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鎖状の楼閣
作:NAO



第二十七話・アルバム


 テストが終わり、大学は二ヶ月ほどの長い長期休暇に入っていた。
 公立の小、中、高校はもとより、未成年の大部分が長期休暇に入っていた。会社員が忙しく右往左往しているのにもかかわらず、同世代の人間達は、その狼狽するすぐ横を、腹を抱えながら、歩いていた。特権階級の人間のようだった。
 短い青春時代を思う存分満喫している、とも言い換えられた。
 そもそも、青春という時期自体、漠然としていて、見当がつかない。青春期は、青年期とも言い換えられ、その青年期とは男女の十四歳ぐらいから、二十四歳頃までの時期、と一般的に説明されている。さらに青年期に補足すれば、性的特徴が顕著となり、自我意識が著しく成育することを指す。
 これも、一般的にだが。
 しかし、それは辞書的な意味合いで、言葉を説明するときにだけ引用されるだけで、実際には、その人自身の意識の持ちようなのかもしれない。
 暗く陰惨な青春時代、その苦境の時代を乗り越えて晩年に成功を収め、第二の人生を歩もうとする人がいるとする。
 とっくに青春時代は終わってしまったはずだが、その人にすれば、晩年が青春時代なのかもしれない。
 目の前の霧が晴れ、風光明媚な情景が眼下に広がり、太陽の光は暖かく、体全体を暖かいマフラーで包んでくれ、喉を潤す液体は冷たく、全身を清涼に癒してくれる。
 そんな人は、きっとそのときが青春時代なのだろう。
 恋をすることがそれではない。
 汗水たらすことが青春ではない。
 一個人の意識の中で、青春という言葉が持ち上がったそのときが青春だと、そう思いたい。
 僕は、中学校代に、そう卒業文集に書いた。生意気にも論ずるように書いた僕は、それを真理だと思っていた。
 春美がそれを読んだときに、どうコメントしてくれたのか、今は定かではない。思う、という言葉を使ってはマイナスだ、と注意された気がする。
「ほら見てこれ、麻斗だよ」
 藍は、突拍子もない声で、開いていた中学校の卒業アルバムを僕に運んできた。
 四十人近いクラスメイトの真ん中で、怖気づくように首を潜めて小さく写っているのは、紛れもなく鮎野麻斗本人だった。
 藍は、あぐらをかいて座る僕を見下ろしながら、アルバムの僕と、現在の僕を見比べている。
「なんだよ」
「……変わったね、麻斗」
 僕は憮然として、藍から目を離した。
 本棚には、大学で使うような難しい専門書に混じって、ファッション雑誌が、小説が、斜めに倒れている。小説は恋愛小説が大半を占め、ファッション雑誌は大人びた洋服が掲載されている。表紙には、ファッションリーダーとして名高い芸能人が、こちらを挑発するような表情で写っていた。
 その一角に僕が小学校のころにプレゼントした豚の縫いぐるみが、サルの縫いぐるみの乗り物にされていた。
 またぐように乗っているところから見ると、おそらく藍が自分でそうしたのだろう。
 言うまでもなく、ここは藍の部屋だ。
 火でくゆる白檀の、甘い、まるで春を感じさせる陽気な香りが、漂ってくる。
 全体的に赤みのある部屋で、どこか暖かい印象を受ける。
 時計や、テレビ、パソコンに、机、小物類。そのどれもが赤に近い色彩。
 配色は、赤を中心に、橙があり、所々に緑がある。
 苺の色なら全てこの部屋に凝縮されていそうだ。
 時期的に夏なので、汗の流出を促進しそうなルームメイキングだが、冬ならばここはきっと快適な空間に豹変するだろう。
 僕が初めて藍の部屋に入ったのがいつだったかは、覚えていない。
 物心つくころにはすでに幼馴染として定着していたし、よく玩具を持ち込んで遊んでいたからだ。
 僕はお気に入りの変形ロボットを持参して遊びに行った。
 玄関。大声で藍の名前を呼ぶと、二階にある藍の部屋の窓が開いて、ひょっこりと藍が笑顔を出す。モグラ叩きのモグラのように。
 藍は、大慌てで階段を駆け下りてくる。玄関の外にまで、階段を駆け下りる藍の足音が轟いた。
 玄関のドアを開ける藍の表情は嬉々としていて、それを見る僕もなんだか嬉しくなった。
 藍は僕の手を引っ張って、自分の部屋へ連れて行った。階段を、まるで池田屋事件のワンシーンのように、猛然と駆け上がると、そのまま部屋で日が暮れるまで遊んだ。
 飽きることを知らなかった。
 毎日が新しいことの始まりで、同じことも同じこととは思わなかった。藍は人形を持っていたので、僕のロボットとどう組み合わせて遊ぶかが焦点だった。
 あるときは、夫をロボットに変えられた家族という複雑怪奇な設定でままごとをしたり、ロボットを敵役にして女の子をさらい、別のロボットが助けにいく、という勧善懲悪ストーリーを作り上げたり。
 そんな風に遊んでいる最中、明るかった空が、暗くなっているのを窓の外に見つけると、なぜだか少し悲しくなった。
 藍の母が、よく僕の母に言っていたそうだ。
 僕が帰った後の藍は、台風が去ったように静かだ、と。
 僕は、小学校の中学年あたりから、藍の部屋にはめっきり入らなくなる。
 プライベートという言葉を知ったときから。
「顔つきも……このころより、大人びているし」
「年齢が大人なんだから、当然――」
「そうじゃなくて」
 藍は、僕の言葉を最後の一言だけ遮断し、言葉の意味も否定した。ベッドに背をもたれて、あぐらをかいている僕の横に腰掛けると、持っていたアルバムを、僕にも見えるように差し出した。
「このころは、さ。どこか頼りない感じだったよね」
 僕は胸の中でくすぶる過去の自分を押しとどめて、頷いた。
「今は、頼れるよ。安心して預けられるっていうか……」
 藍は足の指をこすり合わせている。細くしなやかな足の先端部、爪先は、バレリーナの履くトーシューズのよう。羽毛のカーペットに埋もれるように静かに動いている。
「言葉にならない」
 僕は肩をすくめて、アルバムの中で笑顔を見せる一人の少女を指差す。宮沢藍と銘打たれた一瞬が、そこで時間を止めている。
 彼女はこの頃からとても大人びていた。
 私服を着て町を歩いているときは、年上の男に声をかけられた。制服を着てやっと同級生だということを認知される。クラスの中では背が高かったせいもあるが、どこか早熟だった。
「変わったのか?」
 アルバムに写った当時の藍の写真を示す。
「……変わったよ」
 藍は、曖昧に笑った。過去を悲しんでいるようだった。
 力なくそう言って頬に力を入れる藍の右手は、アルバムのページを握り締める。
 明らかにアルバムを支えるための握力ではなく、そこに横臥する記憶のフィルムを丸めて、ゴミ箱に捨てようとする握力だった。
「変えられた、って言ったほうがいいかも」
 僕は、返答するのを躊躇った。
「そういう意味では、今の自分は好き。このころは、自分を持ってなかったから。麻斗を中心にして、自分を保っていたのかな。麻斗を見てると、私はしっかりしなきゃって、思うことが出来た。悪いと思ってる。麻斗を先導する自分に、満足感を得ていた。手を引いて歩ける自分を客観的に見てみるとね、優越感に浸っているのが分かる。得意満面に、大股で、麻斗の歩調なんてまるっきり無視して、歩っているのが分かる。無理矢理だったのよ。痛かったでしょう。強引に手首をつかんで歩いたんだもの。言ってみれば、麻斗を利用していたのかも」
 アルバムを胸に抱いてつぶやく。
「……春美……」
 僕は耳をそばだてる。かすかに口にした名前を聞き取る耳が、勝手に集中を始めた。
 僕がそうしなくとも、無意識のうちに勝手にそうなってしまうのは、春美の影響力か。
「彼女……春美がいなかったら、私どんな人間になったんだろう。嫉妬して、焦燥を感じて、努力して、虚偽の自分を作って、なんか色々。醜いけど、愚かだけど、今の自分があるのは……」
 僕は、アルバムをさらに強く抱きしめる藍の肩を抱いた。左手で小さく鳴動する藍の左肩を、なだめるように抱いた。
 それは、同意だった。
「そして、麻斗を愛しく感じるのも……こんな風に変えたのも……全部……」
 窓の外から見える空は、暗く、月明かりも見えない曇り空だった。
 この部屋には、玩具もなければ、あの時あった家具もない。
 内装は全て変わってしまっている。少女時代と、今を交錯させても、あまりに違っていて、変化を見極めることは出来ない。あのころの部屋はいったいどんな内装で、どんな玩具があって、配置はどうだったのか。整頓されていたのか、混沌としていたのか。
 時間が流れすぎたせいで、面影がない。
 唯一、階段に座っておしゃべりをしている二人だけを、確認することが出来た。階段の一番上に二人で腰掛けて、階下を見下ろしながら、肩を寄せ合った。
 大きくなったら、結婚してよ。
 小さい頃、そう藍に言った僕の、世界に対する不安が入り混じった声は、この部屋には届かない。
「……春美がいたから」
 結婚という考えが、あの当時に明確な実感としてあったとは考えられない。あったとすれば、結婚に、ずっと一緒、という先入観があったということ。世界には恐怖が跋扈していて、僕が生きていくには危険が多すぎた。
 全てが人並み以下で、取柄がなく、怖がりだった僕にとっては。
 強烈な向かい風が吹いても、すぐさま藍の背中に隠れて、難を逃れる僕にとっては。
 ずっと一緒にいれば、守ってもらえるという安直な考えの僕にとっては。
「春美が……」
 僕は、口に出した。
 肩を抱いている僕の腕。藍の呼吸。零れていく吐息の数。鼓動に微動する身体。カーペットの肌触り。ほつれた服の糸、その先。赤い部屋。これらの風景、触感。
「春美がいたから、僕らがいた。春美がいなかったら、僕らはいない。ありえない。春美がいないことなんてありえない」
 藍が、僕の顔を覗き込む。少しくすんだ藍の瞳が、僕の答えの鍵を模索するように、光を取り戻す。
「どういうこと?」
 僕は、藍の肩を開放し、左手を僕の膝へ戻す。
「今、考えたことは無意味だ。春美が、いなかったら……、そんな世界はないんだ。想像の中に存在するだけで、実際にそんな世界はどこを探したってない。春美がいなかったときの僕なんて存在するわけがないし、もちろん藍だって存在しない。バランスなんだ。僕らが微妙な均衡を作り出している。どれか一つでもなくなれば、それだけで均衡は破壊される。それは存在しなくなるのと同義だ。全部がそろっていないと意味を成さない。全部ある、ということが最低条件、いや、絶対条件なんだ」
 僕は自分が夢中になって言葉を織り成していることに、自分自身で驚いていた。
 矢継ぎ早に繰り出される言葉の上を、僕の冷静が通り過ぎる。
「これは、繰り返される物語じゃない。ただひとつの物語だ。ありもしないことに思いをはせても、意味がない。前を向いていたい、そうして生きていたい」
 藍は、僕から視線をはずし、前を向いた。二人は、二人とも前を向く。
「そう……思いたい」
 しかし、僕は付け加えられなかった。
 春美は、実際にまだ、僕の記憶の中で鮮明に生き続けていることを。
 そして、まだ愛しているということを。
 それは過去などではなく、現在進行形で語られている物語。
 二度の自己矛盾。詭弁。偽善。
 春美は、いない。僕は前を向いていない。止まって、周囲を眺めている。停滞している。
 郷愁を胸に閉じ込めて、心で変換、春美を瞳に描く。
「うん……そうだね……」
 春美は、決して消えない。
「そうかもしれないけど……」
 藍の歯切れの悪い声が、僕の矛盾を見抜いているように感じた。












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