第二十話・余韻
雪が僕の頭上から降り注いでいる。僕がまぶたの裏に意識を移した後も。まるでそこでも現実の情景が続いているようだった。
雪は、僕の周囲から離れない。降り続き、降り積もり、僕を埋める。僕を覆う。
一過性のものではなさそうだった。
断続的に降り続き、時には晴れ渡り、時には猛烈な勢いで視界を無垢に染める。
今は、少々小降りにはなってきていたが、いかんせん、天から木の葉のように散っていた。
睡魔が僕の周りで小躍りして喜んでいた。僕の顔を覗き込んで、まぶたをめくり上げた。くさい息を吐きかけて、唾液をたらしながら、異様な呪文を唱えていた。
僕は、首を回した。運転席に身を沈めた、白い姿の藍がいる。
そのまま地面の奥まで沈下していきそうな深い眠りだった。
彼女のさらされた裸体の上から、僕が脱がしたスーツが布団代わりに被せられている。死装束を纏う死者のように静まり返っている。睡魔はそのスーツの上で胡坐をかいて、転寝をしていた。首が折れては返り、を繰り返している。睡魔は、眠るまい、と首を大袈裟に振って見せるが、何の意味も成さなかった。よく見れば、睡魔の肩の上で、また別の睡魔がバイオリンを弾いているのだった。そのバイオリンの上で、また別の睡魔が、壮麗に歌っていた。
湯気が狼煙のように立ち昇っていた。藍の赤く腫れてしまった首筋に、僕は罪悪感を覚えた。
これが、事実だったのだ。
表面のあざは消えても、心にしたキスの痕は消えない。
僕はつまり、藍をこの腕で、抱き寄せてしまったのだ。
彼女のふくよかな双丘に顔をうずめたとき、僕の両頬には二つの溢れる優しさがあった。その先端を口に含んだとき、硬直する先端に僕は自分への鼓舞を覚えた。
歯と歯でかむと、藍は小さい悲鳴を上げ、その間で僕は自分が赤子だったときの記憶が脳裏によみがえった気がした。
僕が母乳を口一杯に含んだ、というかすかな感触がよみがえってきた気がした。吸っても何も出てこないと分かっていながら、僕はしきりに吸ってみた。吸引することで、僕は導き出そうとした。吸入したものは、僕の口腔で溜まっていき、僕は口内で膨れ上がったそれを強引に喉の奥へ押しやった。
食道を流れ、胃に到達、そこから全身に溢れていく暖かさ。
もっとそれが欲しい、と思った。
今度は強く吸った、強く噛んだ、搾り出すように強く揉みしだき、強引に貪り飲んだ。
藍は、苦しんだ。口からは注意の言葉も漏れはしたが、僕の恣意を冷やすことは出来ない。
僕は、かまわず強く、きつく、握り潰した。藍は、それを拒否せず、歯を食いしばって耐えていた。
僕を寛大に大海へ誘おうとしていた。
それは、僕がいた海。かつていた、海。
海、そして僕の全身に浸透していく暖かさは、合致する。
この暖かさが、羊水の暖かさであると、僕はどこかで理解していたのだろうか。僕は、それを薄々感じていたはずだった。出産前の眠りの中で。
現在の記憶のどこかにある、あの暖かさ。記憶は決して失われることはない、ただ引き出せないだけであって、全ては脳内に蓄積されている。
だから知っている。母の子宮の中で誕生したときからずっとずっと、その温もりが何であるかを。
愛、であると。
包まれていたのだ、藍の愛に。
晴美が欲していたのが何であるか、僕はそこで知った。聖母マリアの与えた慈悲のように柔らかく、心が癒される空間。肌触りがよく、自然と落ちていくことのできる眠り、流れる空気の清麗さ。無防備でいられる安心、平和。それだ。
いずれ枯渇することを知りながらも、今は未来を考えず吸収していたい。藍の乳房の中にあふれている、暖かい、羊水に似た暖かさを秘めた透明な液体に。
僕は、千切れるほど強く荒々しく無作法になぶり続けたのだ。
苦悶する空気の振動が、僕の髪の毛を揺らしていた。
子供の頃、泣き虫の僕は、派手に転んで膝を擦りむいた。擦りむいた箇所からは血が滲み出し、土の色と混じって黒く変色していた。僕は、泣いた。あきれるほど大泣きした。それほど痛くないはずなのに、割れんばかりの大声で、泣いた。
母を呼ぶでもなく、先生を呼ぶでもなく、僕は藍を呼んだ。
真っ先に藍を呼んだ。
まもなく藍がスカートをはためかせて登場し、僕の膝を診療し、公園の隅っこに設置された水のみ場へ、連れて行く。
蛇口をひねると、滔々と冷水が流れ出した。
痛くない。
藍はそう言って僕の膝を冷水の軌道方向に差し出した。僕は顔を背け、痛みに備えた。不思議なことに僕の頭の中には恐怖心はなかった。形だけ痛みに備えていた。藍が来たときすでに、痛みを与える張本人は、捨て台詞をはいて逃げ去っていた。尻尾を巻いて逃げる苦痛の背中が、小さくなっていく。
藍に恐れをなして逃げていく。
僕は、自分の手柄のような面持ちで鼻を高く太陽にかざして威張った。藍は、僕の膝を心配そうに見下ろしている。
藍は、僕の体に全てを預けた。余すところなく晒した裸体を、僕の股間に乗せ、藍の肢体が上下する度、僕もそれに同調した。
僕の膨張し、硬くなったペニスは、まだ藍の中にあって、小刻みな痙攣を繰り返す。藍は、抜こうとしなかった。そのまま腰をスライドさせた。僕は、藍の臀部を持ち上げようとした。有らん限りの力を込めて、重力を無視して、引き離そうとした。
白濁した僕を吐き出す前に。僕は、全身に上り詰める快感の波状攻撃を身に受け、唸る。
極点は近い。
だめだ、と僕。
このまま、と藍。
この時交わした台詞は、僕と藍、互いにこの一言ずつ。
僕の下腹部がその力を解放した。僕は彼女の熱く細いひだの中に、僕の意思を込めた白色の液体を放った。
それは、宇宙に放たれた衛星のように彼女の宇宙を探索していた。
どこかにある美しい惑星を発見し、移住するために。
僕は、藍の中に僕の力全てを注ぎ込んだのだ。
ロケットのように飛ばされた意思は、今、巡っている。たとえ宇宙の果てにたどり着く途中で仲間たちが淘汰されても、全ての僕の意思は、死をも恐れぬ不屈の精神で惑星を探し続ける。
そこで生命を育むために。
藍は、僕に体を預けたまま、弛緩していった。体中の力が一気に抜け、僕に全体重を捧げる。僕も藍につぶされ、意気消沈してぐったりと、脱力をあらわにした。
僕たちは、吐き出した。
擦れあった。
触れ合った。
味わった。
藍は、小刻みに痙攣していた。膣が震えて、僕の陰茎を締め付けた。僕もゆっくりと心臓の音を伴って憔悴していた。
交接の余韻が、まだそこにはっきりと残っていた。ペニスが、萎縮していく。届きそうだった子宮から、徐々に遠ざかっていく。
惜別の挨拶をそこで交わしていた。宇宙飛行士のそれに似ていた。
藍が、ゆっくりと腰を上げる。包まれて知った暖かさが、寒さを知る。またそこに戻りたいと、僕は思った。そしてまた、藍は僕に寄り掛かった。今度は疲弊した体の密着だった。隙間なく接着され、離れなかった。挿入していないのに、まだ藍の中にいるような幻覚があった。
それだけ、強く印象的だった。
春美とは、こんな風に抱き合ったことはない。
春美とのセックスは、模索だった。
そこに何らかの意味を探し、答えを導く行為として僕は及んでいた。
僕は、春美の表情を見、動きを見、変化を見、声を聞き、匂いを嗅ぎ、体温を感じ、痛みを与え、反応を窺い、動悸を知り、そうして得た春美を、僕は記憶にとどめる。
絶頂は確かに快楽で満たされていた。しかし、僕は二人で向かい合った後、今のセックスについて、饒舌に語り合う。二人の反応の情報交換。自分なりの個性を重んじるようになった社会のように、僕と春美も自分らしさをそこに探す。
僕の前後運動には独特のリズムがある、とか、愛撫に順番があるとか、そういった類の。
僕らはそれを通して互いを知り合ったのだ。知ることは、原点回帰。本能を是認し、本能の理解を深める。僕らが、それをする動機付け。
愛についての知識。発見と、交換と、論駁。僕らは、そうして花を育ててきた。
僕と、春美のセックスは。
一方で、藍とのそれは、違っていた。発見や模索など、どこ吹く風。いかに感じあうか、それを追求していた。
言い換えれば、確認だ。一つ一つが、呼びかけ。そこにいる、という言葉が、僕が藍を突き抜こうとするたびに、陰部の隙間からまろび出た。アイデンティティ。それらをしっかりと自分に縛り付けるような交接だった。
頂点でそれは結実する。性的興奮の最高潮を感じた自分が、一瞬自我を失い、また舞い戻ってくる刹那に聞こえる、心臓の鼓動。
その発見が、今、自分が生きている証明であり、存在理由なのだ。
夏目春美と、宮沢藍。
僕はついに、そうして二人を両天秤にかけてしまったのだった。
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