第十一話・晴美
学校から少し離れた、郊外の住宅地。まな板を立てかけた調理場のように、マンションが立ち並ぶ。
その狭間には、窮屈そうに身をよじる木々と、各出入り口に続くアスファルト。その一室。
甘美な匂いの充満した、一室。
汗のしみこんだシーツ。白く浮かび上がる背中を伝う汗。汗の中に映る、僕の顔。汗が、背骨で躊躇する。奥羽山脈のそれに似ている。季節風をさえぎる峻険な山々。
僕は、思い出す。
春美を重ねたときを。
その罪悪感と、興奮と、恍惚。
よぎる景色と、熱波と、咆哮。
僕は、思い出す。
「聞かせて頂戴」
何を、と僕は眉間に皺を寄せた。
「春美のことよ。あなたが愛した夏目春美のことを」
バックをソファに放り投げた晴美が、冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに並々と注ぐ。
僕は、その飲み物――もちろん牛乳に対して――に人物との不一致を覚える。
のどを鳴らして健康的に飲み干す晴美の首筋に汗が光った。汗はまもなく、シャツの中に入り込んでいった。
僕はその先を妄想しないわけにはいかずに、足元に視線を落とす。足元には春美の肌色に似た床が敷き詰めてあり、そこが春美に通じているような、不可思議な感触が、僕の足裏から這い上がる。わずかに持ち上げると、少し粘ついた。
汗が、噴出していた。
額には汗があふれているはずだった。
見ずとも、触れずとも、感覚でそれが分かった。
「教えなさい」
語気が鋭くなる。
「何の必要があるんですか」
汗をかいたコップの内側には、白い膜。縁には、白に混ざる赤。
「必要、ですって?」
細くなる瞳に、僕は両断されるようだった。威圧する口調と、歩みが、僕の後退を促進させる。
僕は、すぐ後ろにあるキッチンの洗い場に、腰をぶつける。行き場はない。
晴美の指が、滑らかに動き、僕の胸を突き刺した。
「いい、麻斗」
その指は、首吊り台の紐と成り代わる。僕を喉輪にする手の握力が、僕の呼吸を少なからず奪う。
「私は、春美なのよ。あなたの愛した、ね。心の中で、僕の春美、と叫んでみなさい。渇望する愛の叫びが、奥底から響いてくるはずだから。欲しい、欲しいってね。きっと言っているわ。聞いてみなさい」
今にも、足場が落とされそうになる。中吊りになって、足を駄々をこねる子供のように動かしながら、意識が薄れていく。やがて穴という穴から噴出する、排泄物の雨に、地面は腐食の一途をたどる。僕の地面は、不安定かつ、不鮮明。今にも崩壊してもおかしくない、腐食した木製の地面だ。
晴美の手の力が抜ける。
「春美は、どんな風にあなたを愛したの。どんな声で感じていたの。どんなよがり方をしていたの。全てよ、それを話せばいい。私は、それを演じるから、あなたはそれで渇きを潤せばいい。喉を鳴らして、貪るように飲めばいい。目をつぶり、想像すればいい。自分は、春美を抱いている、腕の中に春美がいるって、暗示をかければいい」
鬼気迫るように、恐ろしいことを言う眼前の晴美は、表情もやはり言葉と同等だ。
僕は、恐怖に目をつぶる。意識と情報を暗闇の箱庭に預ける。
「さぁ」
熱い。
「暗闇の中で、想像するの。今、麻斗が落ちている暗闇から、ゆっくりと近づいているのは誰。這うようにして体をしならせているのは誰。髪で隠されたその表情は。何が見えるの。肩口は丸い? 乳房の形は。感触は。張りがあるの? 沈み込むようなやわらかさ? それとも少しうつむいている?」
思い描くまいと堪えていた、瞳の中。暗闇の中。
晴美の声が耳に侵入してくるたび、僕の箱庭が侵食される。
漆黒の泉から這い出してくる、爬虫類のような生物が、両手両足をしっかり地面に付け、交互に出し引きしながら接近し、巨大化してくる。進化の過程をたどるように、今度はしっかりと軸を安定させ、ふらふらと赤子のように頼りなく立ち上がる。頭が横揺れし、頭髪が振り子のように従う。墨汁を体中にかぶった人形。目は白く、瞳は無い。乳房がかろうじてぶら下がっている。乳首は黒く変色している。
「どんな表情なの。笑っている、怒っている、それとも泣いているの?」
人形が、表情を作り始める。口の端をぎこちなく歪曲させ、笑って見せる。
機械的でとても笑っているようには見えない。
あまりにも不自然だった。
これでは人形以下の出来損ないでしかない。
指は三本しかなく、体も所々溶け、剥離していたり、裂傷があったり、火傷のようなものまである。稚拙なマリオネット、そんな形容が適切な、動き。
「どんな指で、どんな愛撫をしてくれたの? どんな風に撫でられ、かきむしられたの。麻斗は、春美のどの部分が好きで、どうやって愛したの。その舌先でどう舐めて、辿り、濡らしていったの」
縷述する晴美の声に呼応して、人形の輪郭が、ここにきて像を結び始める。肌の弾力さえ鮮明に分かるほど実態に近づく。
顔貌、くびれ、ふくらはぎの形、足の指の曲がり具合。内反母子という変異した指の形まで克明に。
人間に限りなく合致していく。
「麻斗、彼女はどう呼んでいたの。声の高鳴りは。抑揚の付け方は」
限りなく春美に近いそれは、僕の目の前に限りなく春美に近い裸体を晒し、微笑み、発声した。
朝起きてすぐにでも聞きたかった、あの声。聞くまで、目覚めというものを実感できなかった、あの声。
麻斗。
その呼び声。
「呼んでいいのよ。昔と同じく。さぁ……」
甘美な、誘惑だった。耳朶を舐めるように耳孔に滑り込む。脳髄を攪拌した上に、思い出と一緒に、快感まで連れてこようとする。
「目の前にいるのは誰。言って――」
耳元に寄せる唇からは、生温かい風。悪寒すら感じる、映像の美。本物と見惑うばかりの動画。
導火線に煙が立ち始める。火があまりにも近いせいか、引火はあっけなかった。
「麻斗」
それが、火種だった。
僕は、暗闇に立つ晴美へ言った。
春美、と。
暗闇から進化し、僕が結んだ春美。歪む輪郭と、揺れる映像は、目には入らない。
同じ地面に春美が立っている。僕の喉に水が流れ込んでくる。食道を難なく通過して、胃にまで達した。はっきり冷たいと感じる冷水だった。
しかし、その水だけでは、僕の乾いた心は満たせなかった。
押し倒した春美――晴美――を、僕は、抱いた。
長年の時間が干上がらせた溝を、この溢れる水で再び大河に戻すために。
春美。春美。春美。
連呼した。
僕は体にしみこんだ一連の動作で、春美を愛していく……。
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