鎖状の楼閣(2/45)PDFで表示縦書き表示RDF


拘泥(こうでい)…こだわること。
鎖状の楼閣
作:NAO



第一話・拘泥


 彼女の髪が、風に揺れる。
 そして静寂は、沈黙を紡いだ。
 今、僕は病院にいて、今、僕は目の前のベッドに横たわっている人を見下ろしていて、今、僕は息を切らしている。
 高校で体育という形でしか運動をしていなかったからかもしれない。もともと体力、特に持久力には自信があった僕だが、大学に進学してから、ほとんど体を動かしていない。それもあるのかもしれないが、この場合は、動揺が、息を切らしている条件の大半を占めるだろう。
 僕は、憔悴した青白い顔の女性を見つめる。彼女の母に事の次第を聞いてはみたが、そう騒ぎ立てる病状ではないらしい。しかし、僕はそんなことは信じなかった。自分の目でしっかりと見据え、病状を、容態を判断したかったから。それまでは何と説明されようが信じる気は微塵もなかった。
「春美……」
 僕は、彼女の名前に憂慮を込めた。
 本来ならば、僕がここにいることはない。その『本来』で説明するならば、本来、僕は大学にいて、苦手な哲学の講義を受けているころだ。いや、今はもう終わってしまって、次の第二外国語の教室に移動しているところか。
 どこかで逸脱してしまった日常の軸。それは一本の電話からだった。
 僕は、大学の講義中だった。
 哲学の講義を受けていた。腑に落ちない単語ばかりが並べられていて、どうにも頭の平面図に理解という形で現れては来ない。理解できないと、授業はただの念仏に変わる。こう言ってしまっては、念仏を真剣に唱えている人に対して失礼だろうか。
 僕は眼下に広がっている参考書の文字列が、小さい蟻に見えて仕方がない。講師の声を頭に並べても、粗大ゴミとして扱われるばかりで、ゴミ箱ばかりが膨らんでいった。結局、満杯になったゴミ箱は、耳の穴から、外へと廃棄される。身軽になった頭は、やがて、手のひら、という杖の上に乗るのだった。
 頬杖が崩れたときに、僕はポケットに入った携帯電話が振動していることに気付く。
 着信。夏目春美。
 僕は、授業中の通話が禁止されていることを知っていた。あらためて言うまでもなく、大衆道徳の最低事項であり、なにより暗黙の了解である。僕が、こうして言い訳がましく解説していることでさえ、何かおかしい。
 春美から授業中に電話がかかってくることは珍しい。大衆道徳や、模範という項目には特にうるさい春美であったから、なおさらだった。
 迷わず通話ボタンを押すと、僕はすばやく机の下へ隠れた。ここは大講義室だ。僕が座っているのは、ほぼ最後尾である。俗に言う、やる気のない人間が、ここに陣取る。僕の他にも数名の友人が、そこに陣取って雑談を交わしていた。その一人が僕に気付き、顔を寄せ、耳をそばだてる。友人が、しきりに僕の通話の邪魔をしようと声をかけるので、僕は唇の前に人差し指をあてて、黙するように示唆した。次に僕は、携帯電話を持っていないほうの手を箒にして、友人をほこりでも払うように掃いてみせた。友人はにやりと笑って、傾けていた体を戻すのだった。
 僕の声は、声、というよりも息だった。
「もしもし」
 驚いたことに、受話器から聞こえた声は、春美本人ではなく、春美の母親だった。ひどく狼狽している様子が、電波ごしに伝わってきた。
「今すぐ、こっちへ来て頂戴。なるべく、急いで」
「それはいいですけど。なぜです」
「倒れ……倒れたの。急に。分からないのよ、急だったから。それで今、病院からかけているのだけれど……もうすぐ結果が出るらしいの……」
 電話の向こうで、誰かが呼ばれる事務的な声が聞こえる。それに時を合わせて、何者かの走る靴音が、僕の耳に不思議に響く。その激しい音の連続が、僕を不安の領域へ連れて行こうとする。滑車付の担架に乗せられた春美が、看護婦に引かれている。そんな物騒な想像が、携帯電話の内側で形作られる。
「とにかく、春美が、春美が……」
「な……!」
 僕は、自分で思うよりも大きな声を出していたらしい。僕の一声に、友人全員の好奇の目が、僕の顔に集中した。
「大学があるのは分かっているけれど、麻斗君がいないと、春美が今にも……今にも……」
「行きます。今すぐ、行きます」
 僕の頭の中にあった講義というシールは、もうすでに剥がされている。今貼られているのは、病院へ行く、春美のもとへ急ぐ、という緊急のシールだった。
「俺、行くわ」
 僕は通話を終了した後、感情のこもっていない声で、そう友人たちに告げた。友人たちは一様に頷き、早く行けよ、と尻を叩いてくれた。僕は、講義を放棄する代わりに、友人たちの優しさに触れた気がした。
 後ろの扉から堂々と出て行く僕を発見した講師は、拡張機で思いっきり拡大された声を、耳を劈くほど張り上げて、僕の背を焼く。それでも、行動に迷いのない僕の足取りは、さらに講師を憤慨させたようだった。僕は、我関せずと大講義室を出て行ったが、そこから聞こえてくる謗言の波動は、廊下までも振動させた。
「麻斗、講義無いなら、今から食事でもどう?」
 薄手で茶色のカットソーを着た藍が、廊下を出た僕の正面で微笑んでいた。何も知らない暢気な藍の声が、僕の耳に障る。こうして彼女が笑っている間にも、春美の身が危険に晒されているのだ、と邪推してしまう。その考えが何も知らない藍にとっては不条理であっても、僕は苛立ってしまう。
「こっちは、それどころじゃない」
 僕は、食事に誘うにしては微妙な笑顔を届ける藍の肩を、乱暴に横に押しやって、先に進もうとする。僕の焦慮と苛立ちに、気になる匂いを嗅ぎ取ったのか、藍は鋭い指摘をする。
「待って。何かあったんでしょう? それも、重大なこと」
 僕は、焦る頭を必死に回転させ、自分勝手だが、それ以外の手段が無いことに気付く。
「言ってみて、私に何か出来るなら……」
 きっと藍ならばそう言うと分かっていたから。
 一旦、藍に向けた背中を、反転させて、僕は藍と真正面から向き合う。藍の表情は必要以上の慈愛に染められていた。
 僕は、それを利用することを思いついたのだった。
「乗せていって欲しい所がある」
 僕は、そうして病院に向かったのだった。藍の軽自動車の車内では、僕は無言だった。表情もきっと石像のように硬かっただろう。だが僕は、表情では作れない内心の苛立ちで、ほとほと煮えきっていた。加熱した鉄板のように熱く、それでいて、僕に触れるものを火傷させてしまうような、寄せ付けない熱さ。藍は、僕の沈黙の機微にそれを感じ取ったのか、話し合わせたように、無言の平行線を描いた。
 信号が、これほど僕に味方してくれないものとは思わなかった。
 車は思ったほど早くは進まず、はやる気持ちだけが赤信号を無視して病院へ直行していた。車の流れもそうだ。慢性的に渋滞しているわけでもない車道なのに、その日に限って事故がある。決まって、衝突事故。運転手が外に出て、警官と何か話し合っている。一台は高級車で、もう一台は軽乗用車。高級車の背中に、玉突き事故。おそらく、軽乗用車のよそ見運転が原因だろう。もし、この事故が原因で、病院に遅れ、春美の安否が左右されているとしたら、あの運転手はその責任を取ってくれるのだろうか。あの憎き赤い信号も、割り込み運転をする運転手も、律儀に規定速度を守る初心者運転手も、速度の遅いトラックの運転手も、暴走する改造車の運転手も、僕の邪魔をする全ての人、物も、その責任を取ってくれるのだろうか。
 病院の駐車場に入る時間を惜しんで、僕は助手席を飛び出した。藍の視線を感じたが、僕は気にしなかった。春美の容態が心配で、気が気でなかったからだ。
「ああ……麻斗君、来てくれたんだね……」
 春美の母が、僕を見て泣き出しそうになっていた。僕の心臓が、胸骨という檻の中で、猛獣のように猛り狂う。
「春美は……?」
 目尻に浮かぶ水の玉を指で拭うと、春美の母は呼吸を整えた。言葉をつむぐ準備をしているようだった。事の原因から、帰結まで、乱雑に書きなぐられた走り書きを順序通りに並べ替えて、分かりやすく説明しようと思案している。そんな苦悩が、皴になって眉間に刻まれる。
「春美は……職員室で急に倒れたって、連絡があったの。私が病院についたころにはもうあの状態で……」
 あの状態。
 春美の母が言うあの状態。
 僕はそれがあまりにも曖昧な言葉ゆえに、二の句を告げなかった。不安がそれを告げさせなかったと言ってもいい。
 こうして会話している間にも、目じりに光る大粒。僕はそれを春美の安否の裏付にはならないと悟った。見知らぬ人の名前が、僕の耳に飛び込んでくる。ここでは、まるで別の世界のように遠くに、そして無縁のように、寂しくこだました。
「それで、春美は?」
 彼女は恐る恐るといった感じで、ある病室を指差した。
「春美の病状を、知らされているんですか」
「……た、ただの過労だって。は、春美も春美よね、いつも生徒のことばっかりで、自分のことは二の次なんだから。だから、体にきたのよ」
 不器用に頬の筋肉を動かした。笑みを浮かべようとしたらしいが、それは不気味なだけで、僕を安心に導くことは出来なかった。その動作が気になって、春美の母から少し離れた場所に立っていた医者に視線を向けたが、医者は僕と目が合うとすぐさま目をそらした。
 僕はドアに近寄る。視界の隅に偶然入った春美の母は、気分が悪そうに白壁に額を押し付けて、寄り掛かっていた。心身ともに疲労困憊といった感じだった。
 僕は病人を気遣うようにドアを押し開けた。
「春美」
 春美は、天井を見据えていた。天井のただ一点を。完璧に一点に焦点を合わせ、まるで虫眼鏡を通した太陽光線のように、そこを焦がすほどに、見据えていた。
 僕の存在に気がついたのか、春美の眼球が動く。眼球だけを動かし、僕に焦点を定めた。
 僕は作り笑いをした。安心させようと思ったからかもしれない。
 だが、僕のそれも春美の母同様、失敗に終っていた。硬直した頬の筋肉が、思うような伸縮を遂げてはくれなかった。僕は、そんな自分の演技力を呪う。
 僕は、春美のベッドの脇に椅子を持ってきて、座った。足の部分が錆付いた椅子で、僕の体重を支えると、椅子は痛そうに軋んだ。
「春美……」
 彼女の名前に憂慮を込めた。
 春美は、僕の瞳を凝視したまま、決して視線をそらそうとはしなかった。強靭な力が込められた眼光に、僕はたじろぐ。気圧された、とも言い換えられた。部屋は、引っ越してきたばかりのように、がらんどうとしている。まるで待っていたかのように、後から深々とした沈黙が降ってきた。
「麻斗」
 春美が僕に反応を示したのは、数十秒経過してからだった。
 僕はしっかりとしたその声に、やっと安堵の息をベッドに零した。どうやら春美は、意識もはっきりしていて、言葉も話せるようだった。大袈裟すぎる春美の母親に、今の彼女の言葉を聞かせてやりたいくらいだった。僕の頬も無事に正常に動き出し、今度こそ本当の笑顔を作ることが出来た。やはり、僕にとって春美は、誰よりも、どんなものよりも必要不可欠なものだった。確信した。この声を必要とする一日が、太陽のように輝いている。
「あまり心配させないでくれ。こんなことが何度も続くと、出席日数が足りなくなって、単位を落としてしまうよ」
 僕はおどけたふりをして、そう言った。だが、僕の他愛もない冗談に、春美は返事をしなかった。表情の変化すらなかった。僕の声は喉仏の張り具合からも分かるように、低音で聞き取りにくいこともあり、友人から聞き返されることもしばしばだった。だが、今の冗談が聞こえなかった、というのは、にわかには信じられなかった。
 春美は、今の冗談が存在すらしなかったように、小さな口をあけた。謎掛けの様な、奇妙な言葉だった。
「麻斗……私は……麻斗に愛してもらえて……幸せ。でも、私に拘泥しては駄目」
 先刻の言葉よりもしっかりとした言葉の張りに、僕は春美の健康状態を安定の域にまで高めるとともに、退院した後の予定までも脳の末端で考え始めるのだった。
 だが、その考えが、末端、で止まったのは、その謎掛けに似た言葉が投じた石――意思――が、僕の心に波紋を作ったからだった。
 春美は、そんな僕の疑問をよそに、ただ僕の目を必死に見つめるのだった。

 事実、このすぐ後に、春美は病院を後にする。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。この小説はリアルタイムで書いたものではなく、大学に入学したての頃に書いたものです。当時のありのままの自分を描いた小説です。それ故に身勝手で、理解不能な文書上あることを深くお詫び申し上げます。評価、感想、栄養になります。











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