第三十二話・写真
焦点が定まらず、部屋が二重に見える。
どうやら、僕は睡魔に連れ去られていたらしい。
脱力感はいまだ拭えず、体中が石のようだ。体が虫になった男の話が脳裏をよぎった。気持ちの悪い話だった。目覚めると虫に変わっていた、という突飛な話。僕は顔がそこにあること、脚が二本であること、手の指があることを夢と現実の岸辺で確認した。
部屋は暗く、静寂の腕の中、僕は上体を起こす。
耳に吹き込む夜風に、僕は暑さを忘れる。
開け放った窓から風が吹き込んでくる。
時刻を知ろうと、壁掛け時計を探して目を凝らしてみるが、電池が切れていて動いていない。秒針が痙攣してすらいない。完全な死だった。
僕は足をベッドから下ろす。
「僕はどれぐらい寝ていたんだ」
闇に覆われて、空間という意味を失った部屋が、わずかに蠢く。
「今は、夜の七時」
闇はそう答えた。
「断っておくけど、勝手に入ったわけじゃないからね。おばさんに聞いたら、麻斗は部屋よ、って。寝ているとは思わなかったもの」
テーブルの端に座った輪郭は闇に隠れ、声だけが確かな輪郭を持つ。
藍が傍らにいる。
「食事に誘われたの。何年ぶりかな、食事に招かれるの。まるで、昔に戻ったみたい」
僕は、立ち上がると電気をつけた。天使の輪が光り輝く。
「まぶしい」
藍は目を細めて抗議する。
「却下。自分で電気つけないのが悪い」
「だって、麻斗よく眠っていたし……。それに、この部屋、入るの初めてだし。こう……麻斗のことが分かるかなって。匂いや、性格や、空間の作り方とか」
「気持ち悪いな」
「そんなことないよ」
ボリュームを上げた藍の声は、どこか必死で、僕の寝覚めの耳には、少しうるさかった。
「当然だよ」
「二人とも、いらっしゃい。ご飯よ」
階下から母の声が聞こえた。喜色混じりなのは、僕の気のせいだろうか。藍は、母の声に言葉尻を失ったのか、口を閉じたまま、撲に階下に行くよう促していた。
僕はドアを開けた。二階の廊下は暖かい光が降りていて、羊の毛を思わせる暖色が僕を包む。
続いて藍が出てくる。
濃いインディゴブルーのデニムからは、すらりとしたふくらはぎをなぞることが出来る。それは、なだらかな山の稜線を思わせる。スタッズが散りばめられたベルトからは、過ぎ去ったロックテイストが味わい深く異彩を放つ。藍は、階段に足をかける僕の背中を見つめながら、自分も階段を下りる。
「私の写真、あったよ。あれは修学旅行のときのだよね」
僕は、藍に聞こえたかすら分からない低い声で、是認した。
「あの写真、友達にあげたんじゃなかったの?」
正確には、友人が藍に交際を断られたとき、僕の部屋に置いていったのだ。しかし、藍は僕があの写真を撮った理由を知っている。僕は口外していないはずだった。
「知っていたのか」
「麻斗は傍目にも分かるくらい単純だから。無理していたし、不自然。愛想笑い。不気味。分かるよ、それくらい。それに、後になって言われた。麻斗に礼を言っておいてくれ、って」
僕は心中で舌打ちしていた。まるで道化のようだった。知らないのは僕だけ。これほど屈辱的で、心苦なことはない。
「悪いけど――」
藍は、僕がシャッターを押したことについて言っているらしかった。
「笑えないよ」
あの、寂寞の微笑、の胸裏。
「麻斗が私をファインダー越しに覗いていても、私が笑いかけるのは麻斗じゃなくて、別の人。どんな顔をしたらいいか、分からなかった。鳩尾の辺りが、絞られるように痛み出して、どうしようもなかった。叫びたかった。人が見ていたって構わない、体裁なんて関係ない、麻斗への気持ちもそう。ただ、大声で叫びたかった」
僕は石像にでもなったかのように、階段で固着していた。ひどく稚拙で、不評をさらう石像であったに違いない。
「好きだ、って」
それは、僕が春美に対して思っていたことと共通する。
友人が藍を見て胸を痛め、藍が僕を見て胸を痛め、僕は春美を見て胸を痛めていた。
一方通行の高速道路上では、絶対に振り向けない。加速していく感情の乗り物、つまり身体は、自分自身では止まれない。ブレーキがない、もしあっても踏む気がない。その必要がない。誰かが後ろを振り向けば幸せになれる。そんな射幸心に頼ることは無駄でしかない。
「でも、麻斗は、春美のこと好きだった。傷つきたくなかった。分かっている失恋なんてしたくない。だから、押し留めた。苦痛の度合いは日を追うごとに増していったけれど、何とか私の狭い箱の中に詰めていった。破裂しそうで痛かった。すれ違ったり、言葉を交わしたり、時として触れてしまうときがあると、暴発しそうで、臨界点なんか簡単に突破していくの」
僕もそうだった。春美に古典を教えてもらうときだけが、ただ一つの安静だった。それ以外は、妄想と現実の間を行き来する毎日で、自我というものが暴走していた。春美に教わっている他の生徒を見て、あからさまな嫉妬を浮かべたりした。先生方に敵意を剥き出しにしたこともあった。そうして、僕は杞憂に苦しんでいたのだ。
「冷めるわよ」
遠くで聞こえる母の呼び声が、まるで過去の声のように聞こえる。その声が幻聴であるかのように。
「同じなんだな。感情は」
「そう、万人共通、形は違えど」
僕は肩越しに振り返り、藍を見た。藍は、プリーツの入ったカットソーの白さに勝る、にっこりとした笑みを浮かべ、僕を見下ろす。
「好きだよ」
藍は照れを隠すように、僕の背中を思いっきり押した。
僕はバランスを崩し、倒れこんだ。
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