第三十六話・迷走
バッグを藍の部屋に置いてきたまま、僕は玄関を飛び出した。
藍の母親が、僕を不思議そうに眺めていた。
僕は、とにかく走った。道路沿いのバス停を過ぎ、繁華街へ。
風が、僕の耳元で、細切れになる。荒々しい僕の呼吸が、乱暴な空気に加わる。靴音が、車の排気ガスの射出される音に混じり、タイヤの摩擦音に混じり、最後に、クラクションの音に混じった。
僕の足は、公園を一刀両断した。ベンチのペンキが剥げて、腐食した木が見える。手をつないだ男女の横を通ると、甘い香水の香りが僕の口の前で、漂った。顔面でそれにぶつかっていく。直ぐに僕に追いつけなくなり、消えた。
噴水がある。円の中心から、吹き上がり、目に見えない水の分子が、僕の肌にまとわりつく。冷たい感触が、僕の汗と合流する。
外壁のコンクリートに座るサラリーマンがいる。新聞の経済欄を難しい顔をしながら、頭に詰め込んでいる。
その反対側にはだらしなく寝そべった、スーツ姿の若い男。タバコを空に向かってくゆらせている。白煙が、噴水から零れた水に映る、雲と重なっている。
僕は、繁華街に出た。平日だから、人の数は少ないが、それでも間隙を縫うには体を捻らなくてはならない。
藍が見えた気がした。
店に入って行った。藍がよく好んで行った洋服店だ。
藍は、僕に愛想をつかして買い物で憂さを晴らそうとしているのだろうか。それとも別の理由があるのだろうか。
僕は、洋服店に入ったはずの藍を追って、自動ドアをくぐった。ハンガーにかけられたシックな洋服や、棚にたたんで重ねられているシャツなどが目に付く。
試着室のカーテンが閉まっている。もしや、藍はそこにいるのか。カーテンの前では、店員が目を丸くして、不意の客である僕を眺めていた。
だが、すぐに平静を取り戻して、いらっしゃいませ、と愛想を浮かべた。店内をしばらく見回してみたが、客は試着室の中にいる人物以外は見当たらなかった。
僕は、距離を縮めていった。僕は勢いをそのままに、試着室のカーテンを開けた。店員の制止を振り払って。
聞こえたのは、会ったことも見たこともない一人の下着姿の女性の、悲鳴だった。もちろんそれは藍ではない。悲鳴が現実のものとして脳に伝播されたのは、それから直ぐのことだった。
僕は、金切り声を背にして、その場から逃げ出す。
藍ではなかった。そこに藍はいなかった。確かに、店に入っていったように見えた。
僕は、あの路上で何を見たのか。
藍が、ゆっくりと店内に入っていく光景だ。ゆっくりと自動ドアが開いて、右足を踏み出した。髪が後ろに流れたのは、店内の風が外へ逃げ出したからだ。左肩には少し大きめのトートバッグ。左手首には、銀色に光る時計。カール髪が印象的な、藍だったはずだ。
僕は、すれ違う人の方に自分の肩をぶつけた。捻転する僕と男の体は、痛みを共有した。男は僕を仁王の形相で睨みつけ、場違いな大声を上げた。僕はその男の憤慨に歪む眉の向こうに、光る車のボンネットを見た。
瞳を突き刺す光線に、目が眩む。だがそれも一瞬だ。
刹那。立体交差点の、高架橋の先。
藍が、駅の構内に入って行く。
やはりトートバッグと銀色の時計。太陽と銀が鍔迫り合い、火花が生まれる。時計を気にしている。
どこかへ行こうとしているのか。電車だろうか。上りか、下りか。ユーズド仕様の膝丈のデニムスカート、その白と青のグラデーションが、目に優しい。
僕は、藍に迫ろうと、つま先で地面を蹴ろうと力を入れた。
しかし、そんなときに限って横断歩道の信号が僕を邪魔する。青い光の中で踏み出す足を停止させている紳士が点滅すると、まもなく起立をした男に姿を変える。紳士は、赤い光に包まれている。僕は点滅が終わってもなお、横断歩道の白と黒を飛び越えた。アクセルを踏みたくてもそうさせない点滅に、業を煮やした運転手が、じりじりと車体を前進させる。信号はいまだに歩行者の味方なのに、我慢を仕切れないのだ。爆発的なアクセルの踏み込みは、ここでは禁止だ。だが、前方がブルーシグナルを発したからには、そうはいかない。坊主頭の男が、僕の目の前に突進してきた。鋼鉄の塊とともに。
僕は、宙を舞った。
そんな光景が、未来図として僕の頭にクラクションの如く勢いよく流れた。現実の僕はといえば、ボンネットに手を乗せる形に停止していて、血走った目をさらに赤くした運転手が、今度は血管までも膨張させて、運転席から顔を亀のように覗かせた。
ところかまわず運転席を降りようとする運転手に、僕は一言もかけずに、駅へ急ぐ。
手首に目を落とす藍はもうそこにはいない。駅はそれでなくとも巨大だ。地下を含めて三階。それならまだしも、一階一階の幅が尋常ではない。地下一階は食品や、ご当地名物品、地元の老舗や、高級食品が軒を連ねる。そして一階は、地下鉄の切符売り場と飲食街。二階は、電車の切符売り場だ。
藍がいたのは、立体交差点、高架橋の上。とすると、藍は二階にいたはずだ。
僕は、近くにあった高架橋への階段を駆け上がる。颯爽と階段を駆け上る僕を、腰の曲がった老人が眩しそうに見ていた。過ぎた日の、若き幻想を僕に重ねたのだろうか。
僕は駅の構内へ、はやる気持ちと想像とを一緒くたにして殺到した。
灰色のスーツのサラリーマンが、皮のバックを手に提げて目の前を横切っていく。誰もが似たような姿でどこかへ引かれていた。一人として足取りに迷いはなく、役割分担のなされた黒い蟻のようだった。長い列を成して、巣とも思える改札口を同じ動作を繰り返しながら通って行く。
藍は、僕の見回した限りでは、影も形もなかった。駅の中のキヨスクの影や、その売り場の中、内部に店舗を持つコンビニの影を探した。
服装が違っても、似たような背格好の人がいれば回りこんで目をこすった。男に手を引かれている女が藍に似ているような気がした。
僕は堪らず、回りこんだ。一瞬躊躇った足と、上体を無理に動かして。
それは、藍ではなかった。安心している僕がいた。
僕の汗が、ほとばしる。シャツはもう、水に浸したように湿っている。髪の毛が、額に張り付いて不快感が増す。口に流れ込む汗のしずくは、塩の味がする。口から心臓が飛び出しそうなほど、まるで法律の規制を無視した暴徒のように、傍若無人に振舞う心臓。
僕の血に勢いは、ドラッグレースのスピードを超えている。
心臓はアクセル。血管はコース。ピットインは目にも止まらぬ、まさに瞬速。
靴の紐が解けている。年季が入っていることが、磨り減った踵から分かる。適当に結んだ。縦結びになってしまったが、かまわない。かまっていられない。
曲げた膝をもとに戻すと、割れるような痛みが膝から、全体へ。
吐き気がこみ上げる。準備運動もなしに、走り続けているのが祟ったか。
霞む視界の中心に藍の姿。
改札口の向こう。三番線へ。
痛みは嘘のように消え去った。藍を見つけるという最優先課題が持ち上がった。痛みは後回しだ、と脳が体に命令したようだった。
もつれる足が、何とか地面を踏みしめ始めた。
僕の足は本当に力が込められているのだろうか。
実感がない。下半身麻痺になったようだ。
だが走っている。上下する視界。遠くに聞こえる足音。リズム。切符を買う列に割り込んだ。並んでいる時間も惜しい。この電車に乗れなかったら、それが最後だ。
片道切符。僕は藍から、そう聞いた気がする。
これは、その切符のような気がした。周囲の嫌悪の視線も僕は撥ねつけた。僕にぶつかったが、僕には届いていない。絶対的な防塁がそこに築かれている。切符は音もなく滑り降りてくる。一枚の、薄く、頼りない紙。それが、人生という片道切符。
それに身を委ね、その中で僕は考える。藍と一緒に。
だから、僕は走っているのだ。蟻の列を蹂躙しながら、僕は改札口を突破した。
蟻は、それでも直ぐに隊列を戻し、何事もなかったのかのように、冷静を前面に押し出した表情を見せる。
三番線。プラットホーム。
黄色い線の直ぐ手前で横様に並ぶ人。線路に飛び込もうか思案しているのだろうか。
藍がその最後尾に見えた。頭上にある時計ではなく、手首の時計を見下ろしている。
電車が来るほうを見る。時間通りに電車が来ていないのだろうか。
僕は、階段でせき止められている。これほどの人が、果たして電車に乗れるのだろうか。
藍は乗れるだろうが、僕は。
混雑した階段の途中。僕の気持ちは階段を駆け下りているものの、現実の階段はそうはいかない。動かない人に苛立ちがつのる。
三番線に、電車がやって来る。
アナウンスがそう言っていたから間違いはない。巨体はまだ僕の視界には映らないが、世界でも最高の正確さを誇る我が国の電車は嘘をつかない。
人は嘘をついても、機械は嘘をつかない。
電車は、コーナーで少しだけ巨体を傾けながら、威風堂々、人々の眼前で停止した。
開かれる扉。未来への入り口。もしくは、ただの棺桶。ゆりかごのようにそこで揺られ、騒音という子守唄を聞いて成長し、寂しくなったら電車の中で肌を合わせ、そして年月を経て、棺桶となったそこで、死地へ赴く。
運ばれているのは、生か、死か。
命を運ぶものが、運命ではなかったか。では、その電車は運命なのであろうか。それとも、命を宿した入れ物、宿命であろうか。藍は、その線路に沿って動く自動棺桶に乗って、その小さき身をどこへやろうとしているのか。人が、まるで注射器の液体のように次々に電車という腕に注入されていく。藍も、林のような男に挟まれながら、窮屈そうに注入された。
そろそろ僕の番が近づいている。
階段の終わりが近づき、電車で缶詰状態になっている人が目に付くようになる。背後にのしかかる人の体重に耐えている、しかめ面の人がいる。僕もその人と同じ流れをたどることとなった。背中には、常に見知らぬ誰かの体温。藍の背中にも、きっとまた別の体温が感じられているのだろう。
僕は扉側にいた。藍は僕の側の、もうひとつの扉側にいて、僕からは、ほんの少しの顔と、体の一部分しか見えない。
この車両は特に込み合っているようで、人肌から立ち上る熱気は、真夏の熱砂に似ている。
藍は苦しそうにバッグを抱えていた。
吊革は、それを握る人の汗で濡れ、光沢を車内に放っている。どの吊革も、今は引っ張りだこだ。僕は、見え隠れする藍を、必死に見ていた。僕の目から離れないように。
しかし、外国人の背中が、割り込むと、藍はたちまち見えなくなった。電車が、カーブに差し掛かり遠心力が働いたためだ。金髪碧眼の外国人は、大きめなリュックを背負っていた。彼の横には、恋人らしいブロンドの女性が、ヘッドホンをしていた。男も同じように外界の騒音を遮断し、一人だけの時間と空間を保っているようだった。
車体が平衡を保つと、また藍の顔が見えた。唇を引き結んでいるようで、見ている僕からもそれは、忍耐を表していると分かった。
乗客の体臭が、僕の鼻先に不快感を残す。
藍は、次の駅で降りたようだった。
乗客の半分は次の駅で降りていったのだ。降車の際の混雑で、僕は藍を見失った。
だが、藍がいたはずの扉に再び視線を戻すと、そこに藍はいなかった。
僕は閉まる扉を間一髪で潜り抜け、階段を上る人々の、大小様々な背中を、目を凝らして探した。
藍の背中は、階段の最上で見つけた。
東口から出ようとしている藍の背中は、他のどの背中よりも僕には大きく見えた。
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