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鎖状の楼閣
作:NAO



第十二話・重ね合う日々


 ことの終わり、それは幻想からの覚醒を意味する。
 カーペットの上で僕に背中を見せて眠っている晴美と、その裸体に付着する汗。
 僕は、春美を抱いた数十分が現実に存在しうることを知った。
 それが、まがい物の春美であるにしても、僕が春美を抱いたのは事実だった。
 目を閉じれば、春美がいる。借り物の体に宿った春美の魂は、僕を十分に酔わせた。
「あなたはよほど春美という女を愛していたのね」
 晴美は、僕が剥ぎ取った下着を、背中を向けながら身に着け、立ち上がる。僕のつけたキスマークが臍の下で異彩を放っている。
 この部屋に充満する熱気を相殺するために、晴美は、下着だけのまま、エアコンのリモコンを取った。電子音が数回鳴って、僕は肌に吹き付ける冷気に身震いした。
 僕自身は何も身に着けてはおらず、カーペットの荒い感触を直接受け止める。
「木曜日と、金曜日は講義がないの。私を抱くんだったら、その日にして」
 僕には分からなかった。晴美は僕のことを憎いと思っていることはあっても、好意を抱いていることはない。しかし、目的のために体を投げ出す姿勢は、僕にとって理解しがたいことだった。
 僕は、まるで僕が存在しないように、それきり勝手に行動する晴美を尻目に、僕もその場を後にした。
 

 それ以来、僕は晴美を春美の記憶と重ねた。


 僕は春美のマンションへは帰らずに、木曜の朝から晴美のマンションを訪れ、金曜の夜までそこにいた。晴美が部屋着で戸口に立つ姿に、春美のそれを重ね、僕は衝撃に打ちひしがれる。玄関口で荒々しく部屋着の襟口を無理やり肩口まで下げ、そこにキスをした。赤く腫れ上がり、さらに深紅の、針の穴くらいの大きさの血が溜まる。繰り返し愛撫をし、僕らはもつれるようにカーペットへ倒れこんだ。
 何を考えていたのか。
 晴美のこと、春美のこと。
 晴美の体を持ち、晴美でないもの。
 春美の心をもち、春美でないもの。
 その中途半端な人間を、僕は、無性にいとおしかった。ただ、僕は晴美を愛したわけではなかった。
 その中に宿る、春美の魂を愛したのだ。変移していく春美の部位。
「春美は、あなたのどこを愛したの」
 春美は、演じきると、僕にこう言って、完成度を高めた。自分に酔うように聞いてきた。僕は自分の思い出の引き出しを惜しげもなく引き、そして、目前の石膏人形に春美を刻み込んでいった。
 僕は錯覚を見ていた。
 麻薬のような幻覚症状、心気妄想。より春美に近づいていく晴美が、触れることの出来る、限りなく夢に近い現実。
 実行に移し愛撫する晴美を、僕は素直に受け入れる。
 いつしか抵抗はなくなり、僕の感覚、初期段階に現れていた拒否反応、善悪の概念が著しく麻痺し、麻痺の後ろで手を引かれてやってきた痛みの享楽に、僕は、溺れていた。
 溺れ、力尽き、深海に沈み、無重力という無我の境地に至り、僕は春美を眺めていた。
 代わる代わる、僕は恣意的な気持ちで春美を見つけ、執拗に吸い上げた。
 僕が伝えた春美の情報を寸分たがわず実行していくさまは、模倣というよりは、むしろ一体。模倣はあくまで原型を下回る。しかし、一体、はそうではない。原型の中に自ら入り込むことで、まるで本人同然に変わっていく。挙動、発声法、癖、を確実に押さえていくことで、晴美は春美になろうとした。
 夏の日に、カーテンを閉め切った部屋。
 影の中で、体を晒す。
 体に嫌というほど、粘着する汗。空気が滞っているせいか、発汗された水分は、思うように乾いていかない。汗は、僕の体の上に腰を据えたまま、僕の動きにあわせ、右に左に泳いでいる。カーペットに吸収されても、また同じ部分から湯水の如く溢れてくる、汗。
 汗。
 カーテンの隙間から漏れる光の矛先が、僕と晴美の表面を鋭く浮き彫りにしる。僕の汗と、晴美の汗は、溢れるたびに交じり合って、匂いそのものを相殺した。そこから生まれる新たな微香が、媚薬のように、脳髄を焦がし、僕の根底で封印されていた野獣を呼び覚ます。
 呻き声を上げ、足枷を引きちぎり、天に向かって吼える。両手を天に掲げ、睨む。壁に爪を立てて、荒々しくよじ登る。
 鬼気迫る表情で迫りくるそれは、緊急事態に逃げ惑う理性的な僕を追跡し、背中に一線を浴びせ、引きずり倒し、八つ裂きにし、脳漿をすする。ストローで吸うような耳障りな音が、暗い路地の街灯の下に虚しく響く。円形に照らし出されたそこに広がる血液の花。死屍が横たわるそこで、膝をつき、物色する。意識狂わせる匂いの充満する一帯。
 目を開けると、そこには鈍色を放つ肉体があって、首に張り付く髪の毛があって、口の端にくわえられた髪の毛があって、抜け落ちて胸に張り付いた髪の毛があって、カーペットに絡みついた髪の毛があって、毛先を輝かせる汗と、食いしばる歯があった。
 晴美の二本の足が、僕の脇の下に添えられていて、しがみつくように僕の背に腕を回すから、僕は思うように動くことが出来ない。
 僕の額がカーペットにこすり付けられ、裂傷を起こしたように発熱する。僕の左耳の横には、晴美の唇があった。そこから漏れる熱い吐息が、僕の耳元を容赦なくくすぐった。
 晴美はただ、欲しい、と言わんばかりに僕の背を抱き寄せる。
 僕の背骨が締め付けられ、まるで紐できつく縛るようだった。
 僕が晴美を抱く手を緩めれば、背中を横様に引っかいた。
 鏡を見れば分かるだろう。きっと僕の背中には、赤い五本の線が対になって刻まれているはずだ。
 僕はあまりの痛みに歯を食いしばって顔を上げた。ちょうどそこに晴美の顔があって、妖艶に微笑んでいた。春美の顔にも見えたが、明らかにそれは晴美の顔だった。細く切れ長の瞳と、目尻、長い睫毛、寒天質の中で揺らめく紫紺の刃。
 僕の心臓がナイフでくりぬかれるような悪寒と、期待。
 晴美が、僕の知る春美を越えようとしていた。逸脱ではない、進化。
 僕はそれに心半分期待し、心半分恐怖していた。
 晴美が転がるように重心を傾けた。僕は挿入したままそれに従い、反転する。僕と晴美の位置関係を逆転し、晴美は悪戯な笑みを浮かべた。
 挑発するように微笑む。
 春美が、鼻と鼻がつく寸前まで、顔を寄せ、唇を割った。
 声は、密着しなければ聞こえないほど、薄く、色彩がない。
「麻斗は、私ではない――」
 声は急に明度を上げ、色彩も鮮やかになる。
「春美を愛しているのね?」
 藪から棒の質問に、僕は怪訝に瞳を動かした。何よりも容易な質問を問われ、僕はそれに、明瞭な声で答えた。
「春美を愛している。それ以上もなければそれ以下もない。それが全てだ」
「私もよ」
 口調高く言う晴美を、僕は否定しようと、口に空気を送り込む。横隔膜が下にずれ、肺が膨らむと、腰に座る晴美がほんのわずかだけ上下に揺れた。
 僕の荒れた唇の上には、晴美の指があった。晴美を瞳に捕らえると、静かに首を振っていた。今は私が春美なのだから、それでいいはずよ、と言われた気がした。
 声調静かに、また晴美は言う。
「なら、本来の私たちの関係には、生徒と教師と言う関係は存在しても――」
 声調高らかに、また晴美は言う。
「愛は必要ないわね」
 意味の分からない質問が、僕の顔に吹きかかる。しかし、これもよく考えれば至極当然の問いだった。僕と晴美の関係は、あくまで春美を媒介としての関係であって、晴美を直接愛することではない。僕は、春美を宿した晴美を愛することはあっても、生身の晴美を愛することはない。
 僕は、強く否定した。
「愛なんて、必要ない」
 不気味に微笑んだ晴美が、腰を前後に動かし始めたのは、その言葉を発した数秒後のことだった。
「春美と言って、大声で」
 その日もやはり、ことの終わりを見た後は、直ぐにその場を後にするのだった。
「――春美」


 僕は、愁雲から突然に垂直落下してきた身も凍るような冷たい雫に、体温を奪われていった。僕の肩の上で雫がはじけ、狂乱している。次第にしみこんでくる冷たさは、僕の心にも影響を及ぼす。事実、僕の心は自分で思うよりも、急激な進退を繰り返した。それはまるで塩の満ち引きのようであったが、また、津波の前の潮の動きのようでもあった。
 髪の毛が額に張り付いていた。毛先からこぼれる一滴。足元で水溜りと一体になる。
 停留所のベンチに座り、飛沫を上げるトラックが通過するのにも、瞳は反応しない。ただ、影が横切っているようにしか感じられなかった。すだれ状に落ちる水が、地面に叩きつけられて、その欠片が僕の靴をびしょ濡れにした。靴の中まで濡れていた。次第に染み込んできたのだろう。濡れていることにすら気づかなかった。単に、僕が鈍感だったのかもしれないが。
 一滴、また一滴と。
 僕の伸びた前髪に沿って、水滴が僕の青いジーンズに落ちている。
 雨はまだ止まない。
 気付くと、僕の前にはバスが停車していた。僕を乗せようと口をぽっかりとあけ、手招きしている。僕が座っていた停留所のベンチには、くっきりと黒いしみが出来ていた。僕が座っていた証だった。
 僕は最後尾の席に濡れ鼠であるのにもかかわらず堂々と座り、満身創痍の体を座席に沈め、窓に頭を預けた。
 雨の流れが映っていた。
 バスのスピードについていけずに斜めに引かれている。窓に映る僕の顔に生気はなく、疲弊しきった負傷兵の面影に似た、敗北者の顔があった。僕の瞳には黒々としたものが渦巻いていた。駆け抜ける濡れた町の情景を映しながら、渦はいよいよ加速度を上げた。
 僕の体は、バスが揺れるたびに簡単に動いた。骨を抜き取られた人形のように、ふらふらと現を漂流していた。窓にぶつかる頭が痛い。額に走る衝撃と痛みに、僕の頭は熱気を帯びる。
 無人のバスは、どこまでも走り続けるだろう、僕だけを乗せて。
 きしむ吊革と座席の数々。運転手の寂莫たる背中と、アナウンス。
 皆、寂しい。泣いている。だから、動いている。だから生きている。生きている限り、孤独はいつも傍にいる。手中にも、口内にも、鼻腔にも、涙腺にも、人体の穴という穴に寂しさはある。だから人は寂しさを埋めるために、抱き合い、口付け合い、涙を拭き合い、慰め合い、触れ合い、舐め合う。
 唾液は優しさだ。舐め合うことは、それを払拭する手段の一つ。お互いの体中を唾液で濡らし、寂しさの粘着質を唾液という優美の薄膜で覆う。破れては、舐め合い、補強する。何度も、何度も。寂しさの幕で覆われてしまう前に。
 バスが大きく揺れ、僕は座席からわずかにはねた。
 停留所にも止まらない。誰も乗り込んでこない。僕だけの空間が、座席の並ぶそこで寂しく笑っている。
 出来れば、このまま春美の元へと連れて行ってほしい。
 僕発、春美行きの停留所へ。
 バスには、やはり誰も乗り込んでこない。












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