第十四話・愛を傷つける
僕は目を疑った。
それは限りなく春美に近い晴美だったのだ。なぜここにいるのか、という疑問が、海中に沈むダイバーの呼吸の泡のように、沸々としては地上を目指し、上っていく。海上の空気と一体になった疑問の泡は、空気中に漂う解答と一体化し、僕の肺の中へ押し寄せる。
――それだけ私は藍に近づいているということよ。
晴美は教授室の中で僕にそう告白した。あの暗く、光射す部屋の中央で。
藍が、相好を崩しているのがよく分かる。天井からライトアップされたカウンターに掠め取られた藍と晴美の表情と容姿は、あたかも長年の友情で結ばれたような信頼がうかがえる。身振り手振りを交えて鷹揚に語りかける藍の、安堵に満ち溢れた目尻は、緩やかな曲線を描く。
これもまた信頼し、心を許しきっている証拠でもあるようだった。
僕はその目尻を知っている。
そう、あれは僕がまだ彼女の庇護下にあった頃、彼女の目尻はいつも僕と話すときにだけ、そっと曲線を描いた。
その意味が、今ようやく分かろうとしていた。あれは彼女の心の根底から来る自然発生的な癖なのだ。
安堵や、信頼。
親密な間柄でなければ見せない、具現化されたシグナルのようなもの。彼女の目尻が、僕以外の人であのような曲線を描いたことは今までなかったし、ありえなかった。彼女は強気な性格――男勝りとも言う――だったのも災いして、孤独だった。ほかの女生徒に比べれば一人の時間が多いようだったし、僕の独断的な基準からすれば、彼女は、これもまたほかの女生徒と比べれば、どこか垢抜けていた。とりわけ美人だと言うわけではなかった。どこか自信満々で、女丈夫だった。それがいい具合に藍と化学反応を起こし、僕を除く男子生徒の、いくつかある羨望の的の、一つになった。
僕が当時感じていたことは、友人たちとの会話の中に、僕と藍が一緒にいることを取沙汰されることが、たまらなく嫌だった、ということだった。
何人かの男子生徒から交際を申し込まれ、ことごとく却下したことが、風聞の発端だ。
藍は、男子間だけに存在したランキングの中で、上位五指に三年間入り続けた。道端ですれ違う男子から振り返られた。
それが、当時の藍だった。
こうして客観的に藍を見てみたのは、初めてだった。藍はいつも僕の前で歩き、僕の弱々しい手を強く握って歩いていた。
しかし、いつからか僕は藍を追い越すことになる。
藍が先導してくれていたはずが、いつの間にか追い越し、藍の手を引くことは決してせずに、そこへ置き去りにしていった。
そして、僕は春美と仲良く手をつないで歩いていくことになる。
僕は暗闇越しに二人の横顔を眺める。
交互に開く紅紫と、その間から漏れる皓歯。
そのとき、晴美の右手が藍の肩に伸びたのを僕は見逃さなかった。見逃すはずもなかった。あからさまに、堂々と肩に手を乗せ、引き寄せた。藍は引き寄せられるまま、晴美の肩に顔をあずける。今度はその藍の顔の上に自らの顔を乗せ、まるで恋人同士の睦を醸し出す。
しばらくそうして何事かを話し合っていたが、唐突に藍の表情が曇る。晴れわたっていた空に鈍色の雲が立ち込め、にわか雨の様相を呈するように。
藍は、悲哀を閉じた瞳に宿し、首を横に二度振った。
それは、明確な否定の合図だった。
共鳴か、晴美の表情も、藍同様、曇りだした。
そして、今度は何か低い声で晴美は藍に尋ねた、あの口の動きで僕は理解した。
会話の中に僕の名前が出てきていることを。
藍は、申し訳なさそうに、今度は深く、一徹に首肯した。
それは、明確な肯定の合図だった。
共鳴ではなく、晴美の表情は藍とは反して、曇ったままだった。
僕は結局、出されたカクテルに口をつけもせずにそこを後にした。グラスに触れようとすらしなかった僕に刺さるマスターの視線が、もの言いたげに、暗闇を突き抜けていった。僕はそれをうまく回避して、二人に気づかれないよう静かにその店を出た。
冥界の暗闇から脱出した僕は、側溝に嘔吐するサラリーマンを横目に黙考する。
二人の逢瀬を目撃したことで、僕の心中に生まれた感情は、春美への愛情だった。
より春美の必要性を感じさせられた。僕は現在、実態となるべき春美の依代を手に入れている。
それは同音異義語である、晴美だ。僕が春美を感じるために必要な条件は、藍を傷付ける事。ことのほか深く、強く。
だとしたら、すべきことはひとつではないのか。迷う必要などない。
出たばかりの店に踵を返す。
眼下に下る階段に、足の裏を付けようという時。奥にわだかまる黒い空間の隙間から、異様な空気が漏れて出た。外気とは異なる、地下内部で錯綜した異色の風、肌にまとわりつき蟻走感を催させる生温い風、官能的な風。僕は下から吹き上げられるその風が、急激なスピードで外へ吐き出されたのを、この肌で敏感に感じとった。
ドアから出てきたのは、彼女だった。
岩井晴美。
彼女は階下で僕に気付くと、暗闇でそっと微笑んだ。口の端を吊り上げ、嘲笑したようにも見えたが、ハイヒールの音を置き去りにしながら僕に接近してくるその音は、それを思わせるにはあまりに力強すぎる。
足どり重く……とは言い難いのだ。
僕は彼女にどう対応していいのか迷い、逡巡しているうちに、彼女は僕の目の前に来てしまった。
香水の微粒子が、鼻梁を掠めていった。バニラのような甘ったるい匂いだった。また、一度吸い込んだら、しばらく離れない匂いだった。
「あら、奇遇ね」
出会い頭の滑稽を気取る。
僕は段差ゆえに、晴美を見下ろす格好だった。灰色のスーツから、開襟のシルクのシャツが覗く。あの地下の空調のせいか、開襟シャツからちらつく淡紅色の素肌が、うっすらと汗ばんでいる。さらには、ネオンを浴びて色尽くめになる。まるで肌の上にさらに薄い膜状の衣服を着ているような感じだった。
「……少しは嫉妬してくれると嬉しかったのだけれど。途中で出ていったのはどうしてかしら」
ただでさえ細い目を糸のように細めて、獲物の行方を予測するように僕の表情をまじまじと観察する。
僕のシナリオを作っているのは晴美ではないのか。一瞬でもそう思ってしまった僕は、苦虫をかみ締めたような心中で、何度も首を否定に振り続けた。
僕の顔が熱さに膨らむ。汗が噴出してくるような感覚。緊張と、圧力に膨張する感覚。
僕の声は軽く引きつっていたが、答えることはかろうじて可能だった。
「どこから、知ったんですか。 僕がいたことを」
「質問を質問で返すのは好きじゃないわ」
僕と同じ地面に立ち、吐き捨てる。
「まあいいわ、私から先に答えてあげる。あなたがいることを知ったのは、藍を見つけてから。私は今日、藍を呼び出したの。大事な話があるといってね。もちろん待ち合わせ場所は、あの店。私が、藍の歩く姿を人ごみの中に見つけた、ちょうどその中間点に、麻斗がいた。そう言えば後は大体分かるかしら」
僕は頷いた。言い方を変えれば食物連鎖のようなものだった。僕が藍を、晴美が僕を追いかけていた。
晴美は表情をネオンに呼応するように一変させる。
「麻斗を意識しながら、藍と話すのは、ある種、快感だったわ。私と藍が触れ合っていたとき、あなたは何を感じているのか。それを想像しながらアルコールを体に染み込ませるのは、火に油を注ぐよう。体中が、熱くなってきたわ」
恍惚に瞳を濡らす晴美は、欲望に狂乱した魔女のように鮮烈だった。いやらしく、本能を刺激する口調とそのフレーズが、聞くものの性的欲求を駆り立てる。何か彼女自身それを熟知しているようでもあった。他人の心理をコントロールしようとする様が、魔女という単語に合致し、またそれでも言い表しきれない、言葉にならない苛立たしさの余波が、僕の背後を流れる男性の本能に、魔法をかけた。
肩を組みながら往年の名曲を輪唱する酔態の男の視線が、晴美の顔貌から徐々に下降し、首筋、胸骨、胸の膨らみ、腰のライン、臀部の曲線、ストッキングを通したふくらはぎ、と、次々その性欲の度合いを加算させていった。
やがて、僕の存在が彼らに確認されるに至り、彼らは僕が晴美の恋人だと早合点したようだった。
最後には、僕に対する羨望を顕著に顔の文字盤に表示させ、どこかで聞いた舌打ちの音を、ネオンの袂に響かせる。
輪唱の胴間声は、負け犬の遠吠えのように、さらに大きく夜の街に反響した。
その起因たる晴美が、いかに矛盾を孕ませていたことか。シックなスーツと、薄く輝く純白のシルクが彼女に不相応とは、誰もが思っただろう。
当然、彼らもそう思ったはずだ。だが、それが逆に絶妙の対比――例えるなら、純潔と淫乱という対比――を成し、余計に刺激の刃が彼らを挑発したから、男の途方もない妄想癖をたきつけることとなった。
おそらく男たちは、魅惑の挑発にかきたてられ、ライトアップされた想像の舞台の上で、華麗なステップを踏みながら衣服を脱ぎ、肢体を露出させる晴美を見たに違いない。
だが僕だけは、晴美の言葉の一端一端に込められた意図――糸――に操られ、それどころではなかった。
「さあ、今度は麻斗の番よ」
――さぁ、今度は麻斗の番よ。
何かが何かにすっぽりとはまる心地よい音が、頭骨の内側で発生し、残滓が、遠くから耳鳴りとなって聞こえてきた。やがて霧散すると知りながら、僕は郷愁に浸っていたい、と密かに念じていた。音が消え去ってもなお、僕は念じていた。
「どうして出て行ったの」
僕はすぐさま答えを用意できず、直視していた晴美の目から逃れ、新たに見つめるものを探した。
「……分からない、気づいたらそうしていた」
「それを決定付ける要因となった、最後の風景は」
晴美がまくし立てる。
「藍が、頷いたときには、もう席を立っていた。晴美の質問の後だと思う」
僕には自身が『ハルミ』と呟く瞬間の、高揚する心が見えた。発音が同じだからだろうか、錯覚が起こる。風貌が似ているからだろうか、残像が見え隠れする。
「要因としては十分すぎるわ。そこで終わったのよ、私たちの会話は。今日は特に時間をかけて話し合う必要性はなかったから」
「なら、なぜ」
反射的に僕はそう口にしていた。どこかで自動車の荒々しいクラクションの音が鳴らされる。
「私が、彼女を呼んだのは確認のため」
僕は晴美の二の句を待った。
計画性に裏打ちされた美をそこに見た気がした。完璧という言葉が、この延長線上にある気がした。
「確認よ。分かる? 彼女の現在の意志の確認。それを今日確かめたのよ。藍の心の性格は大体把握できているの。こう言ったらどう考えるとか、どういう反応を示すか。癖、好きな分野、苦手なタイプから、プライベートな劣等感までね。ほとんど知っているし、理解しているわ。彼女は私のものになる最終段階にまで来ている。すぐそこよ。でも――」
僕は流氷のような冷淡な視線と、侮蔑を一身に浴び、今にも踏み潰されそうな意識を、両足でしっかりと支えた。
「藍の意思だけはどうにもできなかった。強固で、純粋。それでいて神秘的で深遠な愛。その矛先は、何者でもない、鮎野麻斗へと向けられているわ。今日改めて知ったわ。私だけではどうにもならない厳格さがあることを」
歯軋りの音がここまで聞こえてきた。
まるで感情をすりつぶして粉にしようかという、頑なな表現だった。
「私のことを愛してくれないかしら。そう問うた。けれど彼女は首を横に振ったわ。そして、最後の質問」
パトカーのサイレンがビルの谷間でこだまし、ここまで乱反射してくる。
「麻斗を愛しているのか」
僕が冷静でいられたのは、きっと答えを知っていたからだと思う。
「彼女は首を縦に振った。少しはにかんだ表情で。震えたわ、全身に鳥肌が走った。どんなことをしてでもいい。彼女の愛を手に入れたいと。教授室で言ったこと、あのときよりも数段私の心を鷲づかみにした。こんな狂った愛は初めてよ。どんな男でも私を本気にさせはしなかった。唇を求め、体を求め、最後に私のすべてを求めようとする。まるで私を物と言わんばかりに。獣のように、私の血肉を食らおうとする。低俗な男ばかりが、この町にはあふれかえっているわ。はいて捨てるほど男はいるのに、本当の愛を知る男はあまりにも少ない。セックスの絶頂を過ぎ去ったとき、男はみんな自分を省みるわ。手に残る感触、腕の中にいる女、その吐息の暖かさ、萎縮したペニス、寥々寂寞とした全身細胞……そこで考えるのよ。この女は自分にどこまで必要か、ってね。そして、そう考えてしまった結末に来るのは愛の剥離。必要か、じゃないのよ、愛は……」
のべつ幕無しに声を発する晴美の様態は、悪化の一途をたどる。脱線したのは押さえが利かなくなった感情が、一時放出されたものに違いなかった。
自分の過去を振り返り、過去の自分を隣に立って見下ろすたび、後悔と疑念が憎悪となって津波のように陸へ打ち寄せる。寄せては返す時間の波と、それが見せる人生行路。打ち寄せた波が、激突し、飛沫が四方八方に散乱する。
発生する擦過音は、何かが削り取られている証拠だった。紛れもなく、それは晴美の心そのものだった。そんな心が今までずっと探し続けてきたものは、治癒してくれる特効薬。
経験、後悔、学習。この繰り返しが藍を見つけさせたのだ。
「藍は、私に何かを見せてくれる。あの純粋な心は私に何かをもたらしてくれる。そのためにも、私は藍の愛を手に入れたい」
僕に春美が必要なように、晴美にもまた藍が必要なのだ。
利害は一致している。もはや、迷うことは、現状では存在しない。
「あなたの春美に成り下がったとしても、それが欲しい」
僕の眼前には間違いなく、春美、がいた。
「さあ、行って。そして藍を傷つけて」
愛を傷つけて。
僕にはそう聞こえたのだった。
風は、夏なのになぜか冷たい。
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