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鎖状の楼閣
作:NAO



第十三話・尾行


 繁華街の街灯と、人ごみの間隙を縫う藍を、僕はひっそりと、人いきれに紛れながらつけていた。
 探偵の浮気調査のように、そっと人の作る陰影にその身を隠しながら。
 僕が藍を見つけたのは、当てもなく町をうろついていたときだった。
 雑踏の合間に時折現れる春美を探していた、と言ったほうが、納得がいくかもしれない。
 藍の愛を傷つける。
 その言葉が僕の血管を異常な速度で駆け巡った。見過ごすことも出来ずに、僕は背中を捜すのだった。
 やがて、藍は、ふと思いついたようにとあるバーの入り口で立ち止まると、電飾が指す地下への入り口へその歩を進めた。
 階下に続く電灯の光は、シックな色にまとめられていた。
 藍の背中が、地下へ消えたのを確認してから、僕も階段に足をかけた。
 まるで冥界への入口のようにそこには異様な雰囲気が立ち込めていた。黒く縁取られたドアを開けると、中は薄暗く、しっとりと濡れるような壮麗な音楽と、淡い光を暗闇の空間に垂らすライトが、静かで怪しい雰囲気を前面に押し出していた。
 カウンターを中心にせり立たせる構造で、その中心から離れるごとに、暗闇は増していった。四隅では顔を寄せ合った男女が、思い思いの話に興じ、暗闇から笑顔をのぞかせる。グラスから響く氷の音は、凛と空気の紗幕を切り裂き、青い線を撒き散らした。氷はそんなグラスの中にあってひときわ輝き、表面で反射しては、恋人たちの時間の中を泳いでいる。
 藍は、カウンターの隅っこに座ってカクテルを傾けていた。
 一言二言マスターと言葉を交わし、薄く笑っては、人差し指と親指が、カクテルグラスをはさむ。ゆっくりと口へ持っていき、そっと薄紅の唇に当てる。スポットライトを浴び、映し出される喉の線は、注ぎ込まれる液体を通すために上下に蠢く。一口一口が何かを表現し、また、表現できずに燻っていた。
 細くしなやかな指使いは繊細で、動作ひとつとっても、完璧だった。そっとグラスをカウンターに置き、ため息をつく所作などは、朝露にぬれる薔薇のように、痛く瑞々しいものだった。白と黒の対極のグラデーションは、ここでは藍に味方をしていた。目元に広がる暗闇が、顔に美の彫刻よろしく黒い彫を作り、カクテルで濡れた唇は、しっとりと発光、さらに卑猥にカーブして、僕の目に飛び込んだ。
 僕は藍に気づかれないよう、藍の死角を選んで座った。
 もちろん僕からは藍の動作が逐一見える位置だ。僕は、慇懃に微笑むウエイトレスに、適当なカクテルを注文した。
 足元も満足に見えない室内は、やはりその暗闇の中で何かがぬめぬめと這い回り、僕の足元に巻きついては、這い上がってきた。
 その感触は暖かく心地よいものではあったが、どこか麻薬に似た刹那的な快感のようだった。一方では、四方からこだまする妖艶で低い話し声が、情念を増大、加速させていく。普段、使い古された言葉も、ここなら、強い意味を付加しそうだった。どんなにたわいのない会話でも、ここでなら、重要で感情にあふれた意味深な会話でありえた。そうありえたのは、僕と春美の間でもそうだった。
 ――人間はね、そのときの感情の持ち方如何で、幸にも不幸にも不安にも、恐怖にもなりえるの。不思議でしょう?
 何度か似たような店に、僕は春美と来たことがあった。
 その時は、僕が初めて春美との待ち合わせに遅れてきた日で、春美は謝る僕をただ黙って見据えていた。彼女の表情は光の当たる角度が故か、憮然としているようにも見えたし、また悲しんでいるようにも見えた。
 しばらく彼女は僕の双眸を凝視し続け、そして不意に笑って見せた。
 微笑をこの目で見るまでの、僕の累積した緊張の重量と言ったら。
 おそらくは、学芸会や、発表会、そんなものの比ではない。指を一センチ動かすことすら躊躇うほど硬直し、金縛りにあって身動きひとつ取れないときの恐怖にも匹敵した。
 だから、彼女が笑ってくれたとき、僕は鬱積した感情のダムが決壊して、全身の筋肉が弛緩し、春美の姿に淡い幕がかかってしまった。
 彼女は、あらかじめ頼んでおいたカクテルを僕の手前に滑らせて、乾杯、と囁いた。
 ――ねえ、私、別に怒ってなんかいないわよ。ただ見つめていただけ。
 僕は、幕がかかった瞳が乾くのを待って、カクテルに口をつけた。見た目にも美しい浅葱色で、中にチェリーが一つ、水平線の先に沈む夕日のように、その身を深く碧海に沈めていた。
 ――人間はね…人間の理解は、言葉だけでは、不可能なの。抑揚だけでもそれは伝わるけれど、もっとも左右されるのはその人の表情。今、私はただ黙っていただけだった。もちろん無表情で。でも麻斗はそんな私に見つめられて顔を強張らせていた。
 口元に指をふれ、静かに微笑む。
 ――麻斗がここへくる途中、急いでいたのが、額の汗から推測できるわ。だから走ってくるとき、いろいろ考えてしまう。もしかしたら怒っているのではないか、心配しているのではないか、それとも幻滅されてしまうのではないか…。そして、いざ面と向かってみれば無表情で無言、無愛想。不安は、負の想像を駆り立てるわ。無表情が怒っているように見えてしまうのよ。だから…
 テーブルに両肘を載せて、にじり寄る。僕の瞳のすべてに春美があった。
 ――待ち合わせ場所に早く来るのは、止めなさい。
 僕は、回想を頭の隅で行いながら、また、瞳の中心では藍を捕らえながら、瞳の突端ではシェイカーが豪快に回転するのを、心ここにあらずの態でぼんやりと眺めていた。
 僕はいつしか、こうして春美との過去を回想しながら行動するという、一種の同時進行に慣れきっていた。
 それだけ春美が、この矮小な世界には、氾濫していた。
 春美の部屋はもとより、マンション、銀杏並木、裏通り、ショッピングセンター、ショウウィンドウ、ポスト、電話ボックス、スーパーのレジ、自動販売機のコーヒーのボタン、道端に落ちている石、果ては、髪の毛、服についた糸屑、不意に流れ出た血、その傷であったりもした。
 春美の積極的な行動と言動は、この町の隅々を僕に目撃させ、この町が叫ぶ声という声を、僕に聞かせた。
 そして、僕の目や耳がそれを記憶し、また春美の姿をポートレートのように焼付け、離れられないようにした。
 だから、街角にある交差点では、春美がいつも人々の間を颯爽と駆け抜けて行ったし、スーパーでは値段と格闘しつつ、買い物籠を腕に絡ませながら渋面をし、本屋ではファッション雑誌に目を通し、カフェのレジでは支払いをし、向かいの横断歩道では最前列で白黒の横断歩道に目を落とし、下から見上げるマンションの入り口では、自分の部屋に鍵をさす春美の姿がドアの中に消えるし、公園ではブランコに腰をあずける春美が急に立ち上がり出口へ歩き出すし、改札口を抜ける春美は三番線に消えるし、発車した満員電車の降車ドア付近では、乗客につぶされた春美の痛々しい顔が見える。
 すれ違うタクシーの中には窓に顔をもたれる春美がいるし、下校途中の高校生の間にも共に談笑する春美の姿が見えたし、コンビニエンスストアのレジの前に並んでいたし、試着室から出てくる人がいる度それは春美であったし、テレビに映る観光名所の温泉の中でタオルをまいて浸かっているのも春美だったし、野球中継のスタンドでメガホンを叩いていた時もあったし、サッカーの中継では頬にペインティングしている時もあったし、銀行のATMで引き出しをしているし、バス停の椅子に姿勢を正して座っている。
 枚挙にいとまなく、春美は町中に、僕の瞳中に、その姿を現しては、消えていった。
 だが、春美は徐々にこの街中から一人また一人と、どこか遠くへ旅立ち始めている。
 春美が死んでから、後を追うようにしているようだった。僕が後を追おうとしても、彼女は僕を振り返りながら疾走し、申し訳なさそうに人の森林に身を隠す。
 僕が見失うと彼女はそっとどこかへ行ってしまうのだった。
 春美の駆ける速さは、尋常じゃなかった。ビルの隙間を縫う風の如く、人々や、木々、家々、幾々の時々刻々と変わり行く世界の隙間に、町々の界隈に、おそらくは死屍累々と横たわる人々の間ですら、彼女は無関心にすり抜け、ただ僕に背中を見せながら去っていくのだ。
 それは、僕にとってのカウントダウンのような気がしてならない。
 シェイカーがその動きを止めるのと同時に、僕は自分の世界から、かろうじて抜け出した。
 今度は萌黄色に輝く液体がそこから流れ出た。シェイカーが、まるであの美しい虹を作り出す機械のように見えた。虹の材料となる液体と、液体の絆を入れ混合させると、虹が出来る。
 その耀映は、絆がより堅固で強固なほど壮麗に輝き、華麗な色彩を作る。湖、川、池、水分のあるところすべてに宿る絆。もちろん相性もある。成分も違う。まるで人間のように種々雑多だ。そう考えてしまうと、連鎖的に僕は考えてしまう。
 僕と、春美の色は。
 ――きっと青ね。
 藍の隣に座る者がいた。
 ――なんかそんな感じ。爽やかで…
 それは、そこに座るのが、ごく自然だと言わんばかりに、慣れた感じで、ゆったりと。
 ――深遠で…
 それは、見覚えのある風貌だった。
 ――そこからすべてが生まれる、まるで…
 あの、春美だった。
 ――海のような。












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