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鎖状の楼閣
作:NAO



第三十三話・夕食


 夕食は、和やかに過ぎていった。
 僕は藍の隣、両親と向き合う。
 食べた気がしなかった。
 否応なく掘り返される過去の廃棄物を暴露され、赤裸々に語られ、僕は終始、藍から視線を逸らさざるをえなかった。藍は、興味津々といった態で耳を大にし、両親は調子に乗って声を大にする。
 焼肉の焼ける音を上回って。
 最後にこうして食事会に招いたのは、小学校卒業記念だったと思う。そのときは、藍の両親も同席していた。藍一人が招かれるのは、幼稚園以来だと記憶している。
「それで、麻斗は一人で泣いていたんだ。クレーンがない、クレーンがない、ってな」
 得意げに話す父の頬が、解された焼肉のように緩む。白い煙が僕を包んで隠してくれたら、と願っていた。
「そうそう、あれは酷かったわ。手が付けられないんだもの。同じ所をぐるぐるぐるぐる、当てもなく。一度探したのに、また探すの」
 同調する母の手は、箸を握ったまま。
「それでどうしたんですか、クレーンは」
「結局見つからないままさ、なあ、麻斗」
 聞こえていないふりをしていても、耳には嫌味なほど、すんなりと入ってくる。僕は頭を抱えていた。
 話は二転三転する。
「母さんは知っていたのよ。麻斗がちょくちょく部屋に女の子を連れてきたこと。麻斗に口止めされて、あなたには黙っていたのよ」
 僕に悪いからか、細い声で話す母だが、悪いと思っているなら話さなければいいはずだ。この場の雰囲気に気分を高揚させられて、結んでいた約束の紐をついつい解いてしまったのだろう。
「本当か、麻斗」
 父が色をなす。箸を持つ手の握力が、二倍に上昇する。端でつままれた焼肉が、音もなく千切れた。僕は背筋に悪寒が走るのを久々に味わった。
「なんか分かる気がします」
 藍は神妙な顔で頷いている。僕の味方はどうやらこの食卓にはいないらしい。孤立無援で、四面楚歌、そんな熟語が肉の間で焼かれている。
「藍ちゃんも知っていたのかい?」
 父が驚愕の表情に眉を屈曲させる。
「ええ、同じ学校ですから」
 簡単に顎を上下させる藍の心理を、僕は計りかねる。一向に食が進まないのは僕だけで、両親や藍は、もう半分を胃袋に収めていた。
 喉が、締め付けられて痛い。
「麻斗、あそこは勉強部屋だぞ」
 聞きしに勝る、どすの利いた声。僕は顔を上げられない。父の憤激の形相は、苦手だ。
「いまさら言ってもしょうがないわよ」
「しかし……」
 僕はとにかく頭痛に耐えるしかなかった。曙光の見えない道を非難に晒されながら歩くようだ。
「大学のほうは、どうなの」
 話が変わって、僕は安堵の息を、密かに白米に落とす。この米の数だけ非難された気がする。
「何とかやっていけています。試験は、苦戦しましたけど」
「高校のころから頭脳明晰だったからな、藍ちゃんは。それに比べ……」
 藍の方を向いていた父の顔。向けられた視線。僕は伸ばしかけた箸をたたむ。
「麻斗も、成績はよかったじゃない。あなたは、高みを求めすぎなのよ」
 母は困ったように父に視線をくれる。地獄に仏とはこのことか。
「私も麻斗も、同じ大学ですから」
「学部間格差というものがあったからな」
 父は納得いかないらしい。確かに父の言うとおり、学部間格差というものは存在した。だが、大幅な差異が学部間に存在しているわけではなく、あくまで偏差値にするなら二、三といったところ。それでも、その二、三がいかに大きいかは、受験生にとっては周知の事実、空笑いを誘うところだ。
「こいつは学校では、どうなんだ」
 父は乱暴に言った。顎で僕をしゃくったところから見ても、たいそうご立腹らしい。
 藍は、初めて曖昧に笑った。ピアスが揺れる。汗が光る。
「しっかり、勉強しています」
 感情のない声に、僕は父に悟られると、早合点した。
「そうか、それならいいんだ」
 拍子抜けした。
「あなたは藍ちゃんの言葉なら信じるのね」
 嫉妬心をこめた視線と、言葉遣いに、父はひるんだ。母は頬杖をついて父の動向を静観している。静止という威圧感に、父は母の目を見つめていられなかったらしい。僕を通り越した壁に、焦点をバトンタッチした。保温状態にされた鉄板の上は、焼け焦げた肉や、野菜の阿鼻叫喚。まさにこの世の地獄だ。なぜか僕は、沸騰した熱湯に生きたまま投入される、哀れな海老を想起した。
「信用の問題だ。信用の」
「単にかわいいからじゃないかしら」
 狼狽する父の脇で、母の目が光る。レントゲン写真のような眼光だ。
「何を言う。それは男にとっては仕方のないことだ」
「ほら、自分で認めているじゃない」
「む……」
 言葉を失う。
「屁理屈よね、藍ちゃん」
「そうですね」
 女性二人は意気投合しているようだった。矛先が僕から父に推移したことで、僕の食は幾分進みだした。
 しかし、安心も束の間、それを見つけた父が、僕の箸を、言葉で、折った。
「いいか、麻斗。こんな立派な幼馴染を持って幸せだと思え」
 なぜ父が威張るのかは分からない。
「藍ちゃん、もっと食べたら」
「年頃なんだから、そんなに勧めなくてもいいだろう」
 頬を風船のようにする母の目尻の皺は、年相応の美しさだと思う。
「あら、過剰なダイエットは、かえって肥満の元凶なのよ」
 昔に比べて父の腹がたるんできたのは、運動不足だと考えたい。
「お前のは、ただの食いすぎだ」
 母は、箸を持ったまま首をかしげて、考え込む。
「私、どうしてこんな人と結婚したのかしら、不思議だわ」
「おじさんは、素敵な人ですよ」
 常に笑顔のまま、唐突に驚くことを言う藍。
「ほら見ろ。これで離婚後の再婚は安泰だな」
 母は、どうしようもない、という表情と嘆息を、同時に作った。
「冗談に決まっているでしょう。あなたには、私しかいないわよ」
「それもそうだな……」
 この夫婦は、その子供である僕からしても理解できない。
 絆、という言葉では説明にならないだろう。


「色々な意味で、不味かった。今日の夕食は」
 僕は自室で壁に寄り掛かり、窓に張られた満月を眺めている。
 ベッドに座っている藍は、僕を楽しげに見ているが、僕自身は楽しくなどない。程よい解放感が、夜風に合う。
「麻斗が困るところなんて、もう見られないかも。単純だって言っても、それは高校時代まで。今の麻斗は、ほんとに感情を表に出さない。心の中で全て解決しようとするから……」
 藍が、愁容な顔つきで僕を見ている。僕の返答を期待しているのだろうか。
 だとしても、僕は答えるつもりはない。正直言って、藍の言うことは正鵠を得ていると思う。
 僕は、感情が自然に頬に書かれてしまうような人間ではなくなった。表情が反射的に出ていたころに比べて、表情を出す前に感情を挟む傾向が強くなった。
 感情というよりは、意図と言い換えたほうが適切だろうか。
 これが大人になることであると、僕は考える。
 たとえ嫌悪すべき言葉や態度であっても、それが自己利益に繋がるのなら笑っていよう、素直に受け入れよう。自分は間違っていないのに、叱咤されていても、謙虚に受け入れよう、顔には謝罪という文字を上書きして。
 そういう、忍耐力が成長の証。大人になるということは我慢することなのだ。素直な表現は、身に降りかかる火の粉を増やすだけだ。
 しかし、今日の夕食での僕は、そんな決心を根底から覆す失態だった。適当に受け流しておけばよかった会話を、真正面から受け止めてしまった。困った、そう思った僕がいた。冷静に対処すべきところを、一喜一憂していた。
 これでは、抜け殻を着用したのとなんら変わらない。
 ここは、幻のような場所だ。遺棄してきたはずの思い出が、息づいている。
 長年暮らした空気が、僕の肺を満たしたときから、僕は時を逆行し始めている。
 完全に忘却へと追放したかに見えた記憶までもが、家中至る所を視界に収めるたび、失った声を取り戻して僕を呼ぶ。幼稚園のころの美声で、小学校のころの高音声で、変声期後の低音声で、僕を呼び、振り返らせようとする。
 この部屋はその中心だった。
 多感な時期をこの一室で過ごしたことで、過去をこの空間に集中させる。どこを見ても、過去がある。僕の過去がない場所に隠れようとしても、無駄だ。八方にそれがある。光を落としても、闇にそれがある。春美の妄想に捕らわれる暗闇。前向きな思考を妨げる暗闇。
 過去からは、逃げられない。僕が逃げても、追いかけてくる。万能な追跡者。強靭な肉体を持ち、溢れる英知、地獄耳、千里眼で、僕を丸裸にする。僕には指一本も触れない代わりに、僕の全てを監視する。四六時中、昼夜を問わず、一生涯。僕は、闇夜の道に立てられた死に際の電灯下に、追跡者を確認する。黒い鎖に束縛された四肢。黒いトレンチコート。眼帯をした、片目の面。炯々と赤い瞳を濡らし、僕を観察している。電灯に集る蛾が散らす、煌びやかな鱗粉の下、頬まで裂ける長大な口。袖口には、白い蛆が湧く。
 僕に近づくことは絶対にしない。だが、僕に極限の恐怖を植え付ける。喉もとに当てられたナイフのように。
 それが、過去。
 これから出会う全ての人に、それを知られてはならない。僕が、子供のように怯えていること、恐怖に身を震わせていることを。
「怒っているの?」
 この家は、それを包む。包含したまま、優しさや、柔らかさに変える。
 だから、気持ちがいい。安眠の淵に、追跡者を見ることがない。
 食後の歓談の空気、橙色の雰囲気。ベッドの仄かな温もり、自分自身の体臭に対する執着と、愛着。これが、居場所として機能したとき、僕は敬虔な従順者となる。
 因循さを無意識に求め、革新を捨てた人間。平和で、フラットな生活。安定と呼べば、聞こえはいい。
 だが、僕はそれを、甘えや、小心と断じた。だから、外へ出たのだ。大学進学をして、自分自身の世界へ、新たな次元へ。
 それとて、春美のマンションに同居することで一部は達成された。そして、一部は置き去りにされた。
 春美に対する甘え。それは、この家の中にある、甘え、と、微かに一致しているのかもしれない。
「私、もう帰るね」
 藍がそそくさとドアに向かって歩き出す。ドアをくぐる時、そっと僕を見てつぶやく。
「私って、何のためにいるのかな」
 鼓膜で反復して聞こえた。
 やっと脳に届き、僕はドアを見るが、その時には、すでに藍の姿はなかった。
 それは、僕の返答を必要とする問いだったのか、それとも捨て台詞だったのか。
 すでに、藍の姿はない。












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