第十話・同音異義語
大学の講義はまったく頭に入ってこなかった。
耳には入るが頭には入ってこない。
視線の先には確かに教授がいるが、僕が見つめているのは教授ではなく空中だった。
念仏のような教授の声は、僕の耳には喧騒ではない。道路脇で暮らしている人にとっての、自動車の通過音のように。人畜無害な、日常の一部と化していた。あってもなくても同じ。
やがて講義が終わった時にも、僕は終わったことすら気づかなかったし、皆が周りから消えるまで、僕は自分が廃人のように、呆けていたことにさえ気づかなかった。
一人きりになった教室の机の上には、何も広がっていなかった。教材も出していないし、ノートや、筆記用具すらない。
僕は何しにここに来ているのか。
そんな簡単な質問にさえ答えることができなかった。
僕はバッグを肩に下げ、教室を後にしようとして、立ち止まった。
出口のドアに背を預けこっちを静かに見つめている女がいた。
空気の一部のように、そこにいたことすら気づかない。僕の神経が狂っている今日にあっては、そんなことは日常茶飯事だが、その女の様態は、まさに空気。
ほんのりと朱に染まった頬と、後ろでまとめた長い髪。こめかみから下がった後れ毛が、黒い眼鏡の縁を通って風に揺れている。紺のスーツを身にまとった女は、教室内に高く響くハイヒールの音を、潜水艦のソナーよろしく、僕に近づいてくる。
細長い目をした女だった。
冷たい目をした女だった。
僕の眼前で佇立した女の背格好は、春美と瓜二つだったが、いかんせん春美とは似ても似つかない相貌だった。
「あなたね。鮎野麻斗という男は」
言い方は乱雑だった。吐き捨てるように、男、と言うその仕草が冷徹で、差別すら含んでいた。
女は、細い目をさらに細くして、僕を品定めするように睥睨した。
「いいわ。少し付き合って」
彼女の後ろに従って、僕は歩く。女の直線的に伸ばした背筋はとても印象的だった。足と足が交互に出る、歩く、という基本動作でさえ、どこか計算されているようだった。連れて行かれた先は教授室だった。
「ここよ、入りなさい」
命令口調が僕の耳朶に触る。
「座って」
キャスターの付いた椅子が仕事机の前に転がっていた。机の上にはデスクトップコンピュータと、その他、僕の知らないような物々しい付属機器が机の半分以上を独占していた。女はため息をつきながら、自分の椅子に座り、僕に向き直った。
「そうね、まずは自己紹介かしら。私の名前は、岩井晴美。ハルミよ。晴れる、って書いて、美しい。とりあえずここで物理学を教えているわ」
僕は、胸を締め付ける単語の登場に、心臓が一度だけ大きく跳ね上がった。繰り返し復唱する彼女の意図に、僕は気づかなかった。
「知らなくても当然ね。あなたとは分野が違うから。まあ、あなたのよく知っている人を教えてはいるけれど」
僕は彼女の名前を心中で反芻していた。呼び慣れた名前。気持ちのいい名前。僕が一番よく知っている名前。
「宮沢藍。知っているわよね。あなたなら、よく」
その名に僕は身構える。
「実は彼女のことであなたに折り入って頼みがあるの」
「なんですか」
流暢に話すように見えて、その瞳の奥に愛憎が揺らめいていることに僕は気づいた。矢尻のような剣呑さが、部屋を所狭しと飛び交っている。
「彼女を傷つけてほしいの」
僕は訝しげに眉を歪めた。
「一人では立ち直れないくらい、はっきりと、そして深く」
晴美は目尻の切っ先で僕を貫いた。ただ目を細めただけなのに、僕にはそう感じた。
彼女を逆光として、午後の木漏れ日が、直線に、この狭い部屋を切り裂いている。背に神々しい光芒を受けて、眼鏡の縁を淡く光らせる。
逆光で見えない彼女、晴美の表情と、その姿。
僕はそのまま黙っていれば、晴美は、僕の愛した春美とそっくりなことに気づいた。もともと相貌以外の容姿は大して変わらないのである。
僕の想像に妄想が加わった。
もしかしたら、という可能性に僕は隷属してしまいそうになった。
晴美の声が、耳に付着して離れない。
「私は彼女を手に入れたい」
細かいほこりが彼女の息吹を避けて通過する。まるでそこに不可視の障壁があるかのように。
「彼女は、藍は、あなたが思っているよりも純朴で、一途なのよ。はっきり言えば、彼女はあなたを愛しているわ。麻斗という最低の人間をね。あなたを視界に捉えたときの藍の目を知らないでしょう。あなたを見つけたときの藍の表情を知らないでしょう。知るはずはないわ。あなたは、春美という愛する者を見ているから」
冷気のような雰囲気に僕の体は凍り付いて、微動だに出来ない。
「いいえ――春美しか見ていないから」
ことさら、しか、という語彙に力を込める。
「なぜそれを……」
彼女は僕をせせら笑うように口の端を吊り上げた。
「藍に聞いたに決まっているでしょう。それだけ私は藍に近づいているということよ。藍はあなたのことで悩んでいるのを私に相談しにやってきたわ。心底あなたを心配していた。だから私は逆に藍に愛情を抱いてしまったのよ。あの純粋な藍の二つの瞳で、私を見つめてほしい。純白の愛で全身を包まれてみたい。そう思ってしまった。同性なんて問題じゃない。愛に性別は関係ない」
僕は、晴美の話に耳を傾けているうちに、『藍』という単語が『愛』、という単語に聞こえてきた。
愛と、藍がまったくの一致を見せる。
さらには、『晴美』という単語が『春美』に聞こえて仕様がなかった。
春美と、晴美がまったくの一致を見せる。
僕の中で、すべてが入れ違い、錯綜し、混同する。溶け合い、新たな色彩を作る。
「でも、藍は麻斗を愛していたわ。私ではない。だから、あなたに藍を深く傷付けてほしいの。行き場を失った藍の魂を、私が救うわ。そして、もう籠に入れて離さない」
僕の目は、春美の錯覚さえ見せ始めていた。
「これはビジネスよ。麻斗」
麻斗。僕を呼び捨てにする『ハルミ』は一人しかいない。
「私が春美の依代になってあげるわ。その代わり、あなたは藍を傷付ける。そう――」
僕は、春美――晴美ではなく――の言葉を待たず決断していた。
「藍の愛を……」
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