第二十五話・寂寞の微笑
藍は静かに歌い始める。
子守唄のような子供をあやすような清澄な歌声は、砂上を優しく撫で、太陽光が熱した砂粒を徐々に覚ましていくようだった。
いつだっただろうか。
僕は藍にこんな風に安らぎをもらったことがあった。幼稚園のころだっただろうか、それとも、藍とは関係のない、もっと以前のことだろうか。
僕の記憶には鮮明に記憶されていないが、確かにそんなことがあったと感覚で記憶していた。頭でっかちで、ふらふらと振り子のようにはしゃいでいたあの頃に、僕は母と同じくらい大きな包容力を持った藍の優しさに、涙していたのだ。
悔しさが苦痛を凌駕して、力の限り握った砂が、その隙間からさらさらこぼれ行く。
甘えは、甘美な誘惑だった。
僕にとって禁断の果実で、許されたものではなかった。
自立心に目覚めたときまで、僕は家族の中でそういう状況下に置かれていた。
役割、だったのかもしれない。父は当時、会社につきっきりのワーカホリックだった。家にいる時間はほとんどなかった。僕は一人っ子だったから、母は愛情の受け皿として僕を寵愛した。僕が出かける前など決まって母は、財布は持ったの、と聞いてきた。遠足の日なども、水筒は、ハンカチは、ゴミ袋は、と矢継ぎ早にまくし立てた。
僕がそのことを友人に告げると馬鹿にされた。
それ以来僕は母から遠ざかりたい一心で、暴言を吐いたり、厄介者扱いした。母は悲しそうな顔をして僕を見つめ、僕はそんな母の顔を見まいと、顔を無理やり背けるのだった。
甘えを捨てることが、僕の最優先事項だった。
猫撫で声を上げて頼ることは、人間として最低な行為だと僕は思った。
背筋を伸ばし、地面をしっかりと踏みしめ、前を見、空を見、力強く右足を踏み出せる人間が、僕の理想だった。
頼られることが、うれしかった。
春美がそんな僕の指標であったことは言うまでもない。
生徒に対しても、常に堂々として、若さ故の戸惑いを一切見せず、胸を張って相対していた。彼女の体重で少しだけ軋む職員室のキャスター付きの椅子が回るたび、僕の声に振り向いた彼女の、笑顔と自信を見つけるたび、僕は自分のことのように嬉しかった。
僕の迷っている全てのことに、難なく答えを出してくれそうで、僕は声をかけずにはいられなかった。
それは、甘えではなかったと思う。
僕は、そう信じた。好意だったのだと。
春美の背中を追い始めるようになり、僕の周りは一変した。
意識して胸を張って、張りぼてのようでも自信を持つように心がけた。地面しか見えてなかった僕が、周囲を冷静に捉えられるようになった。
顔を上げることがこんなに素晴らしいことだったとは、僕もそのときまでは分からなかった。
背も伸び、僕には大人の階段が迫っていた。一段一段上っていくころには、僕はいつの間にか、同世代の女子をこの腕の中で眠らせるようになっていた。
そして、春美を見失う。
乳房の形と感触が人によって様々なのだということを知ったのもそのころ。
涙を見せられることの罪悪感を知ったのもそのころ。
人を傷つけることが最も多かったのもそのころ。
高校時代に僕はいろいろなことを知った、失った。快楽を知り、純朴さを失った。
同時に、甘え、という言葉さえも忘れていった。
支えられることは、甘えなのであろうか。
寄り掛かってしまうことは、甘えなのだろうか。
僕は、春美に甘えていたのだろうか。
自問自答。明確な問いと、形のない答えが交錯する。
僕は藍に、何を期待したのか。
こうして僕の煩悩が詰まった頭を藍に支えてもらい、僕はどうしようとしたのだろう。
膝の感触が、愛しく、悲しい。
涙が出そうなほどに。
僕は太陽を直視した。藍が、その太陽を僕から遮るように顔を出す。藍の顔は逆光で暗く陰る。
それでも僕への心配は陰らない。
藍は僕のどこに惹かれたのだろうか。
春美は僕のどこに惹かれたのだろうか。
僕は肩を貸そうとする藍を手のひらで押しとどめ、自分の足だけで地面を踏みしめた。蟻地獄に足を滑らせる蟻のように、僕は這い出そうとする。
引き寄せられているのではなくて、逆らい歩こうとする。
自分で立ち上がることはそれを意味している。
「大丈夫?」
藍が僕の顔をうかがう。
僕は立ちくらみに襲われ、突然眼前の暗闇に落ちるが、しっかりと両足に力を入れたおかげで、ふらつくことはなかった。
「ああ」
僕は短く口を開いた。口内に溜まった嫌な空気を、夏の熱波に吐き出すようにして。
「ひとつ聞いていいか」
「何?」
藍は、首をかしげて、僕の質問を誘った。
「どうして、春美の口調を真似たんだ」
藍は、首筋を人差し指で掻いた。思案しているようであった。
「やっぱり、分かってたんだ」
「真似てたんだな……」
藍が高校の一時期から、ずっと大人っぽい口調になっていたのは、僕以外にも、以前から藍にかかわったことのある者なら誰でも知っている、周知の事実だった。
理由を聞いたことはなかった。それが成長だと、僕は思っていた。
僕自身の体の急成長もあったから、人とはそういう風に変わっていくものだと、どこか達観していた。
「高校のとき、みんなが言っていたんだ。藍は、どこか春美に似ているって」
「そうか……気づいていたんだね」
寂しそうに語る藍の横顔を、通りすがりの海水浴客の男が見とれるように眺めていった。
指を組み、下を向く。祈るようにして、藍は防波堤に寄り掛かった。
「その通り。春美を真似ていた。麻斗が私を見てくれるかな、と思って。気づいていなかったでしょう。あんなに仲のよかった幼馴染が、廊下ですれ違っても言葉ひとつ交わさない、疎遠な仲になったんだから。いつだったかな……麻斗が、幼馴染じゃなくなったの」
僕はポケットに手を突っ込んで、藍のうつむく髪の毛を見ていた。
もう、下着のことなんか頭には入っていなかった。ワイシャツに透ける下着のことよりも、独白のほうが僕の意識を強引に引っ張っていく。
ライフセイバーの笛の音が、高らかに海岸に響き渡った。監視台の上から、大声で、指示を出している。海岸で監視していたほかのライフセイバーが、サーフボードを脇に抱え、海へ飛び込んでいった。引き締まった褐色の肌が、波間に揺れる。水飛沫をまともに浴びても、その上を颯爽と飛び越えていくさまは、まるで飛び交う弾丸をくぐる屈強な兵士のようだった。
僕同様、気を取られていた藍。僕は先に救出劇から目を放し、寄り掛かっていた格好から、打って変わって身を乗り出して事態を見守る藍に注視する。
沖で溺れ、手足を必死に振り回す少年を、サーフボードに捕まらせたライフセイバーは、少年共々、徐々に砂浜へ向かいつつあった。
事態は収拾に向かいつつある。海岸でざわめく人々の好奇の視線も、次第に散らばってゆく。
藍は、太陽の隣で輝いていた。
海に不相応な服を着ているはずなのに、いつの間にか一体化しているのが不思議だった。
春美の皮を剥ぎ取り、自分自身を取り戻した。それは、長いトンネルを抜けたときの、光あふれる開放感にも似たもののようだった。一身に潮風を帯びて、まるで山の上から叫ぶ登山家のように晴れ晴れしい表情を浮かべ、状況の展開を見つめている。
晴れ晴れしいと感じた僕は、溺れた少年や、ライフセイバーの立場からすれば、不謹慎だ。藍自身そういった感情を内包していなくとも、僕にはそう見えてしまったのだから仕方がない。
波打ち際では、九死に一生を得た少年が、安堵感に膝を落とし、思わず泣き崩れていたところだった。肩に手を置くライフセイバーが笑顔を浮かべてなだめている。
その周囲を取り囲む海水浴客たちの間からは拍手が起こっていた。
僕は感動的な光景を目の当たりに出来る機会も視界の端に追いやって、藍の背中を見つめていた。肩口からなだらかな曲線を描いて落ちていく二の腕に、筋肉の張りが見える肘、つながる手のひら。指先を覆う爪に砂粒が入り込んでいる。ストッキングを脱いだふくらはぎは、細く引き締まっていて、指先にまで美艶を感じさせた。
僕は藍が振り返るそのときまで見つめていようと思った。
決して僕の利己的な言葉で、時間の流れを断ち切ってはいけないと思った。藍の流れに任せようと思った。
「麻斗が、春美さんを見つめるようになったころかな」
振り返らずに、背中越しに藍は言った。藍の先には、大海原が両手を広げている。
「分からなかったんだ。麻斗が、一人の男だってこと。灯台下暗し。ほら、私の友達が麻斗のこと好きだって言って、仲を取り持ったことあったでしょ。そのとき、言ったんだ」
笑い声が潮風に乗って、僕の耳に届いた。別世界のように歓声を上げている親子や、恋人たちの波に戯れる姿は、光り輝く大海の表面に重なって、眩しく映った。
「どうしてあんな奴がいいのか、って」
涙も落ち着いたのか、少年は深くお辞儀をして、仲間のもとへ帰っていった。
「かっこいい、って言い返された。そのとき」
砂浜では、すでに例年通りの喧騒を取り戻し、先ほどあった救出劇が嘘のようだ。
「それから、彼女と麻斗が付き合い始めて……。それで、おかしくなったんだ。うまく言葉に出来ないけど、みぞおちのあたりが締め付けられた。後悔もあったかな。幸せそうに麻斗のことを話す彼女を見ていたら……麻斗が、実は、もうあのころの、ね、あのころの麻斗じゃなくて、大人になっていて、キスなんか当たり前で、それ以上のこともしていて……こう、見てなかったのは私かなって思って、そして、見てみた。幼馴染の麻斗を……一人の麻斗という男性として」
言葉を選ばずに、自分の言葉で思いつくまま素直に語る。
「自分の言葉に出してみた。好き、って。独り言だったけど、その言葉を口にしたら、信じられないくらい心臓がびっくりしてた。胸の鼓動が収まらなかった。自分の心が分かってしまった……」
透き通る青空にふさわしい、透き通るような言葉。
「一目惚れだった……かな」
見えないはずの表情が、笑っているように思えた。口調がそうだったのだ。
「まったく違った麻斗が、そこにいた。だから、一目惚れ」
「当時の僕は――」
僕は思い出した。廊下ですれ違っていても意識的に無視をしたあの日々を。
「鼻水も、垂らしてなかった」
「うん」
藍は、空に向かってうなずいた。
「背も低くなかった」
「うん」
「かっこよかった?」
「……うん」
藍は、恥ずかしそうに頷いた。冗談さえ、真面目にうなずく藍。
僕は、いつか見た夢を思い出していた。僕と春美が出会っていなかったら、という夢。
そこで僕は、藍と並んでいた。もちろん春美の事は、先生としか認識していない。恋人など、脳の隅にも考えていなかった。
春美とすれ違うことがあっても、肩をぶつけてしまうことがあっても、そこで交わされる謝罪の礼儀は他人行儀で、僕が一晩、枕の上で過ごしたら、そんな出来事は記憶の果てに廃棄される。
それほどその夢では、僕と春美は他人だった。
しかし、現実は、そうではない。
僕は春美の肩をたたき、名前を呼び、耳元で愛の詩を詠んだ。今わの際には、彼女の手を強く握り返し、冷たくなった彼女の頬の体温をそっと手の甲で確かめた。
青白く、白装束を纏った春美は、この世のものとは思えないほどよくできた蝋人形だった。
では、当の春美はどこへ。
彼女は、僕のいる場所全てにいた。直接触れることは出来なくとも、見ることは出来た。僕の思考に語りかけ、啓発を促した。知識と見識をくれた。
「私はどうかな。美人かな?」
春美は、今もこの街のどこかにいる。
彼女は確かに死んだかもしれない。
しかし、僕の中の春美はまだ死んでいないのだ。
「……麻斗?」
藍と春美、僕はどちらとも出会わなければよかったのだ。
藍を煩わしく思い、嫌悪の目で睥睨すればよかった。些細なことを理由にして偏見を持てばよかった。
そうすれば、僕は藍と友達にすらならなかったはずだし、幼馴染などにも絶対になることはなかった。
春美だって同じだ。僕が勉強をせずに怠惰な生活をし、親に反抗して放蕩息子として暮らせば、春美のいる高校に通学することもなかった。
そうすれば、必然的に大学で藍と会うこともなくなる。
どれかひとつを実行しておけば、僕の運命は別途を歩んだはず。
運命は別の方向に流転していたはず。
それは、後悔か。
幸せなひと時は後悔か。
僕が藍と出会ったのは後悔か。遺恨に思うことか。
春美といた時間は、無駄か。出会わなければ、確かに悲嘆にくれることもなかった。思考迷路に脳漿を絞ることもなかった。
だが同時に、幸せをこの手中に感じることもなかった。胸の谷間の胸骨を一つ一つ指先で丁寧になぞる幸福の確認もない。人生の針が右に左に振れることもない。
僕がそれを思い、鬱に暮れるのは、無駄かもしれない。
きっと、無駄だ。
しかし、無駄であっても僕はそうしなくてはいけない。
今、僕の歩んできた人生の岐路に、意味を持たせるため。足跡を残すことに意義を持たせるため。コンクリートにつけた足跡はやがて固まり、修正できなくなる。それを人は悔やみ、またそこにコンクリートを流し込む。
僕はそれをせずに、足跡の形を思う。
切り取られた一瞬を思う。
あの時、確かに僕はこうしていた、と。
「麻斗」
藍が、いつの間にか振り向いて、微笑していた。
「もう……帰ろう」
寂寞の微笑。
その時の藍の表情を、僕はあとになって思い知る。 |