第二十二話・前向きに
「ボタンが取れてる」
僕は隣でシートベルトを締める藍に、これ見よがしに言った。
座席とドアの狭隘な空間に手を入れてみるが、甲がすれて痛いだけで、手のひらの開閉は、生ぬるい空気をつかむだけだった。
「……謝らないわよ」
ハンドルを握り締め、目線は前。
犬を連れて散歩する初老の男性が、ジャージ姿にタオルという服装でこちらに向かってくる。
彼は、巨体を揺らせて突進するような犬の傲慢に、引きずられていた。おのずと走るようになってしまっているのは、老人の意図か。タオルは、そのためか。
「どうして。藍が、昨日……」
お犬様、という言葉が当てはまる光景から藍に顔を向けると、唇をすぼめて押し黙る彼女がいた。
長嘆息をしたのは藍だ。シートベルトを伸ばし、ハンドルに顔をうずめる藍は、恥ずかしそうに頬を染めていたようだった。
「謝らないわよ。私だってあんなことするとは思わなかったもの。何であんなことしたのか、私にも分からないわよ……」
僕にもそれは分からなかった。
傷つけるはずの藍の愛に、僕は答えてしまったのだ。
関係を結ばなくとも、親友のままでそれは可能だったはずだ。僕が藍に対して、残虐で、比類ない男足らずな行動を起こせば十分だと思っていた。
藍が僕に愛想を尽かし、幻滅し、自然と離れていくような気がしていた。
惑星軌道のように、一時は接近しても、後に遠く離れていくように、僕と藍もそんな関係にするはずだった。
藍の泣き顔を何度、空想したことか。
夜寝る間も惜しんで彼女の悲痛に歪む頬を想像していた。夢の中でさえも僕は、藍と再会し、傷つけ、追いかけずに背を向けた。僕は藍に平手打ちし、殴打し、足蹴にしてでも、僕は傷つけようとしていたのだ。
腫れ上がって変色した四肢を携えて落涙に床を濡らし去ってゆく。両足を引きずり、片手をぶら下げて、破れた服を肩にかけながら、敗残兵のようにかえって行く藍。
僕は、夢想にもそれを描いていた。
だが、どれも現実感にかけていた。藍の髪の毛を鷲づかみにして、引きずり回したとて、それは現実にはならないことを僕は知っていた。
いくら殴りつけても、暴言を吐いても、無視しても、離れても、それは不可能だということも、僕は知っていた。
そうして、迷った挙句、僕はこうして引き返せない対岸に来てしまった。
向こう岸で寂しそうに手を振る僕がいる。安住の地で暮らしていたはずなのに、未開拓の不毛の地へ、僕はいつの間にか足を大きく踏み入れてしまっていた。
鬱蒼と生い茂る羊歯植物、太古の世に人が誕生して間もないころ、人は地球上全部といっていいほど未開の土地で一つ一つ知っていき、血とし骨とし、糧とした。
そんな恐怖がひしめく土地へ僕はひとりで来てしまった。
もう引き返すことは出来ない。
耐えられる小さな沈黙の末に、僕は黙考し、藍は開口した。
「……気づかなかったでしょ。どこか愕然としない?」
「何が」
うずめていた顔ほんの少しこちらに傾け、片方の目が僕を申し訳なさそうに捕らえる。
「私たちが、こんなに大人になっていたこと」
正直な気持ちだった。僕の気持ちにも合致していた。
「いつの間に、あんなことを平気でできるようになったんだろうね。中学校のころはあんなに純粋だったのに。知ってた? 私ね、中学校の最初ぐらいのときは、子供が出来るのって、愛の種を女の人に飲ませるとできるんだって、本気で信じていた。あながちはずれじゃないけれど、とても婉曲的な表現よね。なのにいつの間にか、こうして二人の弱い部分を見せ合って、触れ合って、擦り合って、そういうことをして子供が出来るんだって分かってた。蛙みたいな格好をして……痛かったよ最初は」
僕は、聞きたくないと思った。世の中の真実を聞かされるようで、少し怖かったからかもしれない。加えもうひとつ、藍の実態を知らされるようで、怖かった。
「藍……やめないか、そんな話」
藍は困ったような顔をして、黙る。
「……」
早朝の鳥のさえずりが、空気を振動させて車内に伝わる。
電線に置物のように、お互い瓜二つの鳥たちが座し、四方をきょろきょろと見回して、会話していた。
フロントガラスには、晴れ渡り雲の少ない空が、生き生きと活動を始めていく様子が映しだされている。
最盛期はもうすぐのようだった。
「……黙らない。このまま黙ってしまったら、何も変わらない。清々しい空気に騙されて、変化した気になっていても、それは表面だけで、心までは変わっていない」
唇を噛んだ。藍が僕の心の内を見透かしているようで、いや、完全に見透かしていることに悔恨の念が沸いた。
僕が変わっていない証拠を突きつけられた気がしたからだ。唇が千切れても、僕は分からなかったかもしれない。
それだけ、下腹部が熱く黒く煮えたぎっていた。
認めるのが怖かったのだ、と思う。
「現実を知ろう。顔を見詰め合って、確認しよう。過去は胸にしまっておこう。外に持ち出さないで、しまっておこう。たまに、ドアを開けて新鮮な空気を入れるのもいい。でも、開けっ放しはよくない。家があるのよ。過去には過去の、思い出には思い出の、家が。あるべき場所があるのよ」
藍には、癖がある。
感情的になってまくし立てるとき、大人ぶっていた表面の口調が取り払われ、本来の無邪気で強い感情の塊を持った言葉が発射される、という癖だ。
それは誰より強く響く、魂のこもった、いわば言霊のようなもので、言ったことが真実になるという、まるで予言者めいた力がある。
予言者というと胡散臭いイメージがあるが、彼女の場合はそれがよりストレートで起伏に富んでいるから、人を信じさせる力がある。
「麻斗は知るべきよ。私の全部を。私が、麻斗の知らないところでどう生きてきたか。どんな経験をしてきたか。もちろん、それは私にも言える。私の知らないところで麻斗が……麻斗がどんなことをしていても……知りたい」
藍は、言葉を意図的に切った。
「もちろん……」
戸惑いを隠しはしなかった。ありのままの自分をさらけ出しているようだった。自分を圧迫する存在に対して、強がるわけでもなく、極端に恐れるわけでもない。自然な反応。
「春美のことも」
ただ、怯えていた。
それを口にすることだけでも、相当な勇気が要ったはずだった。
藍にとって、春美はこの世で唯一自分を傷つけられる人物だったから。
僕が春美と関係しなければ、そんなことはなかったはずだが、関係してしまったために、その感情は起こった。
滂沱とした涙を心の裡に溜めたはずだった。
勇気。
僕には、それが足りなかったのかもしれない。春美に告白をしたあの日、僕は森羅万象に勝る勇気を発揮した。
人生最大で最後の勇気だった。
僕が、春美の独白から目を逸らしてしまうそのときまで、僕は自分の勇気が枯渇していたことを知らなかった。
知ったときには、もう遅く、春美はこの世にいなかった。
「もう隠さない」
真摯な瞳の輝きが、狭い車内に、乱反射する。車内の隅々まで発光し始めて、僕の暗い部分も、藍の暗い部分も照らし始め、浮き彫りにしていく。
僕は眩しさに睫毛を垂らす。
晒してもいい。そう思った。全てをさらけ出してもいい。そう思った。
言葉では伝えられないことが多すぎた。
しかし、それでも多くの感情、情報を伝える努力をしてみよう。そう、前向きに考えられた。
だがそれは、考えているだけで、実行には移せない、小さな決意に過ぎなかった。
僕はゆっくりと、藍に分かるように手のひらを伸ばす。藍は、目をつぶった。瞳に宿した信頼という光を抱いて。
僕は優しくハンドルを枕にする藍の額に触れる。そのまま輪郭をなぞるように、鼻梁から上唇、下唇、顎、と、僕の中指を中心線になぞっていった。
儀式のようだった。
敬虔なクリスチャンが聖印を刻むように、僕は藍の面に一条の印を描いた。
そして、藍の頭の下にひかれている指先を握った。細く、強く握るとすぐに骨の感触のある指だったが、僕は好きになれそうだった。
幼稚園のころ、僕がよく上から握ってもらった指は、こんなにも大きく、長く成長していた。
あのころ僕の手には何も握られていなかった。その代わり、僕を引っ張りまわすために、牽引するために、藍は、僕をしっかりつかんでいた。
力だけでは振りほどけない、意思を宿した握力が、僕の手首にあざをつけた。
それが藍の絆だったのかもしれないし、寂しさゆえのものだったかもしれない。
裏通りを二人で歩くとき、その握力は僕の何よりの鼓舞となった。ふらつきそうになる足元と、挫けそうになる微弱な勇気を繋ぎとめるための。
「今は話そう。何よりも、今は話すべきだ。そして、聞いて、それに正直に答える」
藍は目を閉じたまま頷いた。
僕は、藍に海へ行こうと持ちかけた。
藍は、喜んでそれに賛成し、一途、海へとハンドルは回転した。
|