第三十話・団欒
テーブルを囲んでの食事は、懐かしいというよりも、恥ずかしさが、大きく身を乗り出してきた。
高校時代の僕は家族と食事をすることでさえ嫌がって、早々と食事を済ませ、自分の部屋にこもっていたのに。
今、久方ぶりの食事になると、こういう時間も大事に思えてしまうから不思議だ。
僕の気持ちを代弁するかのように、父と母は、ひどく饒舌だった。
「麻斗がこの家から引っ越したときは、ひどく落ち込んでいたよ、なあ、貴美子」
「何を言うのよ、それはあなたでしょう」
「いいや、お前だ。引っ越した翌日の朝だ、お前は麻斗の部屋に向かって、声をかけていたじゃないか」
母が、思い出して咳き込む。
「『麻斗、ご飯よ』『いい加減起きなさい』ってな」
父が山の頂で叫ぶ登山者のように、少し大げさに声を上げた。
母は、やめてよ、といわんばかりに手を振った。
頬が赤く染まっているのに対し、僕は微笑を隠せなかった。
それを見咎めた母は、急に怒り出して、僕を少しおどけたようにたしなめた。
「ちゃんと朝食も、三人分用意していた……」
父の顔が苦痛に歪むのが見えた。
父の隣に座っている母の足が、父のほうに寄っているのが確認できた。
おそらく、足でも踏まれたのではないのだろうか。
「それなら、あなただってそうでしょう。帰ってくるなり、『麻斗はまだ帰ってないのか』って。麻斗が帰るわけないでしょう、引っ越したんだから」
「それは、あれだ。その……」
父が口ごもるのを見て、母は胸を張って威張っていた。父は、僕の顔をちらりと睥睨し、ばつが悪そうに、スライスされたパンの上に野菜とトマトを載せると、大口を開けて頬張った。口の中でつぶされる野菜の音がこちらまで聞こえてきそうなほど、美味を漂わせる頬張り方だった。
僕も思い思いにパンの上に野菜を乗せて、口の中へ入れた。
咀嚼するとあふれ出してくる野菜のエキス。なんともいえない冷たい食感と口当たり。パンとの絶妙なマッチには、驚かされた。
「ともかく、会えてよかったわ。麻斗ったら、何も言ってこないし、帰ってきてもくれないんだもの。父さんともども心配してたのよ……」
口を濁した母の言いたいことは、言わずとも察していた。
「でも、こうして麻斗が笑っていてくれるんですもの、母さんは何も言わないわ。あなたも、そう思うでしょう」
父はサラダの脇に置いてある麦茶をコップに大量に注ぐと、口元に運ぶ。
汗をかき始めたコップの雫が周りの水分をも吸収して、父の膝へ一滴、垂れた。父の喉が唸る。喉仏の上下が、激しい。
「この際言っておくが……」
コップを下ろす父の手は、先ほどの犬の唾液のように、コップに付着した水分で濡れていた。
「母さんの子離れも、早々にしないとな」
僕は父に感謝した。暗くなりかけた場の雰囲気をたった一瞬で払拭した。
突風のように湿気を吹き飛ばし、乾燥した明るさをもたらしてくれた。
そうは言っても母は、真面目に言った言葉の腰を折られて、憤慨している。
怒りを力に変え、父の背中を思いっきり平手で叩く。
背中に走る衝撃の余波が僕のほうにも押し寄せてきそうだった。背中が発する巨大な音の波動は、僕のところにも当然届いたし、これは激痛を伴っているだろう、ということも推測できた。
父は父で、豪快に笑っていた途中だったので、口に持っていったコップの麦茶を、母に叩かれた拍子に、顔面に命中させてしまった。
鼻から、頬から、目から、口から。滝に打たれる修行僧のように濡れ鼠だ。
「あら、ごめんなさい」
悪びれもなく平然と言ってのける母に、僕は笑った。
時々、夫婦関係が逆転するこの光景に、頬の筋肉が解れないでいられようか。
父は、しばらく瞑目し、両肩を震わせていたが、立ち上がるとタオルを取りに席に立った。
椅子を引く音が、耳障りな金属音のように、鼓膜を直撃した。父は復讐心をこめてわざとそうしたのだ。
「少し、悪いことをしちゃったかしら」
父がタオルを求めに歩く後姿を母と共に眺めていると、母がこう言った。
「父さん、後で怒るよ」
「いいの、今日は特別よ」
爽やかな涼風が、僕と母の間を一方通行する。
「でも、本当に麻斗がいなくなってからは、この家は静かだったのよ。父さんは、寂しそうな顔してテレビを見ながらぼやくの『貴美子、麻斗はどうしているかな』『ちゃんと朝、昼、晩と、食べているのか……苦労してやいないか』似合わないのに、神妙な顔して。あ、これ、父さんには内緒。でもやっぱり中でも一番だったのは……」
母は自分で言うのも恥ずかしいのだろうか、言葉が尻すぼみをしていた。
家族との、この数年の空白がそうさせるのだろう。当時話せなかった言葉群が、このときになって放出される。なんとも不可思議なものだ。
「藍ちゃん、同じ大学でしょう」
僕は、母の顔とカルパッチョを往復するように頷いた。
「父さんね、藍ちゃんに電話して、麻斗をよろしく、って言ったのよ。私、目を丸くしたわ。まさかそんなことまでするとは思わなかったもの。こんなこと、とても麻斗には言えないでしょう。ああ見えても、子離れできないのは父さんのほうなのよ」
それは、僕にとって棘が刺さったような感覚だった。胸の奥を刺されたような感慨だった。傷ついてはいなかった。しかし、なんとも痛切だった。
藍が僕と度々キャンパス内で顔を合わせたのも、そのせいかと思えたからだ。
「麻斗……」
僕はいつの間にか母の顔ではなくカルパッチョのほうに落ちてしまった視線を戻し、再び母を見た。
小皺が増えて、どこか丸くなってしまった顔貌の母の髪の毛には、数本白髪が混入している。
「藍ちゃんを、悲しませないでね」
母は、どういうつもりでそれを口にしたのだろうか。
質問を口頭にのぼそうとするが、それは空振りに終わった。
「まったく……なんて奴だ」
父が愚痴を廊下にこぼしながら、食卓に向かってきたのだ。シュートする直前にボールを奪取されてしまったストライカーのような気分だった。
父は、またあの身を捩るような音を巧みな技術で発現させると、どっかりと椅子に座った。
「シャツまで濡れたぞ」
「後で洗うから」
「そういう問題じゃないだろう」
なんとなく雲行きが怪しくなる父と母を察して、僕は勢いよく席を立った。
「部屋は、まだあるの?」
僕は二人に向けて言った。
母はにっこりと笑って、夏の微風と声を重ねた。
「ずっとあのときのまま。掃除もしていないから、埃を被っているかも」
「いつ帰ってきてもいいように、な」
二人は互いの言葉を補うようにそう言った。
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