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鎖状の楼閣
作:NAO



第三十四話・惰眠の終わり、混沌の始まり


 惰眠を貪る、とは、政治家たちや財界人の愚考を表すものではなく、この僕の習性についての言葉だと思う。
 僕は、春美のマンションへは、ついに帰らなかった。
 家族三人と、藍との会食以来、僕は家から一歩たりとも外界へ肉体を晒さず、このベッドの上で、日々のほとんどを過ごした。
 母の声で目覚め、下へ降りていき、母が腕を振るった朝食を食べる。それがここでの日課だった。
 父は、僕より早起きで、母の手を煩わせることもない。
 だから、僕が朝食の卓につくころには、椅子に座って新聞を読んでいるか、窓を開けて、二匹の犬の良き遊び相手になっているかのどちらかだった。今日は新聞を読んでいた。
 僕は、寝癖のついた頭を掻きながら、あくびをして椅子に座る。昔使っていたよれよれのパジャマのしわが酷い。
 母はご機嫌で、踊るように卓上に食器を載せる。
 鮎野家は決まって食パンとコーヒー、そして目玉焼きにサラダが朝の定番メニューだった。
 コーヒーメーカーから、湯気の立ち上る液体がカップに注がれる。二つの目玉が、皿の上で揺れている。木製の食器に山盛りになっているサラダには、宝石のような細かな水滴が付着する。新鮮で、それでいて歯ごたえが良い。ドレッシングがなみなみと注がれるのを横目に、僕はフォークとナイフを取る。目玉を半分に切ると、そこから半熟の卵が、黄色い舌を出した。僕はそばにあった塩と胡椒をかけ忘れていて、一口サイズに切ってから、目玉の頭上に満遍なくふりかけた。
 目玉に胡椒、とは、痛そうな光景だった。
 母が席に着くと、決まって、
「あなた、新聞」
 と言う。母は、ながら、が好きではない。ながら、というのは、何かをしながら、という意味だ。
 物事を中途半端に片手仕事でやろうというのを、母は気に食わない。何かをするにしても、拙速を嫌い、巧遅を好む母だ。完璧主義の申し子のような存在だった。孫子は、巧遅は拙速に如かず、と言って、物事はすばやく決行すべきだ、と説いてはいるが、母に言わせれば、ただの屁理屈、と言いかねない。
 父は、すばやく新聞を折りたたむと、僕と同じくフォークとナイフを取った。母も同様に。
 朝の白い日差しが、カーテンを射抜く。
 朝の風がカーテンをスカートのように舞わせ、コロのワルツを誘う。カーテンを通して見える庭では、アゲハチョウがペロに追われている。
 黄金にも見える羽を必死に揺らせて、逃げている。ペロは遊んでいるつもりなのだろうが、蝶にしてみれば、要らぬちょっかいであろう。
 食器の触れ合う音が、響く。
「おっと、今日はゆっくりしていられないんだ」
 父が時計を見て椅子を引く。ソファにかけていたスーツの上着を取ると、玄関の鏡でネクタイを整える。
 母はその後をついていって、見送ろうとする。黒いカバンを手に提げて、父は玄関で母と向き合う。
 何千回と繰り返されてきた、儀式のような出来事。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 母は、笑顔で見送る。父がドアを開けて外に出る瞬間の母の寂しそうな顔も、父の出て行く靴音も、ドアが閉まった後に訪れる静寂も、振り返った母と、仕事に向かう父との途切れた時間も、僕は今まで何度となく目の当たりにしてきた。
 僕がこの家を出て行く前にも後にも、僕はこの出勤の儀式を考えたことはない。
 しかし、今。この家に戻ってきた今。それが温もりと悲しさに溢れる行為だったということに気づく。
 日常の些細な別れを繰り返して、また、再会を繰り返す。母は、きっと一日たりとも、こう考えることを忘れたことはないだろう。思わずにはいられないだろう。
 無事であるように。
 高校を卒業するまで、僕と父は一緒に登校、出勤していたから、ドアを閉めた後の母の表情を知らない。
 笑顔で送り出すことの強さ。それを今、僕は知った気がする。
「食べた後は、ペロ、コロを散歩に連れて行かなきゃ」
 僕は、甘えていた。
 母は、嬉しそうだった。僕の世話を焼くことが。
 僕も心のどこかで嬉しがっていたのかもしれない。世話を焼かれることが。
「ごちそうさま」
 僕はこの生活に適応し始めた体のサイクルを受け入れていた。歯車ががっちりかみ合って、円滑に物事が進行する。
 苦労もない、努力も必要ない。ただ、無為に過ごせる時間。
 雑務に頭をかき回されることのない、自由な時間。
 春美や、藍、晴美から離れた、本当の意味での感情の自由。
 懊悩からの、一方的な逃避ではなく、一時的な避難。
 あまりにもつらい現実の中に、どんな曙光を見出せというのか。自問しても、答えなど出ない、ましてや、卑小な自分に出せるはずなどないのではないか。
 それに対する答えだけが、確かにそこにある。
 手のひらに。この手に触れるべきものは何か。春美ではない、何か。
 足に。この足をどこに向けるべきか。春美の居場所だろうか。あるいは、別の場所。
 そして、胸に。この胸に抱くものは何か。春美ではない、何を。
 父の車が車庫から出て行く音がする。耳に慣れたエンジン音が、路上を走る。
「麻斗、今日から大学始まるんでしょ」
 僕はダイニングルームを出て行く足を押しとどめて、母に頷いた。
 夏休みは、終わっていた。
 大学に入学してから、初めて家から通学する。不思議な気分だった。高校時代を思い出させる。違うのは、制服を着ていないということだけ。
 最低限の教材に筆記用具。よく先生に注意された、授業に関係のないものを入れるという行為。頭髪の染色は、大学では関係なかった。生徒の自主性と、自制に委ねていた。
 ただ、僕にすれば、自制というのは、時勢と聞こえてしょうがなかった。
 僕たちは、自分を時間の流れに委ねていたのだ。
 自分というものが分からないから、時勢に委ねている。皆がそうしたから、一人は嫌だから、時の流れに身を任せ、溺れないように、上手に流れに沿って泳いでいく。
 それは、止まれない。だから、自制など出来ない。自分がないから。流れが急だから。
 最後に僕は、今日の服装にあった靴を選んで外へ出る。制服のときは一律だったものも、今となっては数種類。大きく変化した。靴だけではない、何か別のもの。
 重量感のある何かを、僕は背負わされた気がする。



 二ヶ月ぶりに入室した講堂は、普段より騒がしいようだった。
 夏は、人を変える。
 派手さが一挙に押し寄せる。その点、僕は変わっていなかった。
 夏休みを挟んで、僕は、春美を思った。この二ヶ月間、僕は様々な思いに苛まれ続けた。
 この終わりの見えない、懊悩。苦しさ。
 どうしようもない、孤独感。
 友人が、僕に声をかけていく。久しぶりの挨拶を、口にしていく。僕はそれに当たり障りのない言葉で返事をし、挨拶を交わした。
 僕は席を立った。廊下に出、歩いてみる。最初の講義の講師と、すれ違う。僕は戻る気はなかった。
「麻斗、藍、病気なんだってな」
 友人が声をかけてきた。どうやら、最初の講義をサボるらしい。
「藍が病気?」
 僕は聞き返した。藍が病気だとは聞いていない。聞かなかったからかもしれないが、連絡ぐらいはあってもよかったはずだ。
 あのときの僕の態度に憤慨しているのなら、それも仕方のないことだが。
 友人は訝しがる。
「代返とか、よろしくってさ。何で、って聞いたら、しばらく病気で来られないってさ。麻斗は、何も聞いていないのか」
「聞いていない」
「そうか……じゃあ、これから、来ないか、一緒に。麻斗のこと紹介しろって、心理学部の女がうるさいんだよ」
 僕は、丁重に断った。友人は残念そうな顔をしたが、次の瞬間には晩夏の笑顔を取り戻し、今度な、と言って背を向けた。
 藍が病気。
 聞きなれない単語。藍は生まれてから今まで、病気と言う病気をしたことがない。人も羨む健康体で、小学、中学、高校と、全てにおいて、精勤賞。卒業式には、賞状まで授与された。
 ある意味で、病気にならないのが、病気だった。
 その藍が病気。熱が四十度出ようと、学校に来て授業を受けた藍が、代返。
 妙な胸騒ぎがした。
 胸の奥でざわめく木々の梢。その風は冷たく、肌身にしみる。障子に映る月夜の影絵。そこから見える庭木の葉が作る鋭利な影絵は、怪物の禍々しく突出した恐怖を連想させる。
 障子を開けて、怪物の正体を白日のものとする好奇心、それと相俟って存在する怯え。
 障子の取っ手に、恐る恐る引っ掛けた手が震える。その手が音もなく障子を開いたときに見えたものは、ただの風に揺れる木々。
 撫で下ろされる胸。こけおどしを鼻で笑い飛ばせる、大きな安堵。
 そうであってほしい、と携帯電話を取る。あらかじめ入力されていた藍の電話番号を確認する。
 まもなく、藍本人の声が聞けるはずだった。
「……電波の届かないところにあるか、電源を切っているかの……」
 僕は、携帯電話を睨んだ。
 障子を開けたら、また障子があった。依然として、障子には悪魔がいて、せせら笑いをしていた。
 講義をする講師の声が、廊下に漏れる。廊下を挟んだ教室の中には人が溢れているのに、廊下には人気がない。たった一人だけ、廊下の端にある通路口から、廊下に入り、そして、こちらに向かって直進してくる女と、僕を除いては。
 岩井晴美。
 彼女は、僕を視認すると、冷たい影を含んだ笑みを浮かべ、僕の脇を通り過ぎようとする。
 大気を切り裂くような、研磨された刃物のような鋭い足取りは、それを表現する音ですらも超越している。僕の耳を音が切り裂く前に、踏み出される足のラインが、僕の瞳を切り裂いていた。
 まるで、踏みしめた地面を凍らせ、生きた花々をも冷凍死させるように。
 僕は、晴美に気圧される体を、その場に踏みとどめることで、精一杯だった。汗が噴出してくる。僕の意思より先に、思考より先に。毛先が逆立ち、渦巻く静電気が僕に集中してくるようだった。
 晴美は、僕の真横、数ミリという距離で立ち止まった。僕の耳元に唇を寄せ、冷厳に囁いた。
 悪魔のような、死を弄ぶ囁き。
「なぜ藍が来ないか、教えてあげましょうか」
 僕は、廊下の向こうを直視したまま、視線すら外せない。
「ああ、その前に、あなたに一つ言っておかなくてはいけないことがあるわ」
 耳元で氷の微笑を浮かべる晴美が、視界の端に入り込んだ。
「ありがとう」
 それは、素直な感謝というよりは、惨めな者に対する哀切だった。
「藍がなぜ来ないのか……それはやっぱり言わないことにするわ。あなた自身が確かめることね」
 それだけ言うと、晴美は僕の背中を突き刺しながら、歩いていった。
 靴音は、針の音に等しい。












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