ。元々、僕とは無関係なのであるから。
ついに、バスが僕の目の前で、停車した。振動するエンジン音が僕の焦りを促す。僕は立ち上がった。バスに乗る、そう決めていた。リスクを考えれば、答えは、簡単明瞭だった。授業の遅刻、次のバスを待つ時間、排気ガスを浴びる僕の健康状態…それを比較すれば、迷いはない。
僕は、体内を露呈するバスの乗車口に取り付けられた手すりにつかまって、乗車する。バスのエンジン音が高まり、僕、その他の乗客を、目的地へと運ぶ。僕は、空いている席に座って、腰を座席に沈ませた。バスの中では、観光案内をする女性の、録音された声が、静かに耳に入り、すぐ抜けていった。
一人だけの入学式を終わらせた僕の肩では、桜が恨めしそうに揺れていた。靴裏にも、きっと彼らの仲間が、いるはずだ。僕が人生の一歩をひしひしと踏みしめるたびに、花弁が千切れて、死んでいく。きれいな花びらが汚され、泣き叫ぶ。だが、この道を歩くには、嫌でもそうするしかない。踏まずに歩くのは、空中浮遊をするほか手立てはない。僕は超能力者でも、突然変異でもない普通の人間だから、それは残念ながら無理だった。
正面玄関が僕の眼前で威厳を誇っている。校章が、尖塔の天辺で光明を放っている。僕は、敬虔な信者の気分になったつもりで、投下された威光を手のひらで包み、胸に押し込めた。誓いのようなものだった。それだけ僕は、この高校に入ることを是としていた。伝統と誇りを、声高らかに歌う準備は受験前から万全だった。
僕は、もう一度だけ校章に目をやり、家路につくことにした。桜の花弁に足を埋めて、僕はもと来た道を行く。桜の枝々から注がれる斜光で、桜の絨毯が白黒の迷彩を施される。僕は、校門まで伸びる道の真ん中を、堂々と、胸を張って、今そこでもらった威厳を携えて、誇らしげに歩いていた。
そのときの僕の明るい視界に、近付いてくる姿があった。
僕の横、桜並木の下を、その少女は歩いていた。桜の幹ほどの距離を経て、すれ違う。
同級生の一人だろう。
彼女も僕のように、威光を浴びに来たのだろうか。それとも、登校時の往復の距離と、時間の基準を測定するために、だろうか。仰々しいほどのスーツを纏って、優雅に歩くその少女に、僕は良いイメージを持たなかった。わざわざスーツなど着なくとも、新調した制服を着てくればいいではないか、そう思ったからだ。しかし、桜の袂をうつむき加減で歩く少女、という構図は、今まで見たどの絵画よりも現実的な美しさがあった。
第一印象は、ずいぶん大人びた少女。
同級生である藍も大人びている部類に属するけれど、すれ違った少女は、それをほんの少しだけ上回っていた。所為の節々にこめられている成熟の要素に、僕は目を合わせることが出来なかった。僕も同じ高校生であり、本物の合格通知書まで手中にしているのに、なぜか、僕だけが場違いのような気がして、少し恥ずかしくなった。背中から、少女に物色、選別されているような、自己妄想にとらわれて、僕は少しの間振り返ることが出来なかった。
膝が痛みを訴える。
僕は、これから背が伸びる、と慰められ続けた。女子よりも背丈が低く、惨めな中学校生活を送っていた僕に対する、単なる同情かもしれないが、僕はそれを信じてみることにした。自信を与えてくれたのは、高校入学という契機があってこそ。
僕は、思い切って振り返ってみた。
あの少女の姿をもう一度見てみようと思った。やはり彼女も尖塔を見上げていた。スーツに包まれた痩躯が、白い光に抱きしめられている。桜の花弁が、僕と彼女を結ぶ直線を時々遮断する。
この出会いが、恋の花を咲かせることはあるのだろうか。僕は僅かな期待を、胸の燭台に灯す。小さい火だが、いつか烈火と化す日が来るかもしれない。少なくとも、彼女ではないことは確信していた。僕と彼女ではどう見ても、僕のほうが傷つきそうだったからだ。
僕は、成長痛で苦しむ膝と、希望を抱えて、佇立している。
まもなく少女は、見上げていた顔を下ろし――
職員玄関に入っていった。
それが、春美だった。
僕と春美が出会ったのは、五年前。そのすれ違いを、出会い、と言うのならばだが。正確に言えば、僕が春美を認知することとなったのは、入学式の後日、新入生と教師の顔合わせのために催された、対面式のときだった。
僕は、新入生の中で出席番号――五十音順――だけは早かったので最前列三番目という席順だった。パイプ椅子に腰掛けていた僕は、隣の生徒と話そうかどうか迷っていた。
自分が卒業した中学校からは、二十人ほど入学していたが、あいにく、今回のクラス分けでは、僕は同胞とは一緒のクラスになれなかった。
僕は、現在のクラスでは、孤立しているに等しい。
気安く呼び捨てに出来る仲間がいない。
どこか一歩引いたところで、本音も言えず、愛想笑いを浮かべるしかない。語りかける口調も当然、他人行儀だし、会話も長く続かない。話しかけるのでさえ勇気がいる。
その点、同胞に恵まれている生徒は、そんなことをまったく気にせず、同胞同士で談笑できるし、それが余裕にも連結して、気安く他人にも話しかけられるのだ。そして、次第に膨れ上がる友情の輪は、回数を追うごとに広がり、全体的にいくつかのグループに分かれる。それが最終段階だ。そこまでいって輪の中に入ることができなければ、孤絶という最悪の事態に発展してしまう。そうなったら、休み時間中、一人で読書しているか、寝ているか、もしくは予習しているか、という寂しい事態に陥ってしまう。
僕は、それには耐えられない。
孤独を好む体質ではないから、無理にでも人と話して、誰かとつながっている必要があった。喧騒の中に身をうずめて、休み時間が早く過ぎていく錯覚に陥るような、楽しい時間の中にいたい。笑いあって、他愛もない話に溺れて、冗談をあちこちに飛ばしたい。そういうものが焦りに直結して、僕は今、迷っているのだ。
少しの勇気で、それは可能なのに。
どこから来たの? どこの学校?
それを聞いたら次は、趣味や、時事ネタ、ほかにもどうでもいいことを話せばいい。けれど、喉まで出掛かった言葉が、そこで止まってしまっている。不安が、僕の喉に詰まっている。背後で、僕が考えていたような会話が取り交わされていると、僕はそれを真似するようで、態を失う。話しかける相手に好印象を与えることが出来ないと、勘ぐってしまう。
悪循環だ。
僕と、隣の生徒が仲良く会話している想像は出来ても、行動は出来ない。全ては、僕の勇気が足りないからだった。僕に話しかけてくれ、と他力本願に祈ってみても、現実にはそうはならない。もしかしたら、他の人もそう思っているかもしれないのに、僕の勇気がないせいで、機会を逸してしまう。後で、後悔してからでは遅い。分かっているのに、分かっていないのだ。
結局、僕は話しかけることが出来なかった。姿勢正しく、苦悩しているだけで、何も。
司会進行役の先生が粛清の声をあげる。
入場してきた教師たちが、壇上に用意されているパイプ椅子に、左端から座っていく。僕は、その二番目に、記憶の残像を見た。
それが、本当の意味での夏目春美との出会いだった。
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