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鎖状の楼閣
作:NAO



第二十三話・海


 防砂林の並ぶ海岸通りの二車線は、思ったより空いていて、開通したばかりの道を一番乗りで走っているようだった。
 藍が窓を開け、海岸から運ばれてくる潮風を頬に浴びると、首筋で分かれた風の一方が、耳朶を通過したピアスの輪をさらに通過していった。
 藍のピアスは、それだけを外したら指輪のような形状だった。埋め込まれた宝石のような透明度の高い紅が光っている。
 助手席に座る僕にはそれがよく見えた。
 塩の匂いの付加された威勢のいい風は、藍の髪をいとも簡単に撥ね上げ、国旗のようにはためかせる。
 塩の匂いに混じって、藍の香りが匂う。香水の匂いの消えた、藍自身の匂いだった。
「海開きはしてるよね」
「ああ、してるな」
 話したい、といって来たのに、海は今そんな状態ではない。
 赤潮の発生したプランクトンのように、華やかな水着を着た男女で、海岸はあふれかえっているはずだ。
 静かな場所など、この海岸線のどこを探したってありはしない。途中橋をまたいだが、案の定、そこから見える人の頭は、数え切れないほどだった。また防砂林で見えなくなったが、明らかに見る前と、見た後では心境は違っていた。
「どうしようか」
「どうしようもないな」
「どうしようもないね」
 言ってすぐに、藍は笑った。海上で煌く太陽光を燦々と浴びた笑みだった。藍の髪を抜け、肌を撫で、僕へ届く。その直線的な不可視の光の筋は、僕の迷い全てを蒸発させるかのよう。
 影も形も残らないように、一瞬で。
「じゃあ、このままどこかへ行こうか。当てもなく、ただ思いつく限り真っ直ぐ。北の果てまで」
「それとも、南の果てか」
「でも無理だよね」
「テスト……か」
「うん、戻らないと」
 藍は心底残念そうに、ハンドルを回す。
「海岸線くらい、防波堤越しに歩いていこうか」
「そうだね、せっかく来たんだし」
 藍は、アクセルをさらに踏み込んだ。
 防砂林を抜けてすぐ右に広がった海水浴客用の駐車場の角に駐車スペースを見つけ、藍は、急いでそこに車を滑らせた。
「運転、下手だな」
「何か言った」
「いや、なんでもない」
「そんなこと言うなら自分で運転すれば」
「聞こえてるなら、聞き返す必要があったか?」
 縁石を乗り越えて駐車した藍に、僕が小さい声で呟くと、地獄耳を披露しながら、シートベルトをはずした。
 天頂で瞬く太陽のあまりの眩しさに、手をかざし、目を影でおおう。藍は半眼で僕を振り向く。
 僕は、目をつぶって、大きく天に向かって伸びをした。体の節々に蓄積されたしこりを空へ逃がす。
 僕の口から、埃をかぶった息が、肺から押し出されて空に舞う。
 藍を振り返ると、藍も僕に習って手を大きく太陽に伸ばし、背伸びをしながら、小さく唸っていた。
 僕たち二人は、砂浜でシートを引いて寝そべっている人、あるいは、海辺で戯れている人々を見下ろしながら、防波堤を歩いていく。
 ちょうど防砂林の手前を歩いている僕と藍は、吹き上げる風に足元を洗われながら、靴の中に僅かに入る浜辺の微粒子を踏みつけていた。
 靴裏の感触はまるでシャーベットを闊歩しているような感じで、時々浜辺でもないのに足を取られそうになった。
 毎日、休まず風が砂を地道に運んできているから、ここは第二の浜辺と化している。時々貝殻さえも砂の合間に埋もれているのが分かると、僕は密かに驚いた。
「私、なんか場違いな格好してる」
 藍は昨日と同じ服装をしていた。僕もそう。二人は、車内で夜を共にしたのだから。
 上着を脱いでワイシャツ姿の藍は、僕のようにラフな格好ではないので、少々熱いはずだった。
 暑さのためか、体中には一歩を砂とともにするたび、熱波が押し寄せ、発汗作用を促す。僕の汗はTシャツが受け止め、藍の汗はワイシャツが受け止めた。
 海の青には及ばない藍のワイシャツは、藍の汗を思う存分飲み込んだために、少し深い青に色を変え、さらには肌に張り付き、下着のラインをはっきりと際立たせた。
 僕はそれを見ないように心がけながらも、視界の隅に入ってしまう度、昨夜の行為を意識せずにはいられなかった。僕の前方を、両手を腰の下で組みながら、爽然と歩く藍の足は、とても軽く、砂の上を歩くというよりは、砂の上に浮いているというほうが適切だった。
 時々、浜風が舞い上げる砂にも目をつぶり、立ち止まってしまう僕を振り返っては、馬鹿にするように笑い、そしてまた僕の前を軽快に歩いていくのだった。
 僕は不意に立ち止まった。
 藍が歩いていくのを、砂浜に下りる階段の手すりに寄り掛かって眺めていたくなった。
 どんどん先に進んで行ってしまう藍の背中は、やはり広く、そして伸びている。衰えというものを知らない、若さの背中だった。地面と垂直に立つ足に、胸を張ることで曲線を描く背中、それは誰が見ても毅然とした歩みにしか見えない、正直な意思を持った者の背中だった。
 惚れ惚れするような背筋だった。
 藍が振り返り、怪訝そうな表情を浮かべる。僕がついてきていないことを知って、組んでいた手を腰に当て、急ぎ足で戻ってくる。
 文句のひとつでも言ってやろう、という口の歪みだった。
 だが、僕の予想に反し、藍は手すりにもたれる僕の目の前に立ち止まり、鼻先に手を差し出してきた。
 何も言わず、手のひらを目いっぱいに広げ、僕を見つめる。子供が、親に見せるために差し出す興味対象のように。その手の上には何も乗っていなくとも、僕に見せるための何かをそこに乗せている。
「手、つなごう?」
 僕は口の端を遠慮するように、嫌がるように、上げた。春美とも手をつないだことはなかった。春美からは、あったかもしれないが、僕からは絶対になかった。僕と春美はいつも、並んで歩くだけだったし、思えば、手をつないだ、という行為だけを挙げるならば、ほんの数回、あるかないかというところだろう。
 だから僕はどこか抵抗があった。
「つないでいないと、麻斗、離れるでしょう」
 僕は首を振った。
「そんなことしないよ」
 藍も首を振った。
「しなくても。私を先に行かせたり、麻斗が先に行ったりしないように、手をつなぐだけ。横に並んでいよう。同じ歩幅で進んでいこうよ」
 藍は、僕の何を恐れているのだろうか。手首を取り、その場で立ったまま僕を見ている。
 僕が踏み出そうとするまで、待っているようだった。
 もし僕がこのまま踏み出そうとしなければ、一生このままじっと立っているのだろうか。
 僕は、藍の時間を止めているのだろうか。
 大それたことを考えていると思う。自分本位で、自己中心的だと思う。
 しかし、こうして僕と一緒に立ち止まっている藍を見ていると、心の隙間に風が入ってくる。荒野に吹く北風のような、荒涼感。新聞紙と干草が舞い飛ぶような、西洋の荒野だ。砂嵐が視界をふさぎ、時々開ける視界の隅で起こる、強盗、発砲、殺傷事件。媚びへつらい汚職にまみれる保安官。つまり、無法地帯のような。僕は配役でいうなら、日々怯え、悪漢に従属する住民のようなものだ。逆らうことが出来ず、ただ奪われゆく金品、食料を、唇を噛み締め眺めている。
 そんな受身だけの人間。砂塵を身に浴び、痛みに呻く。
 そんな場所に迷い込んだ一人の少女は、今日も身包みをはがされ、大男に上から潰されて、涙に暮れる。そして、次第に痛みを快感に変えていく。
 ただ、そこにいるだけの旧態依然。慣れることに、平和を見る意識改革。
 それは諦めにも似ていた。
 僕は、藍といることで維持しようとしている。僕自身は何も変わらず、僕と一緒にいる藍も何も変わらず、結局、愛も変わらない。
 春美と重ねた愛が、今ある愛だ。
 何も変わってはいない。












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