第三十七話・失ったもの
北口は光に満ちていた。
まるで人々の門出に激励の声を送っているようだった。
藍の背中が黄色い光に包まれ、聖書に登場する天使のように、二つの大きな翼を持っている。それは肩甲骨から生えていて、ゆっくりと天空へ羽ばたく準備をしていた。閉じたり、開いたり。
感触を確かめる。
巨大な翼が左右に広がる。
取れた羽が、周囲に散乱する。
柔らかく、そして、温かい。感触は、シルクのような。材質は輝きを秘め、透き通っている。
僕は、立ち止まっている藍にそっと近付いていった。
藍は、真っ白な外界へ歩き出す。光の帯が世界を覆っている。存在するものを覆う、まるで雪だ。その雪に変わって、光が世界を覆っている。
目を覆いたくなる衝動を抑えて、追いつこうと足に鞭を入れる。
藍は僕に気付いているのかいないのか、大きな翼を見せながら、歩いている。誇らしげに歩いている。これが、僕の理想とした背中なのだ、と思った。
背中は人を語る。人生を饒舌に語る。父の背中は確かに大きかった。
僕が及びもしない荘厳な背中。目では了知できない大きさが、そこに存在する。
幻出する、軌跡の音色。
僕は子供のころ、よく父におんぶしてもらった。父の頑丈で広い背中は、僕にとって家よりも心地のよい、安住の地だった。そこでなら、ベッドよりも直ぐに夢の中へ入っていけた。父の背中から流れてくる玲瓏なメロディが、僕の意識を奪っていく。
気付くといつの間にかベッドの上だった。
どこからか父の声がして、僕は目を覚ますのだ。父の背中で目を覚ましたことは、この人生の中で一度としてない。それは、料理をする母の背中を見ても感じられることだった。
腰にエプロンの結び目がある。スリッパを揺らす足。ふくらはぎの感触。
小さい僕は、いつも父がいない時、料理をする母にくっついていた。まるで金魚の糞のように。その当時の僕からすれば、母の背丈は巨人のようで、見上げることこそすれ、見下ろすことは出来なかった。母の手からつむぎだされる料理を見ることは出来なかった。その代わり僕は、母の背中をじっと見ていた。洗濯物をたたむときの母の背中。午後の斜陽を背負った母の背中。まるで太陽を背負っているようだった。包容力に溢れる背中を、僕は無意識に知っていたのか、思わず僕は仕事の邪魔を承知で抱きついていた。
僕が今見ている藍の背中。
僕はあのような背中を生まれてから一度も見たことない。
切なく、美しい背中。
あの時、雨の日。
僕が藍から逃げるように去ったあの雨の日。僕の背後から呼びかける、藍の悲鳴に似た声を今も覚えている。
声の行く先は、僕の背中だったのかもしれない。
藍が見た、僕の背中は、どんな背中だったのだろうか。
藍の悲鳴を受け止めた背中は、どんな背中だったのだろうか。
今はあの時と全く逆。
僕は藍を追いかけている。心の中で、叫んでいる。
その声が聞こえる。
藍の名前を呼んでいる。
今はあの時と全く逆。
藍の背中が、光の濁流に呑まれていく。僕は、それを視界の中心に納めている。
藍が消える。
人影が、奇妙な形で停止している。残像を残して停止している。戻ったり、進んだりをしながら、ぶれを生じさせる。
狂っている。そこに時間が存在していただろうか。
藍の羽が、煌くのが見えた。大きく羽ばたくと、藍の体が浮く。
僕は目をこすった。赤く腫れ上がるほど。眼球にある毛細血管が破裂するほど、強くこすった。まつげが何本も抜けた。眼球が今にも眼孔を飛び出しそうだ。
まぶたが裏返しになったような、嫌な感触が眼球にある。触れてみてもまぶたに異常は感じられない。しかし、感覚的には瞼は裏返っている。半眼になった僕の目には、地面から数センチを維持しながら羽ばたく藍がいた。時計を確認しているようだ。
僕は、走っているはずだった。
駅はこれほど広かったか。
出口までの距離は、目測でも百メートルもない。十数秒の距離。肉体の限界まで迫れば、十秒をきるかもしれない。
しかし、藍までの距離は一定に保たれたままで、触れるどころか接近さえ出来ない。いうなれば、僕は立ち止まって藍を見ている。
森閑の駅に、風が吹き込む。無音の突風だ。藍の羽を揺らした後に、僕の前髪を撫で上げた。
藍が前進していく。音もなく、羽も動かさず。藍が悠然と外界へ飛び立とうとしている。
僕の足が、機械のように動き出す。油がのっていない歯車は、軋みを上げる。足の上げる悲鳴。
上手に歩けないのは、疲労のせいではない。
この地面のせいだ。コンクリートに施された派手な模様。タイル張りの絵画。それが、溶岩のように溶け出している。泥沼と称したほうが適切かもしれない。僕の膝丈まで飲み込んでいて、一歩一歩が、相当量の労力を要求する。不思議なことに、僕が踏み出そうとするその瞬間に、コンクリートやタイルは、見た目とは裏腹の、軟弱なセメントに変化するのだ。
藍には追いつけない。
このままでは、永久に追いつけない。
藍が光の中に消えた。藍の髪も、バッグも、時計も、巨大な翼も、全てが純白の一体となった。
僕の体はそれでも走ることをやめない。たとえ、そこが泥沼で、足を取られようとも、進行方向に逆らう暴風が吹こうとも、光で姿形が消失しようとも。
僕は、藍が消えていった光に触れた。
真っ白な世界。世界の創世記。何も創造されていない世界。
そして次の瞬間。
僕がいた。
右手には父の手、左手には母の手。夕焼けに向かって歩いている。
今日の夕食は、ハンバーグだ。人参は入っていないそうだが、きっと母は、僕が完食した後こう言うはずだ。
あら、人参食べられたじゃない。
母はよく、ハンバーグの中に刻んだ人参を入れていた。
僕には、束縛が生まれた。それは、かつてあった自由とは程遠い世界だった。
地面を歩かなくてはいけないのは勿論のこと、話さなくてはいけない、食べなくてはいけない、飲まなくてはいけない、着なくてはいけない。
それ以外にも、山ほどある。僕は不幸になったはずだった。
しかし、不幸ではなかった。それどころか、幸福でさえあった。
煩悶すること、愛すること、感動すること、それらが全て幸福だった。
僕以外が何も存在しない、全てを知悉した完全なる意識よりも、全てを知ることが出来ない、不完全な人間のほうが幸福だったのだ。
不完全な人間だから、完全もまた生まれる。
人間が完全だったら、完全は生まれない。
罪は、そうして起こっている。
僕は、罪もあれば、幸福もある。自由はないが、束縛はある。
これを不完全と言わずに、何を不完全と言おうか。
小学校六年生の時。僕は恋をした。初恋だった。席替えのとき、偶然隣に座った女の子だった。
名前をエリといった。
その子は明朗快活な子で、テストの点数もよかった。他人に優しい子で、清楚で、素行もとても良かった。
先生からも、周囲からも好かれ、口々に純粋で素直な子、とクラスに太鼓判を押された。美人ではないが、美質は感じられた。
当時の僕にはその判断さえつかなかったが、僕は羨望に似た気持ちから、恋に発展した。
その突然は、僕を一変させる。
意識する。少女に触れたいと思った。話したいと思った。一緒に帰りたいと思った。手を繋ぎたいと思った。
密かな思いを少女の隣の席で育てていた。
僕は、授業中でも、休み時間でも、少女から目が離せなくなった。少女はそんな僕のことに気付いていたのだろうか。
僕の傍へ来て、どうしたの、と言った。
その一言が、僕の耳から離れなかった。自分の心臓が急速に高鳴っていった。
自分の心臓の音が聞こえたのは、それが初めてだった。
僕が中学校に進学してだいぶ経ったころ、別の小学校から進学した友人が僕に耳打ちした。
エリと、ヤったぜ。俺の部屋でさ。最初はどこに入れるか焦ったけど、気持ちよかったな。あいつのほうから求めてきたんだぜ。淫乱な女だよな。きっと初めてじゃないぜ。
僕は理解できなかった。それは、僕の想っていたエリではなく、別のエリだと思った。
僕の拳が、震えていた。悔しさだった。
僕なら、純粋に愛せるのに。
そんな考えを胸懐に持していた。だが、それは建前上であって、本音を言えば嘘だった。
勃起している下半身が、それを物語っている。
僕は純粋な心でエリと付き合ったとしても、段階を追ってそういった肉体関係に進展してしまうのは火を見るより明らかだった。
詰まる所、僕は汚されてしまったエリを見て、エリへの感情が逆転してしまったのだ。自分の宝物が泥で汚れていくのを見るのは、身を刻まれるような思いだ。
新品は入手当初こそ大事に扱うが、磨耗してしまうと、扱いは乱雑になってしまう。
僕のエリへの気持ちの例えだ。僕の中で輝いていたエリの偶像は、友人の言葉によって汚されたのだ。
他人とは違う、そう否定したところで、他人と同じ。
僕の世界は狭かった。
交接を結ぶことは、一生を通して一人、と決め付けていた。確かにそれは、誠実だ。
だが、僕の考えはいつしか転換期を迎えた。ペニスを挿入すること、童貞を捨てることを第一に考えてしまったときから、純粋で誠実な僕の意思は、曲がった鉄パイプのようになってしまったのだ。
僕は、不完全だ。行為そのものが不完全だ。
僕が生まれて、今まで生きてくる間、何一つ完全なものなどなかった。今も完全はない。
エリもそう、藍もそう。僕たちは完全ではなかった。世界が誕生した。不完全な世界が。
そこに生きる全ては不完全で、曖昧なもの。
藍が傷ついたのは、僕が完全ではなかったから。
それは違う。
僕が完全になろうとしなかったからだ。不完全な部分を僕に露呈させた藍は、傷口を僕に見せ続けていた。そこからおびただしい流血があっても、僕に見せ続けた。
自らは衰弱しているのに、見せ続けていた。
藍は、完全になろうとしていた。勇気の要ることだったろう。
他人に自分の弱さや、傷を見せることは、甘えではない。手管に使うわけでもない。それは、望むことではなかろうか。
愛するということは、傷口を擦り合わせることだ。
人の脆弱で敏感な部分を見せ合うことだ。理解することだ。
心は液体。そこに恋という媚薬が混ざったとき、液体はぬめりを持つ、全く新しい液体に変わる。
愛の液体に変わる。
それは、触れ合うごとに、溢れてゆく。思いが溢れ、感情が溢れ、言葉が溢れる。
愛は、心は、液体だ。
だから、普段隠している脆弱で敏感な傷を、互いにこすり合わせたとき、液体が溢れ出るのだ。
愛の、心の、液体が。
人は笑うかもしれない。僕のこの考えを。幼稚だと、虚偽だと、偽善だと、論駁するかもしれない。
愛のない行為もあるはずだと、荒言するかもしれない。僕は言う。
十人十色、と。
定義することは出来ない。もしかしたら、それだけが人類に与えられた唯一の自由かもしれない。
不完全が持ちえる自由。不完全だから、自由があるのかもしれない。
いわば、問題のない、答えだ。そこへたどり着く手段は星の数ほどある。答えはひとつでも、過程は未知数。
間違いなどない。一つの答えがあっても、正解などない。どれもが正しき道。交差し、一致し、轍を残す。
疾走してもいい、徒歩でもいい、早歩きでもいい、もちろん立ち止まって休息をとっても。
ただし、条件がある。
最後まで歩き続けること。自分の足跡を残すこと。自分と向き合うこと。過去を顧みること。
それが、存在の証拠になり、最も確かな存在証明になる。
ここに、いる、こと。
僕は、藍を追いかけている。
藍も僕も不完全で、互いに補完してこそ、完全に近づける。
そう――人は補完することで、不完全を完全に近づけようとしている。傷と傷。それが一致を見せる二人がいる。
空気のような必要不可欠な凸凹。未完成のパズル。ぴったり当てはまること。それを探す旅路。
補完。
藍。
春美。
光。
僕は無人の交差点に立っていた。空を覆う巨大なビル。閉じられた空が喘いでいる。道路には、車も、人も、塵も、ない。ゴーストタウンのような景色。音もない、風もない。時間が止まったようだ。日差しだけが暖かい。
僕は振り返った。そこには藍が立っていた。
人がどこからか溢れてきた。たちまち僕たちは喧騒の渦に飲み込まれた。僕と藍を避けるように進んでゆく人々の横顔や、背中が、霞んでいる。
目が、また痛み出した。
長身長髪の男が、藍の前を横切った。
後には、高校の制服を着た藍が僕を見つめて立っていた。今度は、サングラスをかけた派手な服装の男が、藍の制服を隠す。
後には、中学の制服を着た藍が。今度は、乳母車を押した年端もいかない女性が、藍の輪郭を覆う。
後には、ランドセルを背負った藍が。今度は、杖をついた老人が、赤いランドセルを消した。
後には、幼稚園のころの藍が。今度は、盲目の青年が、盲導犬を連れて歩いていった。
そうして、藍は次々に現れては退化を繰り返している。
人々の歩く姿が薄い残像を伴って見える。スローモーション。僕と藍だけが、現実の世界に立っているようだった。
幼稚園に入園前の藍は、片手に僕が子供の頃失くしたはずのクレーンの玩具を持っていた。
怒っているようで、不機嫌さを丸い頬に出している。
そして、何を思ったか藍は、僕にそのクレーン車を投擲してきた。僕の額にそれが当たり、鈍音が脳にこだました。
額に激痛が走る。額に亀裂が走り、そこから脳漿が染み出してきたかのようだ。僕の視界を紅に染める。世界が、片方だけ赤に変化した。
藍は、もうそこにはいない。
アスファルトに落ちたクレーンが、溶岩の上にでも落ちたかのように、溶解し、泡を吹き始めた。
藍が僕に与えた痛みは、僕の、もうひとつの意識を稼動させた。
僕は、三百六十度を見回した。世界に何かが欠けているような感覚がある。身に着けていたものがいつの間にか忽然と無くなっていたような、特殊な感覚だ。
身近なものゆえに、気付かなかった。
そんな類の感覚。僕は、一つ一つ入念に、丁寧に確認しようと、凝視した。
人、人、人。
強大な人の流れの接点で、巨大な交差点の中央で、僕は見回した。
欠けた何かを。忘却してしまった何かを。沈黙してしまった何かを。
しかし、それも雑踏の中で、消えていく。消滅。僕の中で何かが壊れた。
破砕されたガラスの響きが、僕の足元で響いて、脳まで上昇してきた。
空から、雪が降ってくる。
それは、雪であるのに、微光を放ち、とてもただの雪には思えなかった。
晴天の日でも、車内でも、それは所構わず降ってきた。胸を打つ、奇跡の雪。この世のものとは思えない、その奇異な情景。
落涙を誘う、切なさと、愛憐。揺曳とならぬよう、少しずつ消えていく、日々、少しだけの哀切。思いやり。愛情。
――私に拘泥しては駄目……。
割れたのは。
僕は、叫んでいた。
……僕の記憶。
交差点の真ん中で、膝を地面について。裂けるほど大きく開いた口を、雪の降る空に向けて。春美の降る空へ。
僕は叫んだ。最後の雪が僕の口に入るまで。
僕は叫んだ。雪が止んでも。
僕は叫んだ。
もう雪が降ることはないから、僕は叫んだ。
僕の咆哮は、天へ。
目を必死に瞑り、打ち震える体の力全てを声へと変換し、躊躇いもなく振り絞った。
それは、慟哭。絶叫だった。
喉が引きちぎれてもいいと思った。全てを声にしたかった。
悲鳴だった。こんなにも、大きな声を出せるのかと思った。
叫喚だった。鼓膜が震えるほど、僕は叫ぶ。
言葉では表現できないこの切なる思いを、叫びに変えて。
僕は吼える。
春美が動脈に作った、動脈瘤を思った。その大きさを、その膨張率を。破裂したときの後頭部の痛みを。脳に回っていく血液の量を。覆われた脳が硬化していく様を。僕が立て替えることができるなら、この場で動脈ごと吐き出してしまいたかった。
それで春美が戻ってきてくれるなら、その痛みなど厭わない。むしろ、歓迎さえする。
悲しみも、喜びも、全てが出て行けばいいと思った。
思想、感情、意識、全てが吐き出されればいいと思った。
体の中で巣食っている悪性の思考が全て出て行けばいいと思った。僕は、全てを失うまで叫ぶ。
叫ぶ以外に、この悲しみを浄化する術があろうか。
いや、ない。
喉は、もう繊維の断裂を僕に告げている。
この声がどこまで届いているか。それさえ、僕は考えない。些細なことなど、もはや論外だ。
雪が止み、この世から春美が完全に姿を消した。僕が完全ではないから、春美が完全に姿を消した。
いつもそばにいたはずの春美が、消滅した。町中に氾濫していたのに。どんな小さい空間にも存在したのに。僕は、消え行く春美をとどめておくことが出来なかった。
実像としての春美が死に、偶像としての春美が存在するようになった。
その場所へ行くと春美の声が聞こえた。
まるで目の前にいるような、優麗で、心の込められた言葉で、僕に語りかけてくれた。
消えていく兆候はあった、だが、その進行を阻止する手段がなかった。僕の、無力さ。雪が降ったのは、その早鐘だったのだ。
慟哭は、ビルに向かって飛んだ。衝突して跳ね返った。僕に返ってくる。この交差点一帯は、僕の叫びで溢れかえっている。それでも、足りない。
僕は、叫ぶ。
完璧な思い出となってしまった春美に。
もう、現実の世に立ち上がってこない春美の姿に。
耳元で囁かれない春美の声に。
僕は叫び続ける。
それが、再生への産声だとしても――涙にならない、思いを込めて。
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