その男が帝都にやって来たのは、春の訪れと同時だった。
3月初めのある昼下がり。士官学校と帝国軍司令部の間にある図書館のテラスで、何気なく視線を下ろしたアンフィエルは微笑んだ。
「…あ」
黒髪と空色の瞳。軍人の正装で司令部内を歩く青年を、窓越しに見つけたのだ。
本を抱えたまま、アンフィエルは高鳴る胸を抑えて彼を凝視した。
けれどすぐにその姿は遠くなって、一度もかみ合うことのなかった視線に彼はため息をついたのだった。
Spring has Come
中央配属初日は何事もなく終わった。
一日のほとんどを事務仕事に費やし、クローレン・シールーズはようやく帰り支度を始める。ひとけのない廊下を歩きながら時計を見ると、とうに夜中になっていた。
(明日あたり、行ってみるか…)
正門を出てからちらりと振り返る。図書館と大講堂を挟んで隣にある、帝国軍士官学校の校舎を見た。
クローレンが帝都に来たのは、今日の朝だ。まだ恋人には顔を合わせていないから、いきなり現れたら彼はきっとびっくりするだろう。喜んでくれるだろうか、と考えを巡らしながら、口元に笑みを浮かべたときだった。
「…あれ?」
門を出た大通りの片隅に、子どもが群がって集まっていた。子どもと言っても14、5歳の、歳若い少年たちだ。士官学校の生徒と判ると、クローレンはすたすたと近づいて行った。
「こんな時間に、何をしてるんだ?」
「あっ…す、すみません!」
声をかけられた少年は、相手が軍人と知って慌てて姿勢を正す。そのまま敬礼でも返しそうな様子にクローレンは掌を向けて、あくまでも柔和な態度で彼に訊ねた。
「いや、別に咎めているわけじゃない。何か困ったことでもあったのかと思っただけだよ」
少年はその言葉にほっとして、それから眉を寄せている。どうやら本当に困ったことがあったようだ。僅かに躊躇してから、
「実は…あの…教官が、具合が悪くなってしまったようで、…いちおうここまで運んで来たんですけど…」
言いづらそうに白状して、後ろを指差す。子どもたちに囲まれて、路上に大人が一人倒れている。月光をあつめたような長い銀髪を乱れさせ、うつ伏せになるその姿を見るや、クローレンは顔色を変えた。
「な…っ…何をしてるんですかー!?」
「う、うわぁ!」
猛然と駆け寄ってその人物を抱き起こすと、周りを取り巻いていた少年たちが驚いて悲鳴をあげる。それを無視してクローレンは乱暴に腕の中の相手を揺さぶった。
「エル! 貴方というひとは…こんなところで寝たら確実に死にますよ!?」
「んぅ〜…」
ぼんやりと淡い紫苑の眼を見開いたアンフィエルは、とろんとした眼差しでクローレンを見上げて笑う。
「わぁ、クロウさんだぁー♪」
ふわんと微笑む声が甘い。薔薇色の頬も潤んだ瞳も何もかもが久しぶりの愛しい相手のもので、クローレンはぐっと息をつめた。ただでさえ絶世の美女と見紛う美貌であるのに、今のアンフィエルは叩き売りする勢いで壮絶な色香を放っている。今すぐにでも抱きすくめて心ゆくまで唇を貪りたいところだが、言うべきことは言っておかねばならない。
「だぁ♪じゃありません。酔ってますね? 酔ってるんですね!? こんな時間に子どもを引き連れて、一体どこ行ってたんですか!?」
「こどもじゃありませんー。この子たち、今日卒業したんですよ。もう立派な成人ですー」
「それでも子どもです! っていうか貴方は明らかに飲みすぎですッ!」
帝国では15歳を過ぎると成人として扱われる。15歳は国が定めた義務教育を終える年でもあるので、卒業と同時に大人の仲間入りだ。なので、卒業式の日に生徒たちが世話になった教官と打ち上げに行くのは、そう珍しいことではない。かくいうクローレンもその一人だったくらいだ。
そんな記憶をしっかり棚上げして、クローレンはアンフィエルを抱き上げた。弛緩した大人の体とは思えないほどの軽さに眉を寄せると、うっと呻いてアンフィエルが口元に手を当てる。
「…エル?」
「………き、きもちわる…」
「うわー! ちょっ、待ってください! えーと、きみたち、早く帰りなさい!」
いいね!? とあわただしく子どもたちに念押しして、黒髪の青年は駆け去って行った。
「あれが『クロウさん』かぁ…」
「先生、嬉しそうだったね」
「なんか、セレム先生のお母さんみたいな人だったな」
後に残された少年たちがそう噂していたことなど、当然知る由もないクローレンだった。
* *
大通りを外れて、辺りには点々とした灯り以外に何もない。住宅街の薄暗がりを歩きながら、クローレンは両手に抱いた温もりを大切そうに抱えなおした。
「十字路まで来ましたよ。もうすぐですから―――」
「……………くー…」
「寝ないで下さい…!」
がっくり脱力して足を止めると、ぱちんと眼を見開いたアンフィエルは、潤んだ瞳で見上げてくる。暗闇の中で困惑気味に見下ろしてくる空色の双眸を見つけると、ふわぁっと蕩けた笑顔になった。
「えへへー、クロウさんー♪」
「うわっ、と」
ぎゅうっと首にしがみつかれて、驚くよりも嬉しさと恥ずかしさで顔に血がのぼる。細い両足をぱたぱた動かすアンフィエルは、見たことのない天真爛漫ぶりだ。
「酔ってますね? エル…」
「んふふふ。よってないもん。僕お酒つよいもん」
ふわふわと笑いながら、アンフィエルは頬をすり寄せてくる。酒の甘い匂いといい、心臓に悪いことこの上ない。
「一体何杯飲んだんですか?」
「んーと…3? いや、乾杯入れて2杯かなぁ?」
「…酔って変な行動とかしていないでしょうね(脱ぐとか…)」
「してないよ。お話ししてただけだもん、クロウさんのこと」
ようやく二人が辿り着いたのは、同じつくりでいくつも並んだ住宅のひとつだった。白い金属造りの建物は帝都ザイオンには多い住居のタイプだ。箱型の一階建ての家屋は、この辺りでは一人暮らしや若い夫婦などの標準的な住まいである。
ドアの前に立ってクローレンはアンフィエルを見下ろした。
「鍵は?」
「ないよ。なくしちゃった」
「………」
絶句。返す言葉もない。相変わらずの危機意識のなさに泣きたくなった。
「とりあえず、お邪魔します…」
「はーい、いらっしゃーい」
笑いながらアンフィエルはますます強く抱きついてくる。何が楽しいやら解らないが、子どものように懐かれるのは悪い気はしなかった。
真っ暗な部屋に入るとセンサーが灯りをつけてくれる。帝国の住居タイプにもいろいろ種類があるが、帝都では靴のまま上がる家屋が多い。東方では玄関で靴を脱ぐ風習があったので、クローレンには多少の違和感を覚えさせるものだ。
つきあたりのドアがリビングダイニングであるのは知っている。ソファにそうっとアンフィエルを下ろすと、クローレンは彼が握り締めていた鞄を受け取り、自分も荷物を置いた。上着を脱がせようとすると、にっこり笑ったアンフィエルがそれを遮る。
「クロウさん、クロウさん」
「?」
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐって、包み込むようなそれに気をとられた瞬間、唇にあたたかな感触が触れた。
「…エ、ル…?」
舌先で口の端を舐められて、触れるだけの口付けに眼を見開く。まじまじと見つめると愛しいヒトは唇を綻ばせ、手を伸ばして圧しかかってきた。
「うわ!」
フローリングに強か背中をぶつけたクローレンは、抱きついたままアンフィエルが胸元に頬を寄せているのを見て、かあっと顔を赤くした。
「エ、エル…っ」
「…クロウさん…ひどいよ…」
「…え?」
「クロウさんのっ、…ばかぁああぁああっ」
「え、え、え?」
唐突にわぁっと声をあげて泣き出したアンフィエルに、クローレンは唖然とする。わけがわからないまま恐る恐る背中を撫でてやると、しゃくりあげながらもアンフィエルは顔を上げた。
「う…っ…!」
紫苑色の瞳は、潤んで上目遣いの眼差しだ。涙が伝う白磁の頬は薄桃に色づいていて、なんともいえない色気を醸し出している。もともと頼りなげな美貌がますます儚さを増したアンフィエルの泣き顔は、凄まじい破壊力を伴っていた。
(鼻血…鼻血出る…)
「クロウさんのばか…いじわる…ひどいよ、こんなに僕をほっとくなんて」
鼻の下を押さえていたクローレンは、聞き捨てならないセリフに身を起こした。
「放ってませんよ。ちゃんと、中央に来たじゃないですか」
「来るのが遅い! 今日だって、僕ずっと待ってたのに…」
震え声で言うなり、くしゃりと顔を歪める。酒が入っているからなのか、今のアンフィエルの反応は子どものようで調子が狂う。ぽろぽろとまた涙を零されて、慌ててクローレンは彼を抱き寄せた。
「あぁもう…! 頼むから、泣かないでください。どうしたらいいか、解らなくなる…」
「だって…だって…」
「すみませんでした。貴方が、そんなに哀しむとは思わなくて」
ひくりと喉を鳴らして、細い両腕が強くしがみついてくる。普段のアンフィエルならきっと言わないような我侭を、薔薇色の唇はいとも簡単に口にした。
「好き…って、いって…?」
綺麗な銀色の髪を撫でてやりながら、クローレンは低く耳元で囁いた。
「好きです、エル。誰よりも愛しています」
「…キス…してくれる?」
これもまた、普段の彼からは想定できない我侭ぶりだ。
けれど耳まで淡く朱に染めた恋人はたまらなく愛らしかったから、クローレンは苦笑してそれに応えることにした。
* *
アルコール混じりの吐息は甘い。ちろりと覗いた舌先を絡めとると、抱きしめた細い体が僅かに震えた。
「はぁ…んっ、ン…」
「…エル…」
数週間ぶりの感触。
自分の中に歓喜が沸き起こるのを感じながら、クローレンはやわらかな唇を啄ばむように口づける。舌を吸い上げると、きゅっと肩を掴む手に力が入るのが判った。
「はっ、んぅ…クロウ…さ…」
こく、と喉を鳴らしてから、甘い声音がクローレンの名を呼んだ。潤んだ瞳を瞼の奥に隠して、一生懸命に舌を絡めながらアンフィエルは息をつめる。
(多分…ぜったいに…僕のほうが、何万倍もあなたのことが好き)
ほんの一時、一瞬でも、この青年から離れるのは寂しい。こんな苦しさを、切なさを、アンフィエルは今まで味わったことがなかった。
「あ…はぁっ……ふぁ…」
浅く息をついて唇が離れていく。つっと銀の糸を引いたそれを眼で追うと、ふわりと深い青に色を変えた瞳が熱を帯びているのが判った。
(…ぁ…)
ぼんやりした思考に、「欲情」という単語がよぎる。
多分その瞬間、二人は同じことを考えたと思う。
躊躇いがちに伸びた腕が、アンフィエルの細い体をかき抱いた。そうっと首筋にあてられた唇の熱に、ひくんと背筋がしなる。
「あ…ぁ…っ…」
吐息が肌を撫でる感触。睫が震えて、真珠のような涙が零れ落ちた。
「ゃ…熱…い…」
襟元を掴まれ丁寧に脱がされる間、「熱い」とそれだけを口にしていた。
キスされただけなのに、この熱さはいくらなんでも異常だ。まるで全身の血が悦んでいるみたい、とぼうっとしかけた頭で思う。
「エル…」
露になった白い肌に、再びクローレンが口づける。低い声を耳元に吹き込むのは反則だと思いながら、アンフィエルは震える腕を青年の首に回した。
「…エル…俺…」
瞼までもが熱い。全身が蕩けそうだ。
「すみません…後でいくら詰ってくれても構いませんから…だから―――」
鎖骨に舌を這わせてその形を確かめながら、クローレンが何かを囁く。
淡く銀色の睫をふるわせたアンフィエルは―――
「―――っ…」
熱さに負けてそのまま意識を失った。
一気に40度近い高熱を出して倒れたアンフィエルは、クローレンの手によって風邪と診断された。
だいたいが体力のない体なのに、卒業式に向けて無理をおして仕事していたのが響いたのだろう。さらに今日この肌寒いなか、酒を飲んで路上でごろごろしていたのがたたったのだ。
「…だから、クロウさんのせいじゃないからね…」
「…っ…エル〜っ」
そこまでしっかり説明されてもなお、クローレンは泣き出しそうな顔をベッドに突っ伏した。
自分の腕の中でぐったりした恋人を眼にした瞬間の、血の気が引いた感覚を彼は到底忘れられそうになかった。一瞬で頭の中が真っ白になって、それからようやくアンフィエルの異常な熱さに気づいたのだ。それからはもう、意識のない体をベッドに運んだり、氷枕を用意したり、体温計や薬を探したりと甲斐甲斐しく世話を焼いたクローレンである。
「俺がっ…俺が、あんな無理をさせなければ…」
「いや、してないし…それにどっちかというと、僕は今でも無理したいくらいなんだけど…」
「39度8分で何言ってるんですか〜っ!」
体温計を取り上げてクローレンは情けない声を上げた。アンフィエルはといえば、赤い顔でベッドに沈んだまま、唇をとがらせている。
「せっかく、いい感じだったのに…」
「…体を治してからにしてください」
彼とは違う意味で赤くなった顔で、クローレンは恋人を睨みつけた。
それでも身を乗り出して額に口づけたのは愛しさからで、頼りなく細い体が一応無事であってくれたことへの、安堵と感謝の思いも表していた。
じいっとクローレンを見上げたアンフィエルは、すっかりアルコールの抜けた顔で微笑む。
「クロウさん、クロウさん」
「なんですか?」
機敏に顔を上げたクローレンは、今ならどんな我侭も聞いてくれそうだった。
「ここにも」
口元を指差すと、さすがに一瞬躊躇したが、それでもやはり黒髪の青年は、愛する人の願いを叶える。
触れるだけの口づけが唇を掠めて、ついでとばかりに頬にも落とされると、くすくす笑いながらアンフィエルは熱に掠れた声をあげた。
「ねぇ、クロウさん…知ってる?」
「はい?」
「僕の方がクロウさんより、何万倍もあなたのことが好きなんだよ」
「………」
自慢げな声音はまるで子どものようで、ぽかんと口を開いたクローレンはまじまじと彼を見つめ返した。
しかしすぐに口元に笑みを浮かべると、もう一度アンフィエルに覆いかぶさって唇を触れ合わせた。
「…それは聞き捨てなりませんね」
吐息が触れ合う距離で呟いて、紫苑の瞳を覗き込む。
「風邪が治ったら、俺がどれだけ貴方を好きか、体に教え込んであげます」
彼らしくなく自信たっぷりなそのセリフに、アンフィエルは熱のためだけでなく顔を赤く染めたのだった。
3月半ばのある昼下がり。
陽光を浴びる図書館のテラスから、アンフィエルは隣の帝国軍司令部を眺めている。
煌めく窓ガラスの向こうに、黒髪の青年の姿があった。
アンフィエルが手を振ろうとしたのと、青年が気づいて振り返ったのはほとんど同時。
明るく穏やかな空色の瞳が真っ直ぐに自分に向けられて、絡まりあう視線にアンフィエルは幸せそうに微笑んだ。 |