第二十六話・証明写真
藍は、僕に証明写真を撮ることをせがんだ。
二人で街中を歩いている途中だった。履歴書の隅に貼付するあの四角の写真、それを撮りたいと。
僕は、写真そのものがあまり好きではなかった。
正確には、僕の顔が好きではなかった。もう少し、鼻筋が通っていたら、頬がすっきりしていたら。そうして数え上げていけば、ノート一冊は簡単に埋まってしまうだろう。
長所を列挙していくほうが、よっぽど難しい。
だが、春美にしてみれば、そうではなかったようだった。
「撮ろうよ」
藍が僕の思考を強引に遮った。
藍は、カーテンで内部を隠された写真機の前で僕の腕を引いて笑っている。
それにしても、なぜ証明写真なのか。写真を撮るのなら、インスタントカメラでもいいはずだ。
「わかった。わかったから」
写真の取り出し口に向かって言うように、僕は渋々、自分から折れてカーテンの内部へと身を隠した。内部は狭く、一畳のスペースもない。小銭の投入口、写真機兼鏡、そして、回転椅子が真ん中に取り付けられてあるだけの、至ってシンプルな構造。
僕は回転椅子に腰掛け、財布から小銭を探す。少し揺すると、目当ての小銭が顔をのぞかせた。
「待って」
声が外から発せられたかと思うと、藍がカーテンを突き破って中に割って入ってきた。
狭い室内に二人の人間を飲み込み、写真機は苦しそうに、呻いた。少し動いただけでも、体の一部が四辺にぶつかってしまい、鈍音が狭い室内を駆ける。
「私も一緒に撮る」
藍は、僕の膝の上に座ろうとした。
「それなら、わざわざこんな機械じゃなく……」
「そうじゃない。フレームも、装飾も、ましてや文字もない。ただ二人の写真。ネガもなく、焼き増しも出来ない。いわば二人の履歴証明写真。それが、いいんじゃない。それだけ、伝えることが鮮明でしょう」
僕の膝に座り、顔を寄せる。
「いくよ」
藍は、低い声で了承した。
僕は、コインを投入した。吸い込まれていくコインに、写真機が喉を鳴らした。金属音が、腹の中でこだまし、やがて写真機はそのシャッターを押す準備にかかった。
吐息もかかるほど狭い空間だった。外の空間とは隔離された、静寂な空間だった。
カーテン一枚が、内外の喧騒を分けている。
視点をカーテン下の隙間に滑り込ませると、道行く人々の靴が見えた。
革靴だったり、スニーカーだったり、ブーツだったり、ハイヒールだったり、パンプスだったり、サンダルだったり、ミュールだったり。
形も大きさも、値段も、ブランドも、まったく違う。
僕はその狭隘で矮小な膝下の世界に、生きていた。
顔のない、表情のない世界に。
顔を想像し、情事にふけった自分に、哀れみさえ感じた。膝上全てをすげ替えることが出来る自分に。
僕の贈ったミュールを履いた春美が、カーテンの隙間を歩いていった。二歩で見えなくなるまで、僕はそこをずっと見続けていた。
写真は、そのとき撮られた。
写真の出来上がりを待つ間。藍は、その外界と断絶した空間の中で一人、悲しそうにしていた。
「失敗だな」
一列に並んだ写真の中の僕たち二人は、一様にある方向を向いていた。藍はシャッターを見ずに、僕のほうに視線を向けていた。
僕は僕で、斜め下、つまり、通り行く人々の足の見える隙間に、視線を落としていた。
視線が一方向に流れている、不出来な写真に仕上がった。
僕は、苦笑いをしながら、藍に写真を手渡した。
藍は、写真を食い入るように見つめ、僕にちらりと目をやり、また、写真に写る二人を見つめた。
藍は、また寂しさを含んだ微笑をした。
「まただね」
藍は、写真から目を離さずにつぶやいた。
「また?」
不思議な言葉の響きに、僕は藍に問いかけた。
すると藍の視線がやっと写真から引き剥がされて、今度は生身の僕へと貼り付いた。
諦めのような寂寞さをたたえた瞳が、僕の表面を冷たく撫でた。
「探してる」
「何を」
一陣の風にあおられてざわめく人々。
整えてあった髪の毛を手櫛で乱暴にとかす風に、女は踏み出す足も忘れて舌打ちをする。
顔面に吹き付ける風に、無理やり呼吸を迫られ、男は嫌がるように顔を下に向ける。
写真が激しくなびいていた。
「さて、ここで問題。口を閉じている間はそこに存在するのに、口に出してしまった瞬間に、存在しなくなってしまうものは何でしょう」
一時前の思念の輪郭が、写真に写した一枚一枚の表情のように、突然、切り替わった。まるで、突風に面皮を飛ばされたかのようだった。
「ああ、それなら知ってる。沈黙だ」
風が止み、人々がまた動き出す。藍の首もまた、横に振られた。
「不正解。正解は……」
藍の黒瞳が、眼球の中であちこちに泳いだ。言うべきか言わざるべきか、悩んでいるようだった。藍の瞳に映る僕は、大地震に見舞われたように揺れていることだろう。
「麻斗が、探して。これは、長期休暇の課題」
僕は鼻で笑い、口を笑みの曲線に曲げる。
「実は、自分自身、答えが分からないんだろう」
藍は、首を少し大袈裟に振った。チェックのワイドパンツに、フリルのついた白いシャツが、太陽に眩しい。
ボトムスのマニッシュさと、女っぽいトップスで見せるバランス感が、僕に中性的な感慨を抱かせる。
「分かるよ。出題者だから」
そこには先ほど垣間見た寂しさや、あきらめなどは、塵芥ほどもなかった。
藍も、笑った。
シャツのフリルが、風で揺れていた。
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