第三十八話・喪失感
流れ行く人を見ていた。
駅から吐き出される人々を見ていた。ゴミの中で。ダンボールに包まれて。
僕のそばを通る人が歩調を速める。汚れた服もそのまま。食べ物すら口にしていない。口にする気力もない。
時間だけが、一応は、流れているようだった。
ただ、目の前が何回か暗くなったことだけは覚えている。それは、夜のせいなのか、それとも気を失ったせいなのか。僕自身では判然としない。
吸い込まれ、吐き出される人々の顔だけを見ていた。
それは全てが同じ顔に見えた。のっぺらぼうに見えた。目も、鼻も、口も、顔という部分はまるで白紙だ。それが、まるで人間のように歩いていた。
僕はそれが不思議でたまらなかった。人形が、何かのからくりで、動いているように見えた。この人形は、僕とは違って正常に作動しているようだった。ただ顔だけがないようだった。 耳と口がないのに携帯電話を使う人がいれば、僕はその滑稽さに笑った。鏡を見る人、化粧をする人がいれば、その無意味さに笑った。
人形は皆同じ。
僕はそんな人形をただただ眺めていた。
面白かった。大小様々な人形がいることに驚いた。独特な人形がいることに驚いた。顔は皆同じなのに、形は皆違った。それは同じ人形でありながら、違う人形だったのだ。
ある人形が僕に近づいてきて言った。
「あら、麻斗君じゃない。そんなところで寝ていたら、春美に嫌われるわよ」
その人形は、僕に侮蔑の声を響かせて、口もないのに言った。
「あなたは残念だけど、もう必要ないわ。というより、最初から、期待はしていなかったけれど」
僕を見下しているようだった。僕には、それが僕ではない誰かに言っているような気がして、不思議と悪い気はしなかった。
どこか映画を見ているような気分で、客観的になれたのだ。のっぺらぼうは続ける。
「麻斗が、藍を傷つけられない。そんなことは、私でなくとも分かること。肝胆相照らす仲というのは、出来てしまった溝を塞ぐ、縫合体のようなものがある。だから、傷が出来ても直ぐに回復してしまう。加えて、免疫力も、抗体も高まる。それが、あなたと藍。いかにあなたがどんなに苦心しても、それは無理な話」
僕はその、のっぺらぼうが笑った気がした。この上なく下卑な笑いを浮かべて。のっぺらぼうの皮膚が異様に蠢いている。おそらくそこには口があるはずだった。それとも頬か。
「だから、私は、最大限に状況を利用することを考えたの。麻斗から藍は傷つけられなくても、春美から藍は傷付けられる、と。案の定、藍はあなたのもとから消えたわ。ここまでは私の計画通り。後は、そうね、あなたがどこまで落ちるのか見ておきたいわ。けれど、私はそれほど暇をもてあましていない。傷ついた鳥を介抱しなくてはいけないの」
屈んでいたのっぺらぼうが、立ち上がる。
僕はそれで、のっぺらぼうはこの場を立ち去るのだな、と思った。
「さよなら」
そう言い残して去っていった。僕はまたその場にい続けた。指が動くような気がしたが、僕は動かさなかった。動かすという行為が、無駄のように感じたからだ。
世界は色を失っている。輪郭を失っている。全てが黒と白で出来ている、単色の世界。単純な世界。僕はそこに横臥している。
冷たいアスファルト。ダンボールから隙間風。はためくシャツ。脂ぎった髪の毛。
腕には蜘蛛。
僕の顔と腕を支柱にして巣を作るらしい。顎の直ぐ先にはゴキブリが徘徊している。触角を四方に向けて、何かを感じているようだった。
小刻みな脚の動きは、僕を楽しませた。足音すらしないのだ。まるで小さい忍者のようだった。
蜘蛛は、白と黄色の斑模様を配した尻から、細い糸を出し始めた。腕の先から、僕に尻を突きつけて荒野のガンマンのように正確に僕に命中させた。まさに百発百中だった。
だが、僕はそこで悪戯心を発揮した。しばらくぶりに動かした口から、息を漏らしたのだ。蜘蛛は驚いたようで、僕の腕にすばやく身を潜めた。
僕の気配を窺っているらしい。僕は腕を動かしてみようと思った。さび付いた骨が軋んだ音がした。ぎこちなく動かした腕の反対側には蜘蛛が張り付いていた。
禍々しい姿をした蜘蛛だった。まるで地獄の使いのような、そんな姿だった。
もしかしたら、その蜘蛛は、僕の棺桶を作りに来たのかもしれない。
僕は想像した。
何千何万という蜘蛛の大群が、地の底から湧き出てきて、僕を覆いつくす、という想像。
全ての尻という尻から白色の糸が飛び出して、僕を繭にしてしまう夢。蜘蛛は繭を作らないが、その蜘蛛たちは特別なのだ。
地獄の川に生息する魂を食らう毒蜘蛛で、僕は後で瀕死の状態に陥って弱りきったところを、彼らに少しずつ食らわれていくのだ。
骨の髄まで食らわれていく。頭蓋までも。僕は跡形も残らない。存在していた痕跡も残らない。彼らの良き糧となる。
僕はそんな想像をした。
蜘蛛は、僕の瞳に気おされたのか、一目散に駆け出した。その異形の怪物は見掛け倒しだった。ただの威嚇にすぎなかった。虎の威を借る狐。彼自身にそれほどの力は無いのだ。巣という罠を張ったときに最大限の虚勢を張ることが出来るのだ。
実際、蜘蛛は脆弱だった。
僕が動かした手の下敷きになった瞬間、赤い体液と透明な体液を、アスファルトに垂れ流して、死んだ。
腹這いになって、八本の足を丸めて。天に向けて丸められた足はやがて硬直し、痙攣さえも起こらなかった。
彼は、死に絶えたのだ。よく見れば、八本あると思えた足は、七本しかなかった。節の部分から、完全に断裂してしまっていた。
僕は彼の足を捜した。死体の周辺を入念に探した。
しかし、足はどこにも見当たらなかった。僕は途方にくれ、諦めかけた時、僕の手のひらに一本だけくっついているのが確認できた。手のひらの生命線に沿って、黒い足が張り付いていた。
僕はそれをはがすと、蜘蛛の上に落とした。彼がこれから向かう先で不自由しないように、と。
僕はしばらく、蜘蛛の死骸を眺めていた。
蟻が蜘蛛の死亡を確認する。あの蟻は検死官だろうか。今度は、派遣されてきた大所帯の労働者が、一斉に蜘蛛の周囲を取り巻き、その死体を移動させようとしていた。信じられないことに、自分の何倍もの体躯を持つ蜘蛛を、いとも簡単に運んでみせた。距離は微妙だが、確実に運ばれていく蜘蛛の姿は、まるで葬儀の列や、御輿のよう。僕からじわじわと遠ざかっていく蜘蛛と蟻。僕は、そっとその様子を見守ることにした。
蟻の姿が視界から完全に消えたとき、僕は眠ることにした。
次に目が覚めたとき、僕はまたあの蜘蛛に出会えるだろうか。あの蟻に出会えるだろうか。
そして、また、あの、愉快なのっぺらぼうたちに……。
|