第十五話・何かの冗談
僕は再び、店の入り口をくぐった。先ほど来たばかりだというのに、ここは初めて訪れた場所のようだった。
風景に見覚えはあるのに、視界に飛び込む情報だけは新鮮味にあふれていた。全ては、僕の心境の変化が故だろうか。
カウンターには相変わらず藍がいる。また違う虹を口に運んでいた。
僕は酔眼を催す藍にそっと近づくと、おもむろに隣に座った。
藍は最初、僕にまったく気づいていなかった。おそらくどこかの男が勝手に近寄ってきたと思ったのだろう、声を荒げる。
「席はたくさん空いているでしょう。ここには今誰もいてほしくないの。遠慮してくれないかしら。もしそれでも退かないというのなら、私が退くわ。何度も言うようだけれど、私は一人でいたいの。一人でこうやってマスターの作る美味しいカクテルを傾けていたいのよ」
マスターは静かに作業を一時中断し、微笑をたたえながら、静かにかつ丁寧に会釈をする。この店の雰囲気にマッチした情緒のある振る舞いだった。
「いい加減にして。今、私のそばにいてほしいのは、静寂と安寧だけ。分かったら一人にして」
「彼女と同じものを」
マスターは一言、かしこまりました、と慇懃に、少し藍の動向を気にしながら、応対した。
「だから、一人にしてって言っているじゃない」
激昂高らかに眉を吊り上げて振り向いた藍が、衝撃に表情を歪めるまで、数秒という時間を要した。
長いのか、短いのか。
「これは、何かの冗談?」
藍の瞳の奥には暗く青白い光がぐるぐると回っており、それは次第に大きさを増しているようだった。栗色の髪に隠れた耳朶で頼りなく揺れる朱色のピアス。それは左耳にだけ付けられ、藍の耳元で異彩を放つ。
「どうしてここにるの」
困惑顔で僕の横顔に投げかける疑問符。
「ピアスホールを開けたのはいつだったかな」
藍は、質問に答えない僕をあきらめ、落ち着きを装って正面を向いた。共に揺れるピアスの赤が、僕の視界の隅で残像となって残る。
「大学に入ってからよ。ちょっとした好奇心。高校時代からずっとまじめで通してきたから、少しくらい、と思って……」
「僕が春美と付き合いだしたころだな……」
藍が顔を強張らせる。この手の話はやめて、というときの藍の癖だ。
僕はそれを知っていてわざと口に出してみたのだった。
こういうことを平気で言えるようにならなければ、これから僕が従属しようとする運命にはとても従っていけないと思った。
悪魔と結託でもしない限り。
「そうね」
淡白な物言いが、グラスの上に落ちた。藍はそれごとカクテルを一気に喉に流し込むと、熱い吐息をカウンターの上に漂わせた。ただ、それは嘆息のように重々しいものだった。
この空間の隅々にある澱んだ空気と同様の、膿んだ黒。路地裏で群生しているカビのように湿気を含み、腐食した空気を、藍は吐き出したのだった。
僕はそんなことを思いながら、次の言葉を捜した。
「これから、どこかにいかないか」
僕は唐突に切り出した。そして、藍の肩に心配の意味合いを込めて、軽く僕は触れた。するとその瞬間、藍は何かに怯えるように、全身を痙攣させた。
それは一瞬の反応だったが、明らかに戦慄のようであったし、また、どうしていいのか逡巡しているようでもあった。
依然として、藍の視線だけは、空になったカクテルグラスへと注がれている。僕はカクテルグラスには藍の感情が溢れているような気がした。
どうすればいいのか、という自問自答の滝が目尻から際限なく零れてきて、受け皿となったグラスへと落下する。表面張力を超え、まもなく水はグラスの底辺を円心として広がっていく。カウンターを覆いつくした水は、床へと滴り落ち、この空間すらも満杯にする。
そこには自らが生み出した水に溺れ、溺死した藍が、目を虚ろにして水中を彷徨っているのが見えた。
もちろんそれは僕のとんでもない妄想に過ぎないが、やり場のない感情は確実に存在し、藍に内在している。藍の表情の下地は、それを僕に理解させるほど、凄惨だった。
藍は、見詰め合っていたグラスへ人差し指を伸ばす。触れるに至り、グラスの縁を反時計回りになぞった。口紅が付いたふちを出発点に、一周、二周、三周……。
藍はついに指に力を入れすぎてグラスを倒してしまった。
紫電一閃、玲瓏たる響きが、暗闇に支配されるこの狭隘な空間を切り裂いた。
全ての目という目が藍に集中する。藍はといえば、瞳を暗闇に預け、瞼で密閉して、唯一無二の自己宇宙を遊泳している。
「行こう、麻斗。どこでもいいから連れて行って」
虹彩をわずかな光にさらし、僕をぎゅっと、掴むように見つめ、そう切なげにつぶやいた。
僕らは、深い闇から、出口である地上へと、脱出した。
出口を横切る風が、僕と藍の間を取り巻くように駆け抜けていった。アルコールで火照った体の表面を少しではあるが覚まし、冷静さと判断力を取り戻させてくれた。
大きく息を吸ってみると、人々の嘔吐物の臭いがした。酸味のある臭い。咽喉を刺激して、僕の胃袋を逆流させる、最悪の悪臭。僕は息がつまり、咳をする。のどの奥から這い上がってきた唾液は熱く、僕の舌先を焦がした。
藍は僕の隣で夜風に瞳を閉じていた。長いまつげが、まぶたの下で猫の爪のように反っていた。髪の毛が意思を持つ生物のごとく、上に下に横にと揺られている。髪の隙間から、ちらりと見えるピアスの赤が、炯々と光る。紺のスーツに、清涼感のある水色のシャツを身にまとう藍は、頬を仄かな赤に染めながら、風を肌で感じていた。
「行こう、麻斗」
藍は僕の手を強引に引っ張って、歩き出す。
フローラルの香りが僕と藍の手を通して香ってきた。
夜の街を、二人は動き出した。
|