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鎖状の楼閣
作:NAO



第十六話・夜の町を走る車


 藍の履くハイヒールがコンクリートに当たる。
 その音が時計の刻まれる音に聞こえる。僕は藍に一方的に引っ張られていた。
 今、あのサラリーマンが僕たち二人を見たらどう思うだろうか。おそらくはこう思うだろう。
 僕が年下で、藍が年上のでこぼこカップル、と。
 服装もその理由のひとつだが、根本的な理由は、僕と藍のまとう風の違いだ。
 
 昔からそうだった。
 
 はっきり言えば、僕は藍よりも精神的にも肉体的にも成長が遅かった。いつも藍は僕の手を引っ張って歩いていた。
 僕が鼻血を出すと、拭ってくれたし、転倒すれば、優しく手を差し伸べてくれた。高所にあるものは取ってくれ、泣いていれば慰め、いじめられていれば、僕の前で仁王立ちした。
 ヒーローだったのだ。僕専用のヒーロー。僕が困っていればいつでもどこからでも駆けつけてくれる。
 そんなだったから、親戚一同は、僕達二人を、理想の姉弟と、賛辞を送った。
 年齢は同じだったのにもかかわらず。
 僕はいつも彼女を見上げ、羨ましがっていた。
 僕の成長期は、数段遅れていたのだ。
 ちょうどこんな風に、僕は彼女の後ろを歩いていたのだ。ちょうど、こんな風に。
 僕には、見えない大きな壁があった。それは春美と出会うまでのことであり、まるでベルリンのそれのようであった。僕は壁によじ登ろうとしていた。足場が無く、所々に欠けたレンガを利用して、登攀するしかなかった。爪がはがれ、血が滲む。遥か頭上に見えるレンガの頂上では、異属の人々が僕を引っ張り上げようと手を伸ばしてきた。歓声を上げ、励ました。
 ここまでおいで、もう少しだ。
 彼らはそう言った。しかし、僕は同属の人々に罵声を浴び、投石を身に受け、足を掴まれ、引き摺り下ろされた。
 僕の心が旧態依然を望んだからだ。いつまでもこのままでいいと。
 僕は結局、見果てぬ壁の向こうへ、意識と羨望を傾けながらも、決して登ろうとはしなかった。
 しかし、脆くもその望みは潰えた。壁を反対側から突き破る、革命の咆哮が聞こえたのだ。
 ――はじめまして、古典担当教員の夏目春美と申します。
 僕の出会いだった。運命的な、それでいて、情熱的な。
「着いた」
 僕は藍に任せて歩いていたせいか、ここがいったいどこであるか分からなくなっていた。どこかの駐車場であることは確かだった。
 藍は、自分の車のキーを取り出し、ボタンを押した。キーレスエントリーは、彼女の車がどこにあるかをその音でもって教えた。
 車に乗り込んだ藍が、エンジンをかけると、車体が振動する。躍動するエンジン音に、車の息吹が伝わる。それを操る藍のハンドルを握る手は、力強く、目はまっすぐフロントガラスを貫いて闇夜に向けられていた。
 藍がアクセルを踏むと、車体はゆっくりと動き始めた。料金所のシャッターを抜け、路上へ出る。徐々にスピードを上げる車。ここが路上だと分からないくらいのスピードに達する。放置してある新聞紙を巻き上げ、立て看板を跳ね飛ばしていく。夜道で嘔吐している男は身をよじって、暴走する車を間一髪のところで回避し、急ブレーキを余儀なくされた高級車の男は、窓から顔を出して、野太い声で誹謗した。点滅する信号も、一時停止をせずに通過した。
 藍は、交通量の減った国道に入ると、ますますその奇怪な行動を加速させた。車線をはみ出して対向車線にまで車体を滑らせた。タイヤが悲鳴を上げて、道路に黒い軌跡を描いた。ハンドルを右に左に、まるで映画を見ているような、悪夢だった。
「藍、止めろ」
 僕は体ごと藍にぶつかりそうな形相で、必死にそう叫んだ。蛇行を続ける自動車は、なおも我が物顔で国道を迷走していく。ライトが右往左往で、辺りの風景を照らし、真っ青になって悲鳴を上げる女や、公衆電話の中で電話をしながら目を丸くしているサラリーマン、路上で睨み合って派手に口喧嘩している男女の度肝を抜いた。
「藍!」
 僕はもう一度叫んだ。そして、外でこの椿事を眺める人同様、真っ青になる。
 僕らは、車に乗る前、どこで何をしていたか、それを考えたからだ……。
 明らかにこれは、無謀な飲酒運転だ。
 僕はとっさに足を乗り出し、ブレーキを踏む。ロックされたタイヤが、断末魔の絶叫を上げる。摩擦熱で溶けたタイヤのゴムが、国道にミステリーサークルを描く。藍のハンドルが慣性の法則に逆らい、車が回転。
 不幸中の幸いだったのは、ハンドルの操作が、車の力を軽減するほうに働いたことだ。
 車体の向きとは異なる方向にハンドルを切る、いわゆる逆ハンドル状態になり、勢いを最低限に出来た。
 視界が、高速回転し、映像の残滓だけが僕の眼前を直線に横切った。
 赤、白、黒。そんな色が僕の瞳に鮮烈に残った。
 車が数秒後に無事に停車するまで、僕は地獄と隣り合わせになっているような、錯覚を見ていた。
 背後の座席から、死神が、僕の首に鎌をあて、歯をかくかくと鳴らしている。
 車が激突するのを待っている。
 黒いマントと白い頭蓋骨が、バックミラーに丸写しになっていた。しかし、車は死神の予想に反して、まもなく、無事に停止した。
 僕は、藍に憤怒を染み込ませた口調で、国道から外れた公園の脇に停車させると、シートベルトを外し怒鳴った。
「何を考えてるんだ」
 藍は、ハンドルに額を当て、激しく息をしていた。さっきとは打って変わって静寂を取り戻した車内。外世界は無音。
 藍の呼吸音、僕の動悸のある空間。車の方向指示器の音。黄土色の光、点滅。刻まれる雑多な音や、光が、生きている証。
 藍は何も語らない。無言で自分が落ち着くのを待っている。呼吸のリズムがしだいに平静を奏で、口から鼻へ、その呼吸方法を変化させた。
 そして、沈黙。
 僕も何も言わなかった。藍も何も言わなかった。
 最後に残ったのは、右への車線変更を示す方向指示器の点灯する音だけだった。
 口火を切ったのは、藍が先だった。ハンドルに額を当てたまま、唇だけが乱れた髪の内側で、激しく動いた。
「いつから。いつから麻斗は私を追い越したの? いつも私が麻斗の前を歩いていたのに、手を引いて歩いていたのに」
 質問の内容が曖昧だった。整理し切れていない疑問と感情の暴風が、吹き荒れているのだろう。
 まだ藍は、顔を上げない。
「高校に入ってから――」
「その先は聞きたくない」
 だが、それを知って、藍は聞いたのだ。
「春――」
「聞きたくない」
「春美に――」
「言わないでよ、聞きたくない」
「春美に出会ってからだ」
 僕は無視して言い切った。強く、言葉尻の開示を否定していた藍が顔を上げると、そこには僕を恨む鈍い光を溜めた瞳があった。口元を震わせ、目尻には憂いをたたえている。柳眉は釣りあがり、頬は爆発しそうな言葉をかろうじて抑えているようだった。
 しかし、それも徒労に終わるのだった。
 
 方向指示器の音が耳に障る。












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