第十九話・セックス
僕と藍は、黙然と、痛みが薄れるのを待った。
何年かぶりの肌と肌の激突にいまだ余韻が残る。
シートに腰をうずめ、フロントガラス越しの暗闇を二人で見つめていた。いまだに、オレンジ色の光が調子の外れた音を伴ってついたり消えたりを反復していた。三流声優の吹き替えのように、口の動きと、声が合致していない。僕はそれでも構わなかった。肝心なのはこの音だけなのだから。時を刻むあの振り子のように、時間がこの車内に流れているのを実感させてくれる。
だから、これはこれでよかった。
見ないうちに雪は僕の体を覆いつくしていた。顔だけが純白の中からぽっかりと顔を出している。魚の呼吸のように。口を水面に露出させて。
なぜ雪は降るのか。僕の上にだけ。こんなに多量に、連綿と。
僕は答えの尻尾が見つからないのを知りながら考えた。考えることに意味を見出したかった。
終わりのない旅。終幕のない劇。今は、そのモノローグ。僕は、こうして自問自答を繰り返さなければならない。
いつか来る終わりに向かって。
藍は、ゆっくりと僕に近づいた。スーツのスカートをまくり、足を広げられるようにした。スカートから生えた細い両足が、僕に積もった雪を溶かす。
ストッキングを通して、その温かさは、僕の皮膚へ、雪解け水を媒体に伝達された。藍は、僕に向かい合う形で跨る。
無表情で、僕と見詰め合い、口元で言葉を成した。
「支えてくれる?」
こんな切ない声は初めてだった。疲労を漏出させた、か細い声だった。語尾が震え、かすれていた。ラジオの電波が悪い地域のように、強弱の具合が乱調している。
藍は、左手で僕の首もとに自重を傾け、シートに押し付ける。さらに、右手でシートを倒すレバーを押した。僕の体がシートに張り付いたまま、自由落下して、一瞬の宇宙遊泳を味わった後に、地面へと強制着陸した。
藍は、そんな無様な僕を見下ろす。
僕の肩に両手を置き、鼻と鼻が触れ合う位置に顔を固定。藍の髪の毛が、僕の頬をくすぐる。僕と藍以外の視界を遮るように、藍の髪の毛は、僕と藍を直線でつないだ。
僕からは、藍の目の下にできてしまった小さなあざが、よく見えた。紫色に変色している。血が、そこで凝固している。流れるのを止めて、溢れ出している。血管を飛び出し、自由奔放に。
僕と藍の唇までの距離は、僕と藍の一線を越える限界点まで迫ってきた。
唇と唇の間に引かれた、まるで国境線のような明確な臨界点。
一歩を踏み出せばそこは、異国。僕の領域であって、藍の領域ではない、新境地。
もちろんその逆でもある。僕も藍の領域は、未踏の地であるのだから。
鮎野麻斗という大地は、ずっと、未開の土地だった。僕という民族の住む単一主義国家。僕の領域を踏み越え、本当の意味で帰化を果たしたものは、春美しかいなかった。異邦人である春美は、僕の中に新たな血筋を誕生させた。
それが今の僕であり、僕はこれからもその、血、を継承しなければならない。
一線を越える接吻の距離。
藍は、僕の領域に、進入するのを、ほんの少しの隙間を残して躊躇している。
淡い薄紅の唇が、わずかに開き、僕の上唇に触れようとする。その瞬間に、開いていたはずの唇が閉じられ、拒否するように少し引く。
藍の息が、僕の鼻にかかる。アルコールの匂いが、僕を酔わせる。紙一重のところまで接近しながらも、また引いた。
その繰り返しだった。
失うものの大きさと、手に入れるものの大きさを、天秤にかけているようだった。
まさしくその一方の皿に、親友、がかけられていることは自明の理だった。
僕は、目を閉じた。
そして、僕は春美のことを考えた。自分が置かれている状況を知りながらも、彼女のことを思わずにはいられなかった。僕は全身の筋肉の力を全て、時間の狭間にゆだねた。
風に流され、波に飲まれ、雪に降られ、僕は見えなくなる。激浪の波間に、ほんの少しだけ見える僕の身体は、なすすべなく死んでゆく海軍兵士のようだった。自国を愛し、天皇を愛し、家族を愛した、一人の男。己の心身を戦争に捧げ、もはや命の流動を諦観した孤独な兵士。僕も、その一人だ。
もう、僕の道はひとつしかない。
春美を愛しぬく道。
信じ続ける道。
振り返り、見送る春美を胸に秘め、目に焼き付け、僕は行く。
この行く先に待つ運命を見届けに。
僕は、ひたすら待った。心頭に込めた気持ちを最後に。時間の微風を肌で感じ、雪の積もる冷たさを受け止めて。
暗闇に落とした僕の思考回路は、まだ見ぬ果てに落ち続けている。落下している。
落ちているということ以外、はっきりしたことは不鮮明。ただひたすら、僕は落ちている。
ふと僕は、自分が座席に座っていることに気づく。そこは映画館で、僕の後方から、映写機の回る音が聞こえる。どこかで感じたことのある懐かしい部屋の匂い。ほこりの舞い飛ぶ、密室。心地よい座り心地が、僕の気持ちを寛容にさせる。これから始まる、映画への期待感で胸がいっぱいになる。
初めて映画を見たときのあの興奮と期待が、全身ににわかに立ち上がってきて、僕を少年時代に連れ戻す。ざわざわと会場がにわかに騒ぎ出す。熱気の竜巻が、僕の周りで全てを舞い上げ始める。座席の隙間という隙間から、人々の歓声が渦を巻く。混沌とした場内に、最後のブザーがなった。緞帳が左右に退き、スクリーン全面を長方形の光が照らす。息を飲む人々の喉のうねりが聞こえてきた。
藍は、僕に優しく口付けた。
藍が迷っていた長い時間が、もう僕の頭の中では、編集されてしまって、短い時間と成り果てた。
それから先は、もう迷いなどなかった。
藍、そして、僕も。
僕たちは、まるで発火装置だった。藍が火種で、僕が油。燃え上がるのは簡単だった。僕が、瞳を晒すと、そこには、汗ばんだ藍の鼻柱が映し出された。
懊悩の痕跡はどこにも見当たらなかった。
今は、夢中で何かを見つけようと、感じようとしている好奇心旺盛な女の姿だけを、僕の眼前にさらけ出していた。
荒波のような息遣いが、僕の唇周辺をもみくちゃにした。擦り切れるような、唇の、キスの応酬だった。
熱く、痛い、腫れるような、連続。
僕も、それに応じた。
キスを繰り返す傍ら、藍のスーツの上着を脱がした。藍はそれを知ってか、両手を空中に投げ、脱がせやすい体勢をとってくれた。
激しく荒々しい中にも、一連の動作が身についているところが、時間の流れを感じさせた。
中学生のころには、こんなことは微塵にも思考しなかっただろう事柄が、ここで生々しく行われている。
あのころは、言葉ですらも発しなかった。キスですらも卑猥に聞こえた。
女性のふくらはぎの細さ、腿の張り、乳房の弾力、腰の筋肉の滑らかな感触などは当然知らなかった。せいぜい、知っていたのは手を握る云々の公然としたことだけだったろう。
とは言え、これは僕自身のことなのだ。世の中の常識がどこにあったか、僕は知らない。
話を戻せば、結局のところ、生徒間では、誰と誰が付き合っているのか、と言う事実だけが重要で、それ以上のことは望んでいなかったのだ。
一番、純粋無垢な時期だった。
そしていつだったか、僕は異性を性的なオブジェクトとしか判断できなくなった時期があった。
行為そのものが先行して、順序や、過程を重んじなくなった。快楽だけを求めようとして、それ以外の精神的なことをおろそかにした。
付き合った人も、僕のそんな心情を知ってか知らずか、いつの間にか遠く離れていってしまった。
決定的な破局がいつ訪れたのかも分からないままの、自然な別れだった。
当時の僕は、女性という自分と同じ人間を、単純にオーガズムを与えてくれる器としてしか見ていなかったのかもしれない。その器に自分を入れれば、悦楽が得られる、と。
それは、春美を見失った一時期のことであり、僕が春美をあきらめかけた高校二年生の過失だった。
劇的な変化が、当時の僕に与えられたのは、もちろん春美というカンフル剤があってのことだ。
春美の笑顔の先にある、この行為の本質を思うと、僕は自己を戒告せずにはいられなかった。
僕はあの職員室での、古典の問題の解法を問うときの、春美の受け止めるような横顔と、僕のひらめきに対する喜びの目尻を見るたびに、快楽に頬をだらしなく歪める僕自身が、とてもいやらしい存在に思えてならなかった。
同級生の一人が、春美もそういうことを平気でやっているし、感じている、ということを男子生徒の輪の中心で豪語していたことがあった。
確かにそうかもしれない。事実、そうだった。
だが、それはある前提条件があってのことだ。僕は、据え膳食わねば男の恥、という諺の通り、言い方は悪辣だが、誰とでも交わった。
しかし春美は、この人となら、この人だからこそ、という感情の側面があった。そこだけが歴然としていた。その行為自体を取り上げたなら、それは淫乱なことかもしれないが、そこに感情という色が加わったなら、それは美麗なタッチで描き出す絵画のような芸術性を帯びた行為となりえるかもしれない。
僕は心の片隅で、そんなことを日々考えていた。
春美とのセックスには、それを探求する何かがあった。美しい側面を兼ね備えた、何かが。
藍は、僕の上着をむしりとるように引き剥がした。僕は幾何学的な模様の入ったワイシャツを着ていたのだが、力の入れすぎでボタンがはじけ飛んで、座席の隙間に入り込んでしまった。僕の胸が藍の眼下に現れる。雪が、じかに僕の胸板に落ちてくる。だが、雪はほんの一瞬で溶けてしまう。冷たさも、感じない。熱の薄膜が僕と藍を包容していた。
藍は、僕の肌に、迷路の中を走るように触れた。実感するように。藍は、そこで一呼吸入れる意味で、僕から上半身を上げた。僕と藍の角度がちょうど九十度。
藍は、僕を強い眼差しで見つめていた。
確認のようであって、決意のようであった。
ドアと座席の間に僕が脱がしたスーツの上着が押し詰められている。行為の乱暴さを裏付ける痕跡。
藍は、丁寧に水色のシャツのボタンをはずした。鷹揚に、滞りなく。薄暗闇で徐々にそれは開かれていく。肩にシャツをかけるようにまくり、後ろ手に脱ぎ去った。シャツの裏地が藍の後ろに消えていった。流れるように、ブラジャーのホックに手をかける。
だがそこで、藍の瞳はよりいっそう輝き、僕を捕らえる。
確認のようであって、決意のようであった。
後戻りが出来ないことを確認し、前進することの決意。
藍は、それを僕に求めたのだった。また、自分にも問い返したのだった。
僕は起き上がる。藍の肩先に、僕は額をあずけた。藍が背中に回したままの手を握ると、僕はホックを、藍の手を上から包んだ。
そこに沈黙が横たわる。
藍の鼓動を聞いた。遠くで鳴動する心臓の音。何かが生まれる音のような気がした。
僕はホックを外し、手を左右に離した。藍は、僕の首元を見下ろしながら、僕の意思に寄り掛かる。そして、上半身に纏うものをなくした藍は、拒否する原因をも、なくした。僕は胸と胸を合わせる鼓動の接着の間で、切なさと罪悪感の混同を覚え、重なり合わない二人の動悸に焦燥感を覚え、そして、ゆっくりと抱き合った。
シートの上で、揺れる二人。重力の勢いを利用して、より強く、より激しく行おうとする藍。遠く離れないように臀部を両手で押さえ、藍を突き抜くように腰を浮かす僕。倒されたシートに横たわり波打ちながら、僕は天井部分で表情を歪める藍を見つける。
豪雪となる雪を溶かし続ける二人の世界は真っ白で、雪原で肌色が重なり合っている情景に感慨を感じずにはいられなかった。
どこか、罪のある感慨だった。
この場に限っては、僕は藍を支えたかもしれない。
こうして二人は結合し、同じ享楽を味わい、同じ帰結点へ向かおうとしている。
ゆりかごとなった車と、二人の傍らを、別の車が走り抜けていく。横ぎるライトの光が、僕と藍をスキャンするように、通過した。
藍が声を押し殺すたびに現れる苦しい呻きが、方向指示器の音と重なっている。方向指示器の刻む拍節が、いつの間にか二人の間にわって入り、二人を先導する信号のようになっている。そのことにいささか僕は驚いた。内耳に入り込んだまま居座り、そこで音楽隊が演奏している。
僕はおろか、藍もそれに合わせ、ステップを踏んでいる。彼らの演奏する楽曲は、リズムだけのアカペラのよう。合唱とリズムだけで形成される、音楽。それが、僕と藍のイニシアチブを取っていた。
暗中で光が肉体の上を滑る。シートの上で僕らは、抱き合っている。座席が軋む音も、合唱に混じっている。
その時、僕は、運転席でハンドルの上で頬杖をしている春美を見た。
無表情だった。
二人の行為を眺めているだけだった。しばらく眺め、視線を逸らし、前方の、真夜中の路上を見た。
そして、僕が瞬きをすると同時に、消え去っていた。
僕の幻視は、そこで何を訴えようとしたのか。
極点で息が詰まった時、最後に揺れた藍の朱色のピアスを、僕は忘れない。
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