第九話・夢
その夜、僕は、夢を見た。
春美と僕が出会っていなかったら、という夢だ。
しかし、僕の視点では、夢物語は進んでいなかった。映画を見ているようにいろいろな角度から僕の周囲が映し出されていた。もちろん僕はその僕が見る麻斗を自由にコントロールできたわけではなく、勝手に麻斗が僕の目の前で行動していた。
現実の僕と比較すると、高校に入学するところまでは一緒だったが、その後からはまったく違っていた。
現実では、僕は春美の教科担当の生徒になるはずであった。そこで春美と出会い、僕は惹かれていくわけなのだが、そこでは、夢では違っていた。
僕は、藍と肩を並べていた。
藍とともに学級役員になり、遅くまで作業をともにしながら、睦まじく話しながら、僕らは笑いあっていた。
やがて帰途に着く僕らは、夜道で手を握り合って、小さい歩幅で、惜別の恋人のように、ゆっくりと歩いていた。
そのすぐ横を、春美先生が車で素通りして行った。
僕は藍の横顔を見ていた。
藍は僕の横顔を見ていた。
春美は、ライトに照らされた道の先を見ていた。僕と春美は、同じ方向を向いていなかった。
僕と藍はそうやってしばらく付き合い始めるのだが、程なく喧嘩別れをしてしまう。どちらが悪いかは一目瞭然だった。僕の二股が原因。どちらも好きだったのに、どちらとも別れることになってしまったのだった。もう一人の女性のことはよく覚えていない。
しかし、僕と藍がそれから口を利かなくなってしまったのは、夢の中では、事実だった。
僕は一人になった。
やがて、高校を卒業し、紆余曲折を経て藍と僕は、地元の同じ大学に進学することになった。
もちろん、卒業式に春美先生に告白もしなければ、別れの言葉も言わなかった。まったくの違うベクトルの中で、僕らは生きていた。
僕も、藍も、春美も。
月日は流れ、夢の中の僕らは、近くても遠い、矛盾した人生を過ごすことになった。だが、僕と藍は同級会で再会した旧友に、背を押される。途中で消えてしまっていた導火線に、再び点火することになった。僕と藍は、今までの矛盾を晴らすかのように、互いの若き日の郷愁に思いを寄せた。
そして、僕と藍はそれをきっかけに旧の鞘に収まることになる。
二人で街中を闊歩して、食事をしたり、映画を観たり、コンサートに行ったり。恋人なら当然の、確かな、ささやかな幸せだった。僕ら二人はそれを感じあっていた。
その最中、僕は、藍が手洗いに行く、と言ったので彼女を待っていた。
突然、僕は、後ろから来た人に、振り返りざま衝突してしまう。
春美だった。
僕が頭を下げながら丁重に謝ると、春美は僕と目を合わせようともせずに、手で大丈夫と合図して、またどこかへ行ってしまった。僕はそんな春美を母校の先生であることすら気づかずに、すぐさま意識をどこか遠くへ追いやってしまう。
もはや春美は、ただの他人だった。
界隈で徒党を組んでいる人間と、同種の存在だった。自分にはなんらの影響すら及ぼさない、ただの路傍の石。僕は、自分自身に何度も春美を呼び止めるよう促そうとはするが、夢の中の麻斗は、僕の言うことには耳すらかさず、ただ手洗いから出てくる藍を待つのみだった。
藍が出てくると、そこにはもう春美の記憶すらとどめていない僕が、藍と一緒にデパートの中へ消えていくところだった。
……そんな夢だった。
僕が落ちた瞼をあげたのは、瞼を貫通する光線があまりにも眩し過ぎたせいだ。瞼を通す陽の光は、毛細血管を通過しているせいか赤く、そして白く、淡かった。僕はその先に人影を見たが、それが誰であるか判明する前に、人影は窓の外へ逃げていってしまった。景色の輪郭がはっきりしてくるころには、人影の先にはカーテンの閉められていないスライドガラスがあるばかりだった。
僕は春美の服を脱ぎ、自分の服を着た。
昨日の自分の行為に軽い羞恥心を覚えてしまったことが、自分の春美に対する残酷さであることの証明だった。
僕は歯にべとつく不快感を払拭するために、洗面所へと急いだ。
――あ、麻斗おはよう。
春美は歯磨きをしながら、いつも開口一番こう言った。口角に白い歯磨きを付着させた格好のまま。
パジャマ姿の寝ぼけた春美を見ていると、今日は休日のような気がしてくる。
僕は、春美愛用のコップに入った青と赤の歯ブラシを見下ろしながら、そう追想した。
春美は、歯が透き通るように白かった。
僕が夜しか歯を磨かないのに対し、春美は朝昼晩といわず、食べ物を口に含んだ後には必ず磨く。洗面所からは、いつも歯を磨く音が聞こえてきた。
――歯は、身だしなみの基本よ。
次に春美は僕の口を開けさせ、歯を覗き込んだ。
――服装、部屋、髪の清潔なんていうものはね、すぐにつくろえるのよ。服だったら、買えばもう新品だし、部屋なら、誰か来たら片つければいいし、髪なんかは自分で洗ったり、美容室行ったりすればいいでしょ。でも、歯は駄目。長年の積もり積もった汚れが歯の輝きを失わせるから。歯を磨く癖をつけていないことが、歯を一瞥しただけで一目瞭然よ。麻斗は、失格。小学校の歯磨きチェックなんかで、夏休みの最終日に、まとめて、適当に印つけたでしょう。
僕は、確かに歯を磨くという行為が億劫だった。春美はそれがたまらなくいやだったらしく、僕がキスをしようとするとき春美は必ず、
――歯は磨いた?
と聞いてきた。そのせいで、いつもキスの味は歯磨き粉の味がした。
僕は、青い歯ブラシをコップの中から取り出して、つぶれた歯磨き粉のチューブをさらにつぶした。中から青い芥子粒の混じった歯磨き粉が出てくる。歯ブラシの毛先に乗せて、くわえこむと、口内にキスの味が広がった。
うがいのときの冷水が、ひどく歯にしみて、痛かった。
――麻斗、先行くわね。後よろしく。
片足で立ちながら、後ろ手で靴の踵を入れる。ドアを閉める直前に自慢の歯を笑みとともに見せ、午後からの講義の僕を置いて、彼女は学校へ出勤した。
今も彼女のはきつぶし、踵の磨り減ったハイヒールが戸口に並べられている。その横には僕のスニーカーが仲良く並んでいた。
下駄箱を空けると、春美の白いミュールが顔を出す。
僕が春美の誕生日にプレゼントしたものだ。
春美は文字通り、飛び上がるほど喜び、決してそれを履かずに、大切に下駄箱の奥にしまいこんだ。時々春美は下駄箱を開け、ミュールを取り出しては、飽くことなく他方向から眺め、またもとの場所にしまった。
僕は、床に無造作に放り投げられているバッグの中に、大学の教材が入っていることを確認すると部屋をぐるりと見回した。
ジーンズのボタンと格闘している春美がいる。彼女は取れてしまったボタンを指でつまんで僕に見せ、
――不吉な予感がするわ。麻斗、気をつけてね。
「ただ、春美が太っただけじゃないのか」
そう春美の幻想に言った。目の前には、テーブルがあった。
春美はいない。
僕は春美がそこにいるつもりでもう一度言ってみた。
「ただ、春美が太っただけじゃないのか」
さめざめとして、心さびしい声の反響が、孤独の部屋をきつく撫でていった。
僕はあの時、どんな顔で春美に言ったのだろう。春美の反応から推測すると、きっと僕は、得意げな顔をしていたに違いない。
「ただ、春美が太っただけじゃないのか」
今度は表情と一緒に言ってみた。
胸がわずかに痛んだ。
この部屋には冷蔵庫があった。レンジがあった。食器棚があった。テレビがあった。花瓶があった。ポットがあった。急須があった。トースターがあった。CDプレーヤーがあった。春美の好きなアーティストのアルバムがあった。壁掛け時計があった。状差しがあった。電話があった。
生活に必要な全てがあった。
なのに、春美だけが足りない。
「行ってきます」
玄関を出るときに、僕は言った。
背中から、春美の明るい声が聞こえてきたような気がした。
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