第二話・春美
春美の存在しない日常とは、どんなものなのか。
僕はふと、そんな途方もないことを考えていた。
以前、唐突の入院劇に僕の心が攪拌されたことがあったが、今ではこうして二人で暮らしている。それからというもの、僕も春美も病気すらしない健康的で規則正しい生活の日々。心配事は春美の小食が気にかかる程度。ときどき春美が存在しない日常を、悪戯心に考えてはみるものの、まるで現実味がなく、考えるだけ無駄だと即断する。
春美の、年の割に童顔なところ、少し癖のある髪、彼方まで届きそうなトーンの高い声、何より屈託の無い笑顔。それら全てが僕の傍にあり、眺め、触れ、感じている。
そんな僕の日常が、ある日突然、十二時の魔法のように消えて無くなってしまう。笑い種だ。馬鹿げている。あるわけがない。
僕は、朝食を作る手を止めて空想にふけっていたが、頭を振ると、調理を再開した。ベーコンの傍に卵をのせると、フライパンの上にちいさな太陽が出来上がる。
小鳥のさえずりがどこからともなく耳に優しい、心地よい朝である。
窓越しに見える風景は、この街の喧騒が嘘のような静寂で満たされ、写真で見る世界のように、まったく動きがなかった。太陽が昇るにしたがって、日影が作られ、移動し、また消えていく。その事実が、現実と夢の区別をする。
火で熱せられたフライパンの上では、小型の太陽が白い紅炎をまとわりつかせて、蠕動している。卵の焦げる匂いが僕の方へ漂ってきて、鼻を通過していった。ベーコンの匂いも加わって、さらに僕の食欲をそそる。しかし、一度通り過ぎてしまうと慣れてしまうようで、同じ匂いをずっと嗅いでいることは出来なかった。白身が固形化してきたところで、ふちが狐色に変色を始めた。もうそろそろ、出来上がる頃合だった。油の弾ける破裂音は、ねずみ花火の音に似ている。僕の手の近くを飛び跳ねている。強襲してきた油の雫に、僕は持っていたフライ返しを落としてしまった。キッチンに金属音が響いた。一日のスタートに似つかわしくない、寝覚めの悪い音だった。
僕はその音に目をつぶり、首を亀のように引っ込めて、恐る恐る寝室のほうを窺った。
床を裸足でぺたぺたと歩く気配があった。食卓につこうとする人物がいる。
青いパジャマ姿の寝ぼけ眼をこすりながら、彼女がやって来た。
春美だった。
「おはよう。春美」
春美は、朝一番の笑顔を見せて応対する。花開くような燦爛とした笑顔だ。僕は、黄色の野菊で埋め尽くされた平原を想像した。風に波打ち、一斉に揺れている。そんな、秋の情景を。
彼女は僕から見て奥のテーブルに座し、大きなあくびをした。喉の奥まで見える大きなあくびだった。目がとろんとして、今にも深い眠りにつきそうな、溶けていきそうな雰囲気を発散させている。僕まで眠りに誘うような花粉を、体から放出しているようだ。
窓からは、勢いを増してきた太陽の弧線が、床から中へぐんぐん伸びてきて、春美を捕まえている。眩しさのあまり額に手をかざす春美が、また、大きなあくびをした。
淡い光が春美の身の回りに漂い、彼女の表面に取り付くと、まるで羽毛のセーターを着ているように際立った。乱れた髪を手櫛でとかし、耳の上に乗せる。わずかに見えたうなじの白さに、僕は彼女の素肌を想像せずにはいられなかった。耳から髪が何本か滑り落ちて、彼女をあざ笑った。彼女は気にも留めずに、自分の指を広げては閉じ、目の前に持ってきては裏返し、何か自分の存在の確認と感触、実感を確かめているようだった。
しなやかで、細く長い指。自分の指をさすりながらうつむく彼女の見えない瞳は、失われてしまった秘宝のようで、僕は見てみたいという欲求に駆られる。顔を上げてほしい、そんな、心を締め付けるような欲求だった。
春美は再度、髪を耳の上に乗せる。
「春美」
僕は堪らずそう声をかけてしまった。口から自然に飛び出してしまった、間の抜けた声だった。
彼女は自分の確認をやめ、僕の瞳を彼女の瞳と重ねた。
いまだに夢の中にいるような心地だった。
白目の中心に、宇宙を一滴垂らしたような、深遠な瞳がある。神秘的な恒星でもあり、闇夜の月でもある。
春美の瞳が僕の言葉を待っている。首を少し傾けると、乗せていた髪の毛が耳の上から全て落下する。髪一本一本が、最初の一本に従い、流れ落ちる。自然と口元に笑みが浮かんでいた。
僕は彼女を眺めるだけで、何も言葉はなかった。この瞬間が欲しかっただけなのだから。
僕と春美は、しばらくそうして見詰め合った。尊い時間が流れていく。清流のように美しく、冷たく、心洗われる時間の流れ。行き着く先は、きっと幸福なのだろう、と思った。
不意に、彼女の視線が僕のそれから離脱した。そして復帰してはまた離脱。何かを訴えている。僕は、顔色に疑問の幕を張って、春美の視線を辿った。その先には、こげて煙の上がった黒い卵と、かつてベーコンだったもの、があった。
僕は慌ててコンロの火を止めた。
「謝罪の言葉もない」
出来あがった失敗料理を彼女の前に並べ、向かい側の椅子に座る。
「今日はこれしかないんだ。これで我慢してくれないかな」
春美は、少し口を尖らせて抗議するが、まもなくあきらめたように、朝食に手を合わせた。しかし、料理に手を付けようとはしない。僕がいぶかしがっていると、春美は少し困った顔をして、寂しい微笑を浮かべた。疲弊して脱力しているためか、面輪が青白い。
「春美……どうかしたのか?」
彼女は首を振る。朝日を受ける髪の毛も力なく、つられて否定に振られる。
「本当に、大丈夫?」
僕が念を押して、春美に詰め寄る。眼前に切迫する僕の猜疑の表情に、春美は両手を胸の前に差し出して、首を左右に一度だけ振った。しばらく凝視して、それで僕はやっと彼女を信じる気になった。口数が極端に少なくなった最近では、僕はいつもこのようにして意志の疎通を図ってきた。
僕と春美の関係が悪化しているわけではない。
口数が少ないのは、春美の体調がこのところ芳しくないせいもあったからだ。時々疲れた風体で、窓の外に目を馳せる春美を見ていると、なぜだか僕は、自分の無力さを感じた。傍にいることだけではどうしようもないこともある。僕だけのわがままで春美に迷惑をかけるわけにもいかなかった。
今は、春美に休息をとってほしかった。
悩みの種は、主に学校が撒き、伸びてしまった雑草を刈り取るのは、春美の役回りだった。
教師間での、上下関係に対するジレンマ。校長からの教育方針を聞かされ辟易することもあれば、校長に反対する学年主任は別の方針を打ち立てる。派閥対立で日和見に徹していた春美であるが、両派閥の軋轢で潰されかけている。
元来争いを好まない春美は、そんな無益な派閥闘争に尽力するよりも、生徒第一とする熱血教師である。だから仕方なく日和見主義をとっているだけだし、本当なら、彼女ははっきりと物を言える立場にいるほうが、もっと自分を生かせるはずなのだ。
また、近年紙面を席巻する少年犯罪の増加は、春美の学校にも深刻な影響を及ぼしていた。万引きをした生徒のためにその店まで出向いて、まったく反省の色もない生徒の代わりに頭を下げる。生徒の親を呼び出して、事の次第を告げれば、何かの間違いだ、と保護者は生徒を擁護する。
逆に、最近の学校教育を問題視し、自分では実行したことすらない指摘、さらに子供の教育を学校に頼る傾向を当たり前だと断じ、最後には生徒のため、必死に奔走した春美を批判する始末だ。
最悪なのは、春美が心配してくれるのをいいことに、性的行為に出た生徒もいたことだ。用意周到なことに、ビデオカメラまで準備して、集団で春美に暴行を加えようとしたのだった。そのニュースは地元新聞の三面記事となり、生徒は数日間の自宅謹慎。春美自身も、生徒に近付きすぎだ、と厳重注意を受けた。
それだけならまだいい。
極めつけは、根も葉もない噂の流布だ。春美が生徒を誘ったとか、いかがわしいビデオに出演していたとか、尾ひれを付けて広まって、職員室での居場所を消失させた。唯一の救いは、春美が意志の強い人間であったことだった。逆境に強い春美だからこそ、かろうじて教師を続けていけるのだった。
しかし、擦り切れていく心身だけはどうしようもなかった。
春美は一時、胃に穴が無数にでき、病院に入院した。それ以降、春美は意志を保っていく代償として、体力を捧げていた。正直、僕にはどうすることも出来ない。軽い気休めは、体に毒なだけだ。僕がしてやれることは、春美の体調管理を支える料理を拵えること、清潔な空間を維持すること、ぐらいだった。
出来れば、どこか遠くへ連れ出して、二人でゆっくりと休暇を楽しみたかった。
しかし、夏の長期休暇時には、高校の課外授業がびっしり、それこそコーヒーを飲む間ほどもなく組まれており、そんな暇を捻出する時間など、どこにもなかった。
時間の残酷さとは、こういうときに身にしみるのだった。
今日は、週休の土曜日で、春美は休みだった。しかし僕だけは、大学がある。せっかくの土曜なのに、と僕は忌々しく歯を立てるが、焼け石に水。
「それじゃ―――」
僕は言い、テーブルに両手をついて、椅子から立ち上がる。
「大学行ってくる。残さず食べて」
バッグを取って、玄関に向う僕に、真っ白な笑顔で手をひらひらさせている春美。風に漂うように優雅な分、どこか弱々しかった。そう思えてしまう現在の世情が、僕には鬱陶しい。
世界は回転を早める。
少年が大人へ移行する歩みは、時代が年を経るにつれてどんどん足早になっていく。その監視役である春美は移行の只中にいる。濁流に飲み込まれて、喘いでいる。新鮮な空気を肺に送り込む、僅かな時間すらない。
僕に、それを打破し、救いの手を差し伸べる膂力があったなら。僕に、春美を養っていけるだけの経済力があったなら。僕に、春美が安心して心身を預けられる胸の広さがあったなら。自立した世界観があったなら。
僕は思う。
僕の無力さと、僕の春美に対する甘え。それにより発生する、依存度の高さ。
玄関のドアが閉まる音は、上空には届かない。
そしてさらに、僕は思ってしまうのだ。
春美の存在しない日常などありえない、と。
僕はきっと、そんな日々を生きていけない、と。
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