第二十九話・ロボットとクレーン
「元気だったか」
はにかみ、視線を僕からずらしながら、父は言う。
視線は包丁の音を規則的に響かせる母の背中へ。
野菜を刻む瑞々しい音と、鼻歌が聞こえてくる。心なしか、背中がリズムに揺れている気がした。ライブ会場で興奮し、ウェーブをする人々の背中のように。
「……元気だった」
「そうか、まあ、便りがないのはよい便り、と言うしな」
「そうかな……」
僕は引きつる口の端を何とか笑みの形に曲げる。苦笑い程度は装飾できたであろうか。
昼の斜線が、スライドガラスから薄く透けるカーテンを貫通して流れ込む。
完璧主義の母らしく、床も、壁も輝いている。清掃が行き届いている証拠だ。
よく見れば、子供のころ僕が玩具の角でぶつけた痕跡が、切り傷となって残っている。
クレーンの玩具だったと思う。僕は出かけるとき、いつもそれを持っていた。本も持っていた。写真も載っている専門的な機械の本だった。重機が満載された本だ。
ショベルカー、ブルドーザー、クレーン、ダンプカーそんな巨大な機械に僕は惚れ込んでいた。
胸にはいつもその本があって、漢字もろくに読めないのに、写真を眺めては、その鋭角的なフォルムと、何者も寄せ付けない猛々しい雄姿に食い入っていた。
もちろん、藍の家に遊びに行くときも持参していた。小脇に抱えて。
一番好きなのは、誕生日に買ってもらったロボット。
同じくらいにクレーンの玩具も好きだった。
甲乙付けがたいほどに、僕の嗜好を射ていた。
最初に紛失したのは、クレーンだった。
箱根に家族旅行したときだった。僕は当然のごとくクレーンを旅行に同伴させていた。しかし、僕は旅行の疲れからか、帰るときにはもう眠りに落ちていた。父に抱きかかえられて車に乗せられた。そして、家につくころ、僕は大号泣するのだった。
クレーンが、ない。
次の日僕は、朝早くから起きて、家中をひっくり返すぐらいクレーンを探して回った。クレーンが、僕の大好きなクレーンが、まだ家のどこかにあるような気がして、椅子の下や、引き出しの中、玩具箱の中、ゴミ箱の中や、袋の中、同じところをぐるぐる探して回った。
けれど、クレーンの影はどこにもない。クレーンがここにあったという痕跡はあるのに。僕は、小さな指で床の傷をなぞり、思いを馳せる。
あの時、僕はこんなにも愛しい感情で、クレーンとともに過ごしてきた……と。
僕の好きなものは、ついにロボットだけになった。
そうなってしまうのは、至極自然なことだった。
――だって、好きなものがひとつしかないんだもん。
スライドガラスの前、床の傷の脇に立った少年時代の僕が、そう言った。
純白で模様のあるカーテンが風にふわふわと揺れて、清涼な風を室内に供給する。
少年の僕はうっすらと悲しみを浮かべ、僕を見上げていた。
その時、隙間風に乗って、犬の鳴き声が僕の耳に届いた。と同時に、床の上にいた僕の幻想も消えていた。
「そうだ、まだ紹介してなかったな」
僕は父の横顔を見る。立ち上がった父は、新聞紙をたたんでテーブルの隅に置くと、重い腰をゆっくりと起こし、庭に向かって歩いていった。
庭といってもそれほど広くはない。
庭木が所狭しと植えられていて、花壇も作られている。これは母の趣味だった。ガーデニングと称しては、庭先を席巻していった。
少年時代の僕は、そこでサッカーボールを渾身の力を込めて蹴ることすら出来なかった。もし蹴ってしまったら庭の木を真っ二つにへし折ることにもなっただろうし、コスモスを蹂躙することにも繋がっただろう。
唯一、壁に向かってパス程度の軽い遊びは出来たが、直ぐに飽きてしまった。
時に、母の目を盗んで遠くから壁に蹴ったりはしたが、後日、庭の木が折れていることを指摘され、僕は背が縮む思いをするのだった。
「ほら、来てみろ」
窓を大きく開けて、僕を呼ぶ父の顔は明るい。僕はそんな父の顔に引き寄せられるように、開け放ったガラス戸から、風で跳ね上がるカーテンをくぐった。
小さな犬がいた。
それも二匹。
「お前がいなくなってから、急に家の中が閑散としてな。貴美子と話し合って、飼うことにしたんだ」
そう言いながら、父は犬を呼んだ。僕は犬のことにあまり詳しくないので品種については分からなかったが、一般的な柴犬であることは分かった。二匹とも小柄で、愛嬌のあるつぶらな瞳を満天下にたたえる。父の手にすり寄るようにして競い合う二匹は、愛情に飢えた子供のようで、ひとつのものを取り合うという意味では、とても競争心にあふれていた。
「こっちの赤い首輪のほうが、コロ。そして、青い首輪のあいつが、ペロだ」
「安直だな……」
「そう文句言うな。モンマルトルや、ムーラン・ルージュよりはいいだろう」
モンマルトル、とは、フランスの首都パリ市北部の一地区のことである。標高百三十メートルほどにある町の名だ。
十九世紀以来多くの芸術家が集い、近代美術を揺籃してきた土地で、サクレクール大聖堂や、墓地などで知られている。
……と、行ったこともない僕が知っているのは、やはり両親の新婚旅行話が故だ。
そして、ムーラン・ルージュ、とは、赤い風車、という意味を冠していて、モンマルトルに開設されたダンスホールと酒場、後のレビュー劇場の名である。
また、三十一年に東京新宿に開設された軽演劇場の名でもある。
だからといって、犬の名前に新婚旅行の地名や、酒場の名をつけて、さらには散歩時に、大声で犬の名前を呼ぶのは羞恥心に触れる。想像しただけで、赤面しそうだ。
「それで、コロ、ペロ、は……」
僕は可笑しくなった。こうして父と会話していることが、たまらなく可笑しかった。
どうして、他愛のない会話がこんなに可笑しいのだろうか。
心中で何の曲解も、思案もなく、思いのままに言葉を発せるこの環境が、とてつもなく大切で、なぜ思いに溢れるのだろう。
僕は、父の背中を見下ろした。肩幅の広い直線的な背中。かがんで犬と戯れる父の背は、とてつもなく偉大に見えた。
振り返ると、キッチンで千切りをしている母の背中があって、これも美しい線を描いている。
二人の背負ってきたものが、そこに毅然とした負荷になって、背骨を矯正しているようだ。
僕はまた、父を見下ろす。
楽しそうな父の唇は、犬を通しても分かった。
「この犬はな、実は捨てられていたんだ」
僕がボールを蹴ってぶつけた壁に隣接して、大きめの犬小屋があった。英語でCORO&PEROと無造作にペンキで書かれているのが、見えた。
「ダンボール箱に入っていてな、生後間もない様子だった。持ち主は、おそらく育てることを断念したんだろう。ともかく、理由は知ったところではないから、あいつと話し合って決めたのさ。今では、この通り元気に、所狭しと庭を跳ね回っているよ」
「庭木は傷つかないの」
「ああ、こいつらも貴美子の怖さは知っているらしい」
父は、母の背中を盗み見しながら呟き、笑った。
しかし、僕はそんな空気を両断するように、次の瞬間、とてつもない質問をしてしまう。
「父さんは、どっちの犬が好きなの」
この質問には、父は驚いたようだった。
「どうしてそんな風に比べる必要がある。第一そんなことをする意味がない。お前がもし双子の兄弟だったら、将来、俺はどちらかを捨てなくてはならないのか? 答えは、否だ。捨てるわけがない。どちらも私の子だろうし、愛情を注いだことにかわりはないからな」
「もし、母さんが二人の男を同時に同じくらい好きになってしまったら?」
父は考え込んだ。
深く、そして真剣に。
そして、父は僕から視線を離した。
犬のじゃれあう姿を見、手を戻す。犬の唾液で汚れた手を握り、太陽光線を浴びさせた。唾液がきらきらと光を放つ。
「どうしてそんなことを聞く」
僕は沈黙した。
頭の中で映像が流れ、僕は見た。
二人の女性の後姿を。
僕の歩く先を楽しげに進み、満を持して振り返る。
その笑顔の輝きを、髪の流れを。
静かに微笑み、僕を呼ぶ声を。
「二人とも、席について頂戴。麻斗、あなたもペロ、コロと遊んでないで」
母は今しがた出来上がったカルパッチョを大皿に乗せて持ってきていた。色彩豊かな野菜が目立つ。
「麻斗」
僕が母の声に振り向いたとき、背後から父の声が聞こえた。
僕が進路について父に助言を求めたときと同じ、冷静冷光とした声だった。
「同じ、はない。残念ながら、必ずどちらかなんだ。もし数値化できるとすればそれははっきりするだろうが……どちらにしても、それは自分自身が決定しなければならない。必要があれば、だがな」
そうしてため息をつく。
「なぜそんな質問をするのかは分からないが、お前の母さんはそういう人だよ」
父は背中を伸ばし、立ち上がった。
二匹の犬は、父のもとを離れ、庭をはねる。
「さて、家族そろっての久しぶりの昼食だ」
父は、笑顔を浮かべた。
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