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鎖状の楼閣
作:NAO



第二十四話・口にした言葉


 僕は海を見た。
 蒼穹に抱かれる大海。白い細波が、人々の汗を、声を、疲労を、肌を、心を洗う。褐色に染められた肌に砂が張り付く。そして入り込む、ビキニの隙間。鍛えられた腹筋に打ち付ける小波。海を滑走するサーファー。
 その歓喜と喧騒の谷間に、僕は春美を見ていた。
「いないよ」
 春美が、親子連れの海水浴客が持ってきたシャチの風船に隠れ、それきり姿を消す。そこから代わりに現れたのは、ただの、美しい女性だった。
「春美はいないよ」
 僕は、知る。
「麻斗の視線、私、時々分かる。ほら、あそこにいる綺麗な人、胸はそれほど大きくはないけれど、腰はくびれているし、スタイルいいよね」
「あ、ああ、そうだな」
「あの人、春美さんに似ている?」
 僕と同様、藍も、春美を探しているのだ。
「似ている?」
「何が」
「言って、ちゃんと言って。心にしまわないで、私に言って」
 藍の締め付ける僕の手首に、汗が伝う。僕の汗と藍の汗が交わる。どちらも透明で無色。落滴の先にある砂に、薄暗い斑点を作る。
「麻斗」
 声のボリュームを上げる藍を横目にして、通りすがる海水浴客は何を思ったか。
 恋人たちの破局か、ただの痴話喧嘩か、悪ふざけか。
 僕たちの思考の及ばない領域で飛び交う思慮の瞳、詮索のシナプスの電気信号。
 僕たちに背を向け、今度は囁き合う。口を近付け、耳を寄せ、唇を動かし、耳を疑う。
 傍観者と、当事者の明確な違い。
 遥かなる遠方にぼやける水平線と、沿岸に浮かぶ船ほども違う。
 灯台に指し示された方向と、袂で海岸を眺める人々の視線の先ほども違う。
 海よりも深く、空よりも広い。明確で簡潔な差。
 僕の直面している現実と、出来事は、そんな世界で回る。なぜ僕はこんなにも懊悩し、窮するのか。口は閉鎖を決めこみ、開示される兆しはない。意思は、声を駆り立て、背中を走る。胃は痛み、ゴムボールのように歪む。まるで、萎びて腐敗する茄子。黒く退廃し、廃棄される直前。僕の塩化した唾液の数だけ、この茄子は、汚れてきた。愛した人の唾液を飲み込むことで生きながらえた茄子が、今、悲痛に曲がる。
 長い時間が過ぎた。それは、藍の苦痛の時間だった。
 僕の苦悩の時間だった。
 お互いを苦しめあう、時間だった。
「運命は、宿命とは違うよ」
 藍はそう言って、僕の手首から手を離した。外気温と、藍の体温はこれほどまでに異なっている。熱い、というよりも、尊い、という温度。離れ、空へ上っていく。僕は、黙ってそれを見送った。
「宿命は不可避で、絶対的な予定なの。でも、運命は、変えられるのよ。最後に宿命につながるとしても、それまでの道のりは幾重にも分岐しうるの。春美は、その最初の宿命の終着駅なのよ。駅までの道のりは、麻斗のもの。でも、私と同乗した列車には、春美の席はない。車窓の向こうに広がる景色の中に春美がいるのもおかしい。春美の駅はもう通り過ぎたし、春美は乗っていない。二人で架けるレールの上で、これからの未来図を描こうよ。片道切符なんだよ、二人の命で買った片道切符なんだよ。天国か地獄まで続く壮大な大陸列車なんだよ」
 藍の言葉が、胸に刺さる。藍は、僕が思っている以上に苦しんでいる。ここで僕が笑顔の一つでも、朝食を作るように簡単にこしらえて見せれば、長旅の良い記録ともなっただろう。
 しかし、僕の隣の席には、相変わらず空席があるし、その隣に藍がいた。
 三席分の疑問と僕は旅している。
 僕は空席の理由について深くは語れず、切符も胸の奥にしまい続けている。その僕と藍を隔てる一人分の空席が、今の僕と、藍の心の隙間だった。
「長旅で、これからもきっと続く。途中下車もしない。最後の駅まで笑顔で会話しながら行きたい。もう、戻れないから」
 藍は、僕の沈黙の殻に亀裂を入れようと、何度も鈍器で殴った。内側に響く音の反響に、僕はたちまち震えだした。僕の持っていた壊れかけの硝子細工も、僕の腕の中で震えだした。
「麻斗、今は……いいえ、今も、そして、これからも、きっとあなたしか見えない」
 実質的な、愛の告白だった。僕はその藍の問いかけに、すぐさま答えることが出来ず、沈黙した。
 僕の指が動くのを確認して、初めて僕は開口した。
「何かに拘泥することは、悪いことかな」
 何か、とは春美のことだった。わざわざ代名詞を用いなくとも、藍ならば直ぐに分かる。だが僕は、代名詞を使った。
 優しい非情、そんな言葉があれば、用いるのは今だ。
 僕は向き合う藍の横を通り、歩き出す。藍は、僕を太陽にした向日葵のように、向きを漸進的に変え、僕を見送った。
 僕には見えない、僕の背中。藍には見える、僕の背中。僕は、何を背負い、何の重さに苦しんでいるのか。
 それは、僕自身よりも、藍のほうがよく分かっているのかもしれない。
「麻斗が――」
 藍が、叫んだ。
「麻斗が、本当に愛しているのは、私、それとも春美」
 僕が、藍に一番されたくない、叫びだった。
 僕が口を開きかけた瞬間、体に初期微動が走った。
 全身に激痛が襲い、眩暈に似た幻想を見る。流星が空から落ちてきて、黒い星々が、砂の上で回転する。
 突然、砂が隆起したかと思うと、春美が砂の中から立ち上がり、藍の隣に並ぶ。
 蛍が縦横無尽に舞い、藍と春美の間を軸に飛んでいる。
 数千という蛍の大群は、藍の必死の形相の前後を飛び回り、春美の両肩に止まる。カーディガンを羽織った春美の手には光の玉が握られていて、そこから噴出する光の帯が、僕のほうに流れ、足元から腹部、そして胸までも緊縛していった。身動きひとつ取れず、僕はミイラのような姿で、張り付けにされていた。キリストの受難を連想させる風体。蛍はそんな僕の肌という肌に取り付き、鋭利で長大な針を口から出して、次々に僕の体を帯の上から串刺しにしていく。
 光はその瞬間、木っ端微塵に弾け跳び、雪が地面に到達して水になり、地面に吸収されていくように、空気の中に消散していった。残響が虚しく僕に届くと、僕の姿は針に包まれた死刑囚同然で、体中に開いた穴から内容物が漏れ出していた。血はすでに足元に血溜まりを作っている。それを砂が、貪欲さを露にして飲み干していく。朱に染まった口元は、吸血鬼のそれだった。
 赤い砂の上で、僕はかろうじて立っていた。
 僕には、輸血が必要だった。
 そこへ、止んでいたはずの白い雪が降る。
 赤と白、そして黄。
 この世のものとは思えないコラボレーション。砂が雪を吸い込んでも、雪は空から降ってくる。
 桜の花弁がそうであったように、雪は砂を埋め尽くさんばかりに、時折速度と量を加減して降り続ける。
 神秘的で、なぜか悲哀に満ちた情景だった。
 僕は無言で、見ていた。
 藍の口が動いていた。
 無音の空間が拡大して、僕と藍の間を飛躍的に増大させる。まるで一キロ先にいるような感覚だった。
 瞬きをした。幻想が消えてくれることを祈って。痛みが消えてくれることを祈って。
 僕は、何か、を言った。
 僕が無意識に発した言葉だった。脳が僕の判断を仰がずに、勝手に口を動かした。
 それは一言で終わるような短い言葉だった。
 藍が、僕の異変に気づいて駆け寄ってきたようだった。一キロ先なのに猛スピードで僕にたどり着いた。僕にはそう感じた。
 藍は僕を受け止めた。僕は倒れようとしていたらしい。
 前のめりになった僕を下から支えるようにして、藍は肩口で僕を抱え込んだ。
 春美は消えていた。雪も。
 蛍だけが、僕と藍の周囲を周回していた。名残惜しそうに虹色の帯を引きながら。人魂のような奇妙な色合いで、燃え上がる炎の帯。全てが豊かな色彩に包まれて、僕は風になったように浮遊感を味わった。
 支えられている、という実感に似ていた。
 蛍の灯火は、虹色の残滓を僕の瞳に残す。灯火を削りながら作る残像が、今、費えようとしている。視界を覆うほどにまで増殖した蛍の大群も、いまや絶滅寸前だ。
 最後の一匹が僕の鼻先に止まり、一際大きく光輝を放った。瀕死の電球のような、今際の光。
 これは、何かを告げているようだった。
 遺言のような。
 光は、三度明滅して、僕の鼻先から静かに消えていった。
「もう聞かない、聞かない」
 藍が、すすり泣いているような声を出していた。実際には泣いていないようだったが、そこに込められた心情は真実だった。
「藍――」
 僕は、掠れ声で、言った。
「僕は何て言ったんだ」
 藍は僕を起こして面と向かった。
「何を口にしたんだ」
 首を横に振り続ける藍。髪が揺れ、僕の鼻に潮の香りと、藍の香りが届こうとも、藍は首を振り続けた。
「もう聞かない。麻斗が言ってくれたことで十分。それで分かったから。すぐの列車じゃなくてもいい。しばらくこの駅にいよう。何本遅れの列車でもいいから、ちゃんと一つ一つを乗り越えて行こう」
 藍は優しく僕の頭を、広く、柔らかく、そして温かい胸の中へ包み込んだ。
 僕はベッドの中の温もりに似た睡眠欲に襲われる。
 羽毛で覆われ、体中が地底へ沈み込んでいくような、安眠の感触。太陽の下で追い出したしこりが、再び眠気とともに回帰してきた。
 節々に鎖を巻きつけられ、その先端には鉄球。僕が身動きをとろうとすると、鎖は音をたてて叫び声を上げ、耳障りな音は、僕の耳の内側を鉤爪で引っかいた。
 僕はその鈍重さを理解し、無駄な労力を使ってまで抵抗することに意義を感じない。
 ワインに沈殿した澱のように、僕は何年もそこで眠り、抜栓された後も、僕は底辺から流雲を見上げている。
 僕はそこにいることを望み、時間とその場所も用意されている。安寧が約束され、享受する幸福もある。安定が約束された、安らかな枕の上。
 僕はそんな安らぎの膝にいた。
 藍は、結局、何も言ってはくれなかった。
 僕が何を言ったのか、その、おそらくは一言であろう綴りを、言ってはくれなかった。
 僕にとってはいいことだったのか、それともその逆か。
 知るのは藍のみ。
「藍……少しこのままでいてくれないか」
 藍は頷かずに、微笑んだ。
 これ以上ない是認の仕方だった。
 瞳を暗闇に隠して、僕は小宇宙を感じた。












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