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鎖状の楼閣
作:NAO



第十八話・鎖状の楼閣


 僕はその日。
 国道を狂人のように走り回った夜。雪が、僕の上に降った夜。静まり返った、車内で。
 

 方向指示器の音が、耳にこびりついている。離れない。メトロノームのように、一定のリズムで刻み続けられる、音。ライトの点灯のスピードとはリズムが合わない。ライトよりも、かちかちと刻まれる音のほうが、少しだけテンポが速い。時々リズムが重なっては、また離れていき、また重なっては、離れていく。周回遅れ。だが、途中からそれを見たなら、どちらも競い合っているようにしか見えないだろう。
 耳孔の奥で、ライトの点滅の音と、藍の息遣いの音と、僕の息遣いの音と、霏々として降る雪の音が、反響してひとつに収束する。
 収斂された音の渦が僕達二人を、包み込んだ。
 藍は、決して涙を見せない、強い親友だった。
 だが、女だった。
 これは、関係ないのだろうか。異性という概念は、親友という範囲に介在してもいいのだろうか。同性にしか、親友は存在しないのだろうか。
 少なくとも、僕と藍においては、それが成立していたのだ。別に、男女差別を謳うわけではない。僕は、親友を問いたいのだ。
 異性。それは、異なっている証拠。そこには、例外を除いて、ある感情が芽生えうる。それは肉体を重ねあう行為の起端ともなりえ、親友という概念を根本的に覆す序論ともなりえる。
 本来、親友とは、発展の見込みのない間柄にだけ刻まれる関係だと、恋愛の位置関係にないもの同士にだけなりうる関係であると、僕は思っていた。
 男と女、異なっている部位があり、それがどう結びつくかを考えれば、決して親友のままでいられると言い切ることは出来ないのに、僕は、思い込んでいたのだった。
 藍に対してそんな感情などは決してなかった、といったら嘘になる。親友であることだけは確かだった。
 だが、僕と藍が手をつないで学校に行くことがなくなってから、身体測定で男女区別されるようになってから、体育の授業で更衣室を男女間で区別するようになってから、体の違いを如実に感じ取るようになってから、肉体的に丸みを帯び始めたころから、僕は藍に対して、異なっていると意識し始めた。
 親友という固定観念はあったものの、夏用の薄手の制服から透ける、ブラジャーのホックが、僕には親友の枠を外すものとして目に焼きついた。一枚一枚のフィルムに、しっかりと。
 目を逸らそうとすればするほど、視界の片隅に捉えてしまっていた。
 僕は、一度だけ、藍の下着姿を見てしまったことがあった。
 僕が藍の部屋に忘れ物をし、それを取りに戻った夜。
 ドアを開けると、肌色に白をまとっただけの藍がいた。とっさに僕はドアを閉めて、ドア越しに謝罪した。僕は、ドア向かいで、一瞬の映像を脳裏に描写した。輪郭を描き、色彩を、濃淡を付けた。そのときに初めて、はっきりと悟ったのかもしれない。
 僕と、藍には、違っているところがあると。
 僕には今の映像を思い返してしまう、本能的な部分があった。膨張する局部があった。
 これが意味することは一つ。
 欲望の魔手が藍にも矛先を向けうる可能性があるということだった。
 僕と藍は、親友である。これは事実だ。だが、同性にはない、一線がある。それは、男と女を識別する一線と同じで、本能に大別される、とても脆弱な一線だった。
 僕と春美は、親友ではない。
 だが、僕と藍は親友だった。
 この、ほんの一瞬までは。
 支える。
 僕の口はそう綴った。
 雪は、止まない。天から、ひっきりなしに降っている。どこから、降っている雪なのか。どの雲が降らせているのか。
 夏、時々、雪。
 そんな天気予報が、僕だけに告げた。天気図には、明らかに、寒冷前線があります、と。雪が降るでしょう、と。
 夏、時々、雪……ところによっては……
 愛。
「ありがとう」
 僕の後頭部が、窓ガラスに打ち付けられる。
 藍は、僕を殴りつけた。
 鈍い音、雪の下。僕の頬が、悲鳴を上げる。
 痛覚が、ここぞとばかりに僕を攻め立てた。
 イタイ、イタイ、イタイ。
 そう悲鳴を上げている。まるで狂騒だ。
 黙れ、うるさい。
 僕は、長方形の狭い空間に緊縛されている。同じ音楽を繰り返し、繰り返し、聴かされる。ただの騒音に最初は聞こえた。だが、同じフレーズが繰り返されていることに気づく。喧騒の奥深くに隠された旋律。延々と繰り返される。いったいそれは何か。僕は暗闇で耳を潜める。反響する雑音を取り払い、ただ一点だけを聞くために、持てる神経を研ぎ澄ます。
 一線が、美しい一条の光が有象無象の中にある。
 これは、叫び声だ。
 女の叫び声。悲鳴、嬌声、歓喜。どれでもない、ただの叫び、繰り返される叫び。幾度となく繰り返される叫び。
 うるさい。
 僕の脳味噌を共振させる。これ以上聞くと、どこか僕の体内に張り巡らされた糸が千切れそうだ。
 僕の頭が、狂う。
 僕は、藍を思いっきり殴った。
 藍は、ドアに頭を打ちつけた。
 肺が歪み、口から吹く呻きの風が、僕の前髪を揺すった。藍が起き上がろうとする。力強くハンドルを握り締め、再び僕と向き直ろうとする。
 僕は、起き上がってきたところを今度はさっきよりも強く殴った。骨から骨へ、リアルに伝わる刺激の波が、僕の体を突き抜ける。
 何かが潰れた。醜い蛙のように。タイヤに踏まれて紙のように薄くすり潰されたミミズのように。
 藍は、泣かなかった。
 僕は、藍を傷付ける事なんて出来るのだろうか。
 こうやって、殴りつけても、肉体的に傷付く事はあっても、精神的には傷付ことは無いだろう。
 僕と藍は、一年に一度だけ成長の途中で、決まったように殴りあった。
 軋轢がなくとも、ぶつかった。ぶつけ合った。お互いをぶつけ合った。
 傷口から、紅蓮の炎が吹き上がり、二人の気勢を促成させる。
 成長だ。
 僕と、藍の行為は成長だ。皮膚は内出血を起こし紫色に腫れ上がり、唇は切れ、口内に鉄の味が広がっていく。
 切磋琢磨、と言えば聞こえはいい。
 しかし、これは両者にとってはお互いの成長を肯定するための、必然的な争いなのだ。僕は、時にその争いに敗北し、時には勝利した。
 だが、成長の速度から、おのずと敗戦がかさんでいった。僕は、負け越していた。理想の姉弟と、人から言われた二人の、隠された一面。儀式的な一面。
 僕と藍は、好敵手であり、親友であり、理解者であり、忌むべき者である。そこにはほぼ全てがあるし、ただ一つだけがない。
 僕は、それを知っていたし、欲してもいた。
 種を蒔けない、荒廃した荒地。
 戦争一過のような場所には、芽生えることがない。ある場所だけには、そこにはない、肥沃な大地があった。
 僕は、そこに種を蒔いた。水をやり、日々見守り、大事に育てた。
 もちろん、藍には内緒で。
 やがてそこには、萌芽の季節が訪れる。双葉が、台地から顔を出し、僕に微笑みかけた。僕は、清流から汲んできた新鮮な水をその笑顔の上から、たっぷりと注いだ。笑顔の上に、一滴。僕の微笑む顔が丸く歪んで映っていた。幸せそうな顔だった。曙光を見出し、平和を求めた。その大地を戦火に包まれぬよう。
 僕は、藍から離れた。
 開花の時期は、まもなく訪れた。美しい花が、青い花が咲いた。僕は開くことなく、見つめ続けた。日々成長を観察し、日記に書き記す。夏休みの自由課題のように一定の期間だけではない、長い期間。長い、長い期間。僕は、共生していく。生きていくのだ。今もまだ、ここに咲いている。
 僕は、その花を、腰を据えて見下ろしていた。両足を抱え、隣に座って。成長していく花の背丈は、僕ほどにまでなった。ある季節が、訪れた。心なしか、暖かい季節。風に彩りのある季節。
 僕は、その花の周りに、柵を作った。摘み取られないように、柵を作った。それは、強固で、不可侵の障壁のような柵だった。僕はただ一人その中に入って、花を愛でていた。しばらくして僕は、その一輪の花を通りかかった一人の女性を見つける。その瞬間、僕の花は花粉を発し始めた。女性の後を追うように花粉は舞い上がった。
 僕は、女性に話しかける。
 そのときから僕と女性は一緒にいる時間が多くなった。花は、とても喜んでいるようだった。
 僕もうれしかった。
 僕とその女性は、ますます閉塞的になってゆく柵の中で、一輪の可憐な花を育てていた。
 藍の存在を、柵の外に置き去りにして。
 僕とその女性は、花を媒介としてしだいに親交を深めていった。結局、親友という関係にはならなかった。恋人となった僕とその女性は、一生涯この花を育て続けることを約束したのだった。僕とその女性は、お互いが離れぬよう、花から伸びるつるでお互いの腕と腕とを絡ませあった。
 身動きは困難だったが、それでもよかった。
 僕は、柵を取り払い、そこに家を立てることにした。家といっても頑丈で、どんな戦火にも崩れぬ、難攻不落の城だった。
 もちろん藍にもその城は攻略できず、ただ爪を噛んで見上げるだけであった。
 僕とその女性は、そんな城の中にあってもお互いが離れぬよう、今度はつるの上から硬い鎖で結びつけた。どんな力をもってしても、解けぬ鎖で。
 僕は、そんな鎖の重みを忘れ、糸を紡ぎあった。出来上がった織物は輝きに満ちていた。そして、それを花にそっと被せた。
 僕とその女性は、城の中に二人だけの重層の建物を作った。もちろん花も一緒に。そこには、採光窓があり、昼は太陽光、夜は月光が差し込んだ。神聖な斜線が、花の上に降り注いでいた。ますます輝きを増す花に、僕とその女性は、静かな満足感を覚える。昔に起こった戦場の硝煙の匂いを、僕は忘れかけていた。
 悲劇は突然だった。
 僕は、悲しんだ。今まで花に与えた水と同じぐらいの水が、花から漏れ出した。地盤は緩み、土壌は不安定になった。やがて足元から崩れ始め、二人と一輪のための高殿や、外敵から守る城はまもなく地盤から崩壊した。後には、瓦礫だけが残った。花は、どこかに埋もれてしまって見えない。探したけれど、見つからなかった。
 一面に瓦礫の刺々しい風景。地獄を思わせるような禍々しい風景だった。
 僕の腕には、千切れてしまった鎖と、花から伸びていたつるが巻きついて、決して離れようとはしなかった。
 僕も、決して離そうとしなかった。
 そこは光すら射さない不毛の土地となった。僕はそこに呆然と佇み、絶望の余韻にどこまでも浸っていた。いや、浸ってはいなかった。浸ったのはほんの一瞬だけで、その瓦礫の上から、新しい高殿を建て始めたのだ。幻想の花と、大切な女性を目の前に想像しながら。
 僕は、また戻れると思った。あの幸せな時に。
 そうして出来上がった楼閣は、千切れた鎖に支えられた、一見すると、立派で瀟洒な、鎖状の建物だった。僕は、またそこに腰を据える。だが、そんな見かけだけの楼閣では、再度大挙して進攻してきた藍には、勝てるはずもなかった。勝つのはおろか、耐えることすら出来なかった。もろくも崩れ去った楼閣。僕は、また現実に絶望し、幻想も藍に追放された。そんな絶望の淵に立たされた僕に、勝者のはずの藍は、断罪もなく、寄り添った。
 温もりと優しさの込められた手だった。
 急に流れ込んできて、僕にはそれが、この瓦礫になる前の全ての出来事を、否定されるように感じた。虚偽の幸せであったと、認めさせられるような気がしてならなかった。
 しかし、その刹那。
 鎖状の楼閣が崩壊した後の、瓦礫の最果てに、新たな樹木が芽吹いた。
 それはまだ小さな弱々しい芽であったが、瓦礫の隙間からこっそりと臆病な首を出して、少しでも陽を浴びようと努力を重ねる、健気な花だった。












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