第二十一話・肉体の裸、心の裸
僕は汗で湿った首筋を掻きながら、目を覚ました。
露呈した体の節々に痛みがある。筋肉痛のような、一定の動きに反応する痛みだ。
僕は、狭い座席の上で、シャツに袖を通し、ズボンをはいた。汗でべとつく生地が、不快感を与えた。このまま裸のままで世界を歩けたらどんなに気持ちいいかと、僕は考えた。
それは理想の世界かもしれない。
隠すもののない、透き通った世界。
心の隙間までも、太陽に照らされている世界。嘘や、偽りのない、本当の意味で真実の世界。人が嘘をつき始めたのは、知恵があったから、とは僕は思わない。衣服を身に纏ったときから人は嘘をつき始めたのだと思う。最初は、防具としての役割だったかもしれない衣服が、次第に劣等感を隠す格好の材料となる。最初に隠したのは、局部だった。
僕は考える。
局部を隠す必要が、果たしてあったのだろうか、と。
乳房や、陰茎、を隠す必要があったのだろうか。
僕は疑問に思う。腕を失えば、創造することも出来ない。触れることも、握ることも、弾くことも、投げることも出来ない。足を失えば、歩くことはおろか、知ること、蹴ること、踏むこと、果ては、移動することもままならなくなってしまう。これほどまでに重要な部位が存在している。
それなのに、僕が見た教科書の、人の誕生の図説には、局部だけを隠した毛深い原始人が記載されているばかりだった。局部をなくしても十分、人としての営みをなすことは可能なのに。比較すれば、手足をなくしたときのほうがはるかに、被害は甚大だ。
もちろんこれは、原始人の場合であって、現代人のことではない。
こうして人は、他人には見せない部位を持つことになる。それが他人の好奇心をかきたてたり、妄想の引き金になったり、人の心に作用して、やがては今のようなプライベートという言葉を生むことになった。
僕は社会の一端で生きていながら、自分ひとりの空間を抱えている。
簡単に言えば、二つの世界に生きている。
全裸で生きる空間と、隠蔽しながら生きる空間。
前者の中で、僕は、だらしない姿で寝そべっていたり、部屋を散らかしたり、マスターベーションをすることだって出来る。
しかし後者では、それらが出来ないことはおろか、自分の言動や行為など、その行動のほとんどに束縛を受け、意思に逆らって生活をせざるをえない。言い換えるなら、息継ぎのようなものだ。水中にもぐって、苦しくなったら、空気を吸いに水面へ、そしてまた潜っていく。時には、水面へ戻ることが出来ず、溺死するものもいる。苦しく、息が満足に出来ない世界に僕は生きている。裸でいることが出来ず、絶えず誰かに秘めた心を持たなくてはならない世界に。
――裸になることは、恥ずかしいことじゃない。
春美が、車の窓ガラスの横に立って、僕を見下ろしていた。
僕は藍を起こさないようにそっと車のドアを開け、外へ出た。霧がかった早朝は、僕の肌に冷気を送り、一時は頂点に到達した熱気を今度はあまりにあっけなく吸い込んでいった。
僕は少ししわのよってしまった幾何学模様のシャツのボタンを、首もとの一つと、ボタンの取れてしまった一つを残してかけた。
熱気は少しだけ僕の胸にとどまったようだった。
――むしろ、最も恥ずかしいのは、心を裸にするとき。
僕は、春美の後ろをついていった。彼女は尻の上で指を絡ませて、ゆっくりと僕を霧の中へ先導していった。
ちょうど休めの姿勢のまま歩くように。だがその後姿からは、口笛さえも聞こえてきそうなほどの、嬉々とした様子が見て取れた。
背負っている明るい光は、僕の周りを照らす。周囲に立つ靄が光を吸収して、淡く発光している。
――麻斗。
くるりと反転して僕を覗き込む春美の前髪が、彼女の視界を切り裂いている。
僕もつられて、踏み出そうとした足の力を抜き、覗き込まれるがままに立ち止まった。
霧は二人の周りで急速に発展しつつあった。まるで春美が作り出しているようだった。有視界は、お世辞にも良好とはいえない。こんなさなかに飛行機を飛ばしたら、間違いなくあの広告塔に激突するだろう。もちろんその広告塔も見えやしない。
見えるのは春美の姿、ただひとつ。
風もなく、じめじめと僕を濡らしていく水蒸気。汗ではない。僕と水蒸気の接触がこの膨大な量の水を作り出している。
――心を裸にした人は、恥ずかしさのあまり、きっと死んでしまうわ。
春美は、そう言うと目笑した。
――冗談のように聞こえるわよね。でもきっとそう。現代人はストレスを癒すことに尽力しているけれど、ストレスだって、なければ人は死んでしまうのよ。ストレスは、精神疲労である反面、原動力でもあるの。重要な仕事を任されたときの責任だって、あれは一種のストレス。やりがいもあれば、平行して、疲労もある。ストレスをなくした人間は空蝉と同じよ。何事にも適度、があるのと同じ。過剰摂取は体に毒。その反対も、ね。……しすぎ。この言葉がついた時点でその行為は、適当ではないのよ。だからね、心を裸にするっていうことは、ストレスを全部吐き出すって事だと思うの。
僕はあまりの不可解さに、唇を曲げた。腕組によって春美に僕の意思が伝わっただろうか。
――だから……
どうやら、分かってくれたようだった。
――人は、隠していないと生きられないって事。ストレスも、心も、陰部も、全部全部隠しているから人なのよ。誰もがみな他人のことを知っているなら、それは人がたった一人存在しているだけ。他人と自分の区別がついていない、ただの物体。人は隠すことによって、他人と自分の区別をつけているのよ、きっと。
僕は春美が言いたかったことの半分をこのとき理解することが出来なかった。
だが、今はそのときよりも明確にそれを捉えることが出来る。
僕の考える世界は、自分という人間の多義性が生み出す空間と、それが織り成す、公私、という区別だった。
それは春美の言う裸、にある。
春美は、裸、という肉体的な部分と、心の裸、という精神部分に分別した。僕の前で裸になった彼女は確かに全てをさらけ出したように見えるかもしれない。
しかし、その心までもさらけ出したわけではない。目に見えない心こそが、本当の裸で、僕は見ることが出来ない。
見ようとして見えるものでもない。盗撮、盗聴を駆使したとしても、それは不可能だ。四六時中そばにいたって、それは感じられない。どんなに長年寄り添った夫婦でも、無理だ。
僕と春美が、本当の意味で液体のような心の融合を遂げなければ、それは絶対に無理なのだ。
春美は言った。心を裸にした人は、死んでしまうと。恥ずかしさのあまり、というのは冗談めかしてはいるが、死んでしまうのは確かだろう。
つまりは、心を裸にした人は、自分という輪郭をなくし、それを受け入れた人と融合、新たな生物となる。僕は、少なくともそう考える。
――まるで御伽噺のようだけどね……。
まるで御伽噺のような説だが。
春美は、霧の中に消えた。不思議と次の瞬間には霧もどこかへ飛ばされ、僕の視界をクリアにしていった。
すぐ後ろには、藍の車がウインカーを点灯したまま停車している。
素肌の上に直接着込んだシャツが、汗で濡れた手で僕の肉体の輪郭をなぞっていた。
「どうしたの」
昨夜とまったく同じように着込んだ藍が、ドア脇に立って僕に問うた。昨夜とはまったく違った藍がそこにいる。幼馴染だったころの無邪気な姉、親友だったころの知的で強情な親友の面影がすっかり消去され、一人の毅然とした色気のある、妖艶な、女、が立っていた。
「空気が清々しいな」
「そうね。昨日とはまるで別人のような気分だわ」
ボンネットに両腕を乗せて言葉を返す。あながち的外れでもない指摘に、僕は苦笑いをした。
「どうしたの」
「分からない」
「分からないなんて、おかしいわ」
水滴が、自動車のありとあらゆる場所に眠っている。避難勧告を聞いて退避した人々で敷き詰められた、避難所の体育館が頭をかすめる。
「でも、分からないんだ」
「目をつぶって、よく考えてみて」
僕は、苦笑いの意味を脳に問いかけた。朝日を浴びてフル稼働させた脳では、叩き起こされた労働員が大急ぎで出勤、作業に入る。引き出しを引っ張り出し、書類をまとめる。上司に校閲を頼み、校閲が完了すれば、僕のところまで持参した。
出来立ての生暖かい原稿には、丸秘と書かれ、ページをめくるとそこには僕が導き出した答えが、書かれている。
そこにはこう書かれていた。
藍がこうも変わってしまったのは、ひとえに僕の原因であり、それはまるで僕と春美の関係に似ている。
春美が僕にとって親しい先生から、ひとりの恋人になったように。
藍も、幼馴染から、恋人に似た関係になってしまった。
それを皮肉って出た、苦笑い。
口にすべきか迷った。答えを書いた答案が、提出されずにある。このままだと点数にならないが、僕はそれを望んでいた。
「考えはまとまった?」
「いや、まとまらない」
僕は嘘をついた。あきらめて、閉じたまぶたを開けた。
藍が、僕に口付ける瞬間が見えた。
藍は裸足だった。足音を悟られないために、ハイヒールを脱ぎ、忍者のような忍び足で僕の眼下にたどり着いていた。
ハイヒールを左手で一足ぶら下げて、右手は僕の頬。少し傾けた顔に、ちょっとだけ背伸び、肩越しに見える路面は水滴に光っている。
藍は、背伸びのためか少しバランスを崩し、長く口付けようとした意思に反し、バランスを崩して、僕のほうに倒れこんだ。
僕はそれを受け止める。
「急に、想いが通じた」
藍は、自力で立つと、次に僕の胸に額を接触させ、そこから意思を伝えるかのように押し込んだ。
怯えと逡巡が、ない交ぜにしてあって、どこか信じられない、という感情がそこにあった。
「怖いくらい」
声の振動が、胸を通して体全体に伝播していった。微弱な震えは、空気を介して僕の周りを一過していく。
嵐の前の緊張した静けさ、ではなく、嵐の後の虚とした静けさ。
二人の間には、赤く色づいた静寂があったに違いなかった。
「だって、今まで麻斗は私を厄介者にして、避けていたし、春美ばかり見ていたし、私の入る隙間なんて……。でも、なぜか今私は、こうして何の不思議もなく麻斗とキスしてる。これが怖くないって言ったら、嘘よ」
僕は、見えない藍の表情を見てみたいという衝動にかられる。
「でも、もういい。そんな恐怖もひとまとめにして、どこかに捨て去って、こうしていたい。通じた思いを大事にしたい。大事にした思いを育てたい。育てた思いを誇りたい」
藍は、僕にその表情を見せた。笑顔に一輪の花が咲いた。
「手、つないでみない? そして、町中を歩くの。見せ付けるように、歩くの。一度でいいから、つないでみたかった。憧れかな。私が麻斗を引っ張りまわして、麻斗は困ったような顔をしてさ、これいい、あれいいってまくし立てる私に、疲れたよって言う。そして、私の誕生日には、これいい、あれいいが、一遍に私のものになる……」
「そんなに、持ち合わせないな」
「借金してでも」
僕はこぶしを振り上げて、殴るふりをした。藍は、笑いながら、すり抜けて、車の背後に回りこんだ。
足の裏を覗き込んでいるのは、きっと小石を踏んだからだろう。苦痛に歪める顔も笑顔の上からだ。基本的には笑顔を崩さずに、僕におどけて見せている。
「今日、学校は?」
自動車の天井に肘を乗せて、さらにその肘の上に顎を乗せて、まるでそこが草原であったなら、寝そべっているような格好で、聞いてくる、藍。
「ある、最後の時限、テスト」
「私はない」
降りてきた沈黙と、消えていった言葉が、次に続く決論を模索していた。降りてきた沈黙は、答えを、消えて言った言葉が、問題を。
「麻斗のテストに間に合うように、どこかへ行こう」
僕は、首肯した。
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