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鎖状の楼閣
作:NAO



第十七話・重なる言葉


「優しくない」
 彼女は口を開く。取れてしまった口紅は、カクテルグラスの縁に付着しているはずだ。
「優しくない。優しくない」
 車の中に、同じ調子で意思が放たれ、ハンドルや、シート、窓ガラスや、ボンネットに反響して、僕の耳に他方向から突き刺さった。
「優しくない優しくない優しくない優しくない優しくない優しくない優しくない優しくない――」
 藍の激しい慟哭は、僕の胸から入り込み、僕の体のどこかにある、ココロ、に直に届いた。
 ヤサシクナイ。
 言葉は一言の積み重ねだった。まるで雪のように、冷たく、降り積もれば降り積もるほど重みの増す、時には、人をその重量で殺すことさえ出来るほどの、凍える言葉の連射だった。
 車内に、冷たく白い雪が降る。僕の肩に積もり、足、頭に降り積もる。
 降雪。
 決して溶けない、とても冷たい牡丹雪。
 大きな雪片が、まるで花弁のように降ることからそう命名されたその雪は、藍の言葉を表すにはあまりにも似ていて、僕は鳥肌が立った。
「優しくしてよ……」
 下を向く。パーキングに入れられたギアが、今はもう動かずに、ただひたすらドライブに入れられるのを待っている。僕の肩の上には、もうだいぶ重くなった雪が、山積していた。
「最低よ。麻斗は最低。自分ひとりでは何も出来ないくせに。誰かに支えられていないと、生きていけないくせに」
 ピアスが細い髪の間から、覗いていた。輝きというよりは、陰りが見えた気がした。際立っていた輝きも、この闇と闇の間では、ただの石の塊に過ぎなかった。柳のように垂れる藍の髪の毛が、闇に溶け始めていた。毛先がよく見えない。瞳の色も窺えないが、それは意図してのことかもしれない。
 髪と髪のわずかな隙間から、暗闇に飲み込まれそうな藍の肌が、頬が、額が、鮮明に映る。
 まるで幽霊のように白く、血の気がない。少なくとも僕にはそう思えた。
 それだけ藍には、いつもの覇気や自尊心がなかったし、自国の敗北に落胆絶望した、愛国兵士のようだった。
 肩が落ち、背が曲がり、全身でその絶望の程度を表している。
 僕は、動かしかけたその手を、慌てて引っ込めた。
「もう嫌。麻斗の指針には、指標にはもうなれない。分からないでしょう。この気持ちが、心が」
 僕は肩にずしりと感じる積雪の重量感に、今にも身も心も押しつぶされそうになった。
 しかも、それだけではない。
 こうして身動きせずに雪に降られている間にも、極寒の雪は僕の体に深々と染み込んできて、心から凍えさせる。
 ――この地方は雪が降らないと思っていたけれど。
 彼方から、春美の声が幻聴のように、エコー気味に頭蓋骨の奥からよみがえってきた。
 季節は、冬。
 僕と春美が迎えた初めての冬。正月。元旦。道路は閑散。暖かいベッド。窓の向こうで舞い落ちる、雪の結晶。どんよりと曇った雲の手前、窓の外。
 そこでは雲よりもはるかに白い、それこそ純白といえる、世にも美しい現象が起こっていた。
 ――私が生まれた場所では、雪は降らなかったわ。一年中。初めて。こんなに白いものを見るのは。ねえ、窓を開けましょうよ。
 僕は、首を横に振った。
 寒いよ、そう言った。
 だが、彼女はかまわずベッドからシーツを纏って這い出すと、まっすぐスライドガラスへ向かい、鍵をはずし、
 ――わが園に、梅の花散る、ひさかたの、天より雪の、流れくるかも……万葉集。
 そう流麗に語り、にっこりと微笑んだ。
 雪と春美の微笑が重なって、眩しかった。だから僕は目を細めた。
 本当に、眩しかった。本当に、美しかった。本当に、本当に。
 藍は、両手をシートに押し付けて、振り絞るように声を出している。
「あんなに小さいころから、私は麻斗の手を引いていた。私は引かなければならないと思った。私が行く先を先導して、麻斗がその後を追いかけてくる。私は時々振り返っては、安堵する。良かった、そして、頑張ろうって。頑張って、麻斗を支えてゆこうって。胸を張って生きていた。みんなみんな、私がお姉さんだって、優秀な、才色兼備の面倒見の良い、幼馴染だって、そう言って誉めてくれた。でも、そんなことは、実はどうでもよかったの。誉められるためにそうしたんじゃないから……」
 ――見て、ほら。
 春美は、ベランダで曇天に両手をかざして、嬉しそうに舞い降りる白い天使を、その手でやさしく受け止めていた。
 別人のようにはしゃぐ春美がそこにあった。どこか教師という職業柄、いつも毅然としていた春美が、この時ばかりは違っていた。
 無邪気な少女に戻ったよう。
 僕は春美の纏うシーツの白にも目が眩んだ。大きな照る照る坊主だ、といったら眉をしかめるだろうか。
 白。
 そればかりが目に飛び込んでくる。繊細で、寂しい配色。どんな色にでも、触れたら染められてしまう、危なげな色。潔白。
 僕も毛布に包まって春美のそばへ歩く。ひんやりと冷たい外気の鼓動が僕の肌の手前で高鳴っている。ほんのりと暖まっていた僕の体からは、冷気に侵食されて行き場を失った暖気が、悲鳴を上げてどこかに遁走していった。
 ――見て、ほら。
 本当に子供のよう。僕に雪のなれ果てである、ただの冷たい水を差し出して、告げる。まもなく、愁眉に模様替えし、渋い表情になってしまったが。
 強く凍える風が二人の間を楽しそうに駆けていった。踊るように、くるくると回転しながら。
 ――ねえ……
 僕は振り向いた春美を迷わず抱きしめていた。
 彼女はシーツ、僕は毛布。
 二つの色が溶け合った。
 彼女のシーツはよく見るとあちこちに雪の欠片、もしくは、溶けて水になった液体がしみこんで灰色の斑点になっていた。
 ――雪が見えない。
 春美はそう言いながらも、僕の胸に、顔をうずめてきた。春美の髪飾りである雪が、僕の素肌には冷たかったが、まもなく二人の体温で溶けた。僕は、毛布を広げ、春美を包み込む。春美が僕の胸に滑らかで繊細な背中を押し付けるように、僕と同じ方向を向いた。触れ合い、密着した肌は、寒さに震えていた。僕の顎のすぐ下に春美の頭。どこか滑稽な照る照る坊主だった。
 二人は、町を見下ろした。
 二人はこの矮小な町に落下する、幾億という神様の白いプレゼントを、マンションのベランダから眺望している。世界が無垢に染められていくようだった。世界を白紙に戻し、浄化するようだった。
 ――麻斗。
 急に振り向いた春美の頭が僕の顎に激突する。歯と歯がぶつかり合う嫌な音がして、頭にキーンという音が上ってきた。光の走った視界を埋める白い景色。
 僕の痛みは、顎の辺りから伝染、熱くなる。
 ――ごめん。でもこれだけは、聞いてほしいの。これから、私と君が、いつまでもやっていけるように。
 春美は、今度は僕の顎に気をつけるように丁寧に振り向く。照る照る坊主の頭だけが、まるで機械仕掛けのように滑らかに反転する。
 春美から発せられる言葉を待つ時間の合間に、僕は色々、熟考した。
 いつか、今ではない、いつか、春美がこの雪のように、突然、僕の前から消えてなくなってしまうのではないか、と。
 触れていたのに、見えなくなってしまう。実感していたのに、感じなくなってしまう、その瞬間がいつか訪れるのではないか。
 前触れもなく、予兆もなく、予告もなく、予感もなく。いとおしいのに、いとおしいからこそ、何かが悲劇を期待する。
 幸せの隣り合わせになっているのは不幸だと、誰もが知っている。
 僕が振り向いたらそこには不幸がいくつも転がっている。足の踏み場もないくらいに。
 僕の瞳は、感傷の光を吸収し、春美のシーツのように湿気を帯びる。
 未来にあるかもしれない悲劇は、誰にでも訪れる。
 今ではない、いつか。
 ここではない、どこか。
 僕ではない、誰か。
 そのどれかひとつを選択して。
 春美の肌は、依然冷たく、雪片のようだった。
 藍は、その湿った双眸で僕を注視した。
「それでも、私はいいと思っていた。どうしてこんな私になったのか。なぜ麻斗の先導者となろうとしたか、なんて分からなかった。きっと、きっかけは些細なことだと思う。頼られることで、自分が必要とされることで満足感を得たかったのかもしれない。でもそれが、私の人生を好転させたのは言うまでもないわ。中学では、成績だって上位だったし、運動だって、素行だって……。ねえ、麻斗。いいお姉さんだったでしょう。立派だったでしょう。ちゃんと支えてあげられたでしょう」
 ついには、懇願するような目に変わってしまった。
 僕は、春美の残像も消えぬまま、半ば虚ろ気味に浮遊している藍の疲弊しきった瞳を、否、瞳の前方に漂う雪の幻想を見つめていた。
「そして、高校」
 シートをかきむしる藍の爪は、シートに深く傷をつくった。雪がそこに滲んでいく。握り締めたこぶしには、強大な握力。中には、何が握られているのか。
 過去か、憎悪か。いずれにせよ、それは藍にとって不幸の対象に他ならない。
「麻斗は、私という支えを捨て、春美を支えとした……」
 ―――聞いて……
「支えていたものが、支えるものを失ったら、どうなると思う。倒れてしまうのよ。私は、倒れたまま。支えてくれるものは、いない。なのに麻斗は、春美という最高の支えを見つけて寄り掛かっていた。依存していた。だから今、そうやって支えを失って、よろよろして、生ける屍のように彷徨っているし、日々春美を思い出して寄り掛かろうとしている。最低よ。私はどうなるの。あなたを支え続けてきた私は、どうなるの。私だって、弱いし、強がりだけど、心細くもなるし、先導してはいたけど、人間なの。支えられなくなって倒れてしまっている一人の人間なのよ。気づいてしまってからでは遅すぎる……一人ではうまくやっていけないの、一人では耐えられないの……」
 藍は、僕の袖を強く引っ張った。服が破れそうなくらいに。
「……麻斗今度は――」
 ――二人でやっていくということは、一種の共同作業みたいなものだと思う。片方が、仕事をしていたらもう片方が家事とか。そういうような。私は、今仕事をしていて、麻斗は大学生だけれど……。
 藍の瞳の中に、僕の瞳が映り、藍の瞳の中の、僕の瞳には、藍の瞳が映り……無限後退が現れる。
 吸い込まれそうな、映像で見るブラックホールのような、底の見えない深い穴。僕はそこに落ちていく。宇宙の果てにたどり着くまで。
 ――私には、一人で麻斗を支えていく力はない。もちろん絶対というわけではないかもしれないけれど、でも、おそらくは半分ぐらいしか支えられない。
 半分、僕は聞き返した。頭上では、疑問符が雪と体を寄せ合っていた。チークダンスを踊っていた。
 ――そう半分。そして、もう半分は麻斗が、私を支えるの。これで、私たちは、きっとうまくやっていける。私がどんな人間であろうと、君がどんな人間であろうと、お互いがお互いを支えあえば、倒れたときのことを考え、思いやることができる。優しくなれる。同情ではない、本当の優しさ。私自身がそう考えているから、私は麻斗を精一杯支える。そうして、生きていく。だから……。
 春美の唇が開かれる。
 藍の唇が開かれる。

『私を支えて』

 二人の唇が、言葉が、心が、重なっていた。
 僕は、首肯する。
 ただ、それは、どちらに対する肯定なのか、僕自身にも分からなかった。
 あのときの雪が、今も僕の頭上に降り積もっている。
 降り止む気配は、一向にない。












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