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HTML殺人事件
作:ame*



第13話


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 上り坂の傾斜がある程度になったら、あえて低いギアでペダルを漕いで行くよりも、チャリを押して歩いた方が体力の消耗が少ないし時間的にもそれ程の差は出ない。
 今日はネズミヤに貰った軽いミニベロを持って来たから、それでも比較的楽に上れていた。
 MTBはマウンテンバイクとはいうものの比較的重くできていて、山道を長いこと上るのは疲れる。オフロード向きで頑丈に作られ、サスペンションがついていたりもするからだが、けっこう山奥の林道でも舗装されているし、落ちている木の枝や石に気をつければ車体の軽いレーサータイプでも走れないことはなさそうだった。

 坂が緩くなったので、ルネは、そこからペダルを漕いで行くことにした。走り出したけれど意外とペダルが重い。緩く見えていた傾斜が、実際はもっと急なようだった。
 山道で、こういう事は時々ある。坂を上りきって下りにかかるように見えたのが実はまだ緩い上りで、慌ててギアを低くしたりする。見た目での認識は脚の筋肉ほど客観的ではない。

 たぶん今日一日はチャリに乗っていることになるが、まだ午前中なので、早々と疲れてしまわないよう一番低いギアでゆっくり走る。
 しばらくは脇が農地だったり林だったりしたが、やがて、すぐ傍にあるのが、下にいた時、前方の山中に小さくぽつりぽつりと見えていた家々の一部であることにルネは気づいた。並木のある通りは坂道でなければ郊外のちょっと瀟洒な住宅地といった雰囲気で、家々はゆったりした間隔で並んでいた。企業の保養所の所在を示す標識があちこちに見られる。
 ここは一応別荘地だが住んでいる人もかなりいるらしく、先に進んで行くと庭の手入れをしている人がいたり洗濯物が干してあったり駐車スペースに車があったりで、何となく生活のにおいを感じる家も多かった。

 坂道が一段落している地点でルネはミニベロを停め、デイパックから地図を取り出して現在位置を確認した。大手ポータルサイトにある地図検索で調べプリントアウトしたA4の用紙だ。拡大率が低いものだと建物の形まで描かれているので、ルネが今どこにいるのかよくわかる。

 斜め前の家の2階にあるカーテンが閉められた窓の隅から、ルネに向けられている視線があるのを感じた。ルネがその方向に目を向けても視線が逸らされる気配はなかった。見慣れない人間がいるので警戒しているのだろうか。そういえば、来る途中、ところどころで警備員の詰め所を見かけたが、不法侵入者や空き巣が多いのかもしれない。
 長い間、そこで立ち止まっていると不審に思われるかもしれないので、ルネは先へ進むことにした。それほどの坂ではなかったが、しばらくミニベロを押して歩いた。左側の斜面上方に個人の別荘や住宅というには規模の大きい建造物が見えてきた。敷地が広く、樹木の間に赤い鳥居や塔のようなものが見える。

 進んで行くと、やがて、その建物のある方に入る横道があった。入口に矢印と『瑞穂の会 南箱根道場』という表示のついたポールが立っている。ルネも名前を知っている宗教団体の施設らしかった。敷地の隅か隣に比較的小さな建物があるのは地図に載っている通りだ。
 先に行こうと思っている場所があり、ここは後でまた来る予定だったが、ルネは、その時にわかるよう、辺りで目立ちそうな場所をいくつかケータイで撮っておいた。帰りは下りだから、スピードが出ていると、うっかり通り過ぎてしまうかもしれない。下り始める時、写真を見て確認すれば、その恐れは少ないだろう。

 横道の反対側にある家は1階がガレージになっていて、男が車のボンネットを開けて何か手入れをしているようだった。ルネはあまり車には詳しくないが4WD車だ。大柄だが身体に余計な脂肪はついていない。Tシャツから出ている腕の筋肉は鍛えられているように見える。スポーツ選手がよくかけているようなサングラスを短く髪が刈り込まれた前頭部に挟んでいた。

 その男はルネが近づいて行く時、一瞬顔を向けただけだったが、意識はずっと自分に集中させているようにルネは感じた。
 ルネも視線をダイレクトに向けるのを避けながら男を観察した。前世では爬虫類だったような男だ。体表の気色のよくない紋様で他者を威圧するような雰囲気がどことなくあって、彼の身体を取り巻く空気がそこだけ冷えているのを感じるような気がする。

 ルネはミニベロに乗って走り始めた。坂の傾斜が思ったよりきつくてギアチェンジしたら、チェーンの噛み合いが悪く、音を発したが、男は黙々と自分の作業を続けていた。しばらくの間、背後の男が自分に意識を向けている感じは続いていたが、それは思い込みからくる錯覚かもしれない。

   ********

 5分ほど上ると周囲に家は見当たらなくなり、やや坂が急になった。少し疲れたので押して行くことにする。車が上って来る音がしたのでルネは左脇に寄った。黄色いワーゲンがルネの横で停まり、左ハンドルの運転席から女性が話しかけてきた。
「こんにちは」
 ルネも挨拶を返した。道を尋ねられるのかもしれないが、それ程、この辺りに詳しいわけでもない。プリントアウトした地図を見て事足りるだろうか。
 女性は長い髪を後で束ねていた。フランスかイタリーのブランドぽい大き目のサングラスをかけているので顔の詳細はわからない。
「よかったら乗ってかない?チャリはもう1台OKだし」
 ルーフキャリアを見るとBianchiのロゴが入ったロードバイクがあった。逆さまにして取り付けられているが、普通の状態なら犬が前身を低く身構えているようなデザインだ。どうやら道を聞くのではないようだった。

「いえ、大丈夫です。それに、ちょっと先で横へ曲がるし…」
「そう、まあ自分で上がった方が運動になるしね。じゃあ頑張って」
 遠ざかっていく車の後ろの窓にいくつか並べてあるフィギュアを見て、彼女はルパン3世オタクなのかなとルネは思った。

   ********

 霊園の駐車場に停めてある車は1台もなかった。もう集合時間の10時半を15分ほど過ぎていたから、詩人たちは誰もトリルの墓参に来ていないのだろうか。ルネは結局、ポプラのメールにレスしていないから、日程や時間の変更があって、それは出席予定者だけに知らされたことも考えられたが、やはりあのメールはルネだけに送られたもので、オフ会は架空のものだったのかもしれない。
 霊園は、かなり広くて、トリルの墓を探したら一日費やしてしまいそうだった。ルネは入口の前まで戻って正面にある看板を確認した。

  南箱根天陽霊園

 メールに書かれていた通り、晴れているので富士山の眺めはよかった。3D映像のように背景の空からはっきり浮き出て見えるのはリアルな情景なのだからあたりまえだ。
 ネットで調べてみたところでは、『瑞穂の会』という新興宗教団体の運営らしい。ここに来る途中にもその施設を見かけた。大手の教団ではないが、ルネもその名前くらいは、どこかで見て知っている。
 この霊園を作る時、暴力団を使った強引な地上げが行なわれ、反対運動も起きた。そのリーダーは建設中の建物から転落死し、警察はその事件に事故という結論を出した。
 瑞穂の会に絡んだ詐欺商法を追っていたジャーナリストや、教団をモデルにして批判的な映画を製作予定だった監督なども謎の死を遂げているのだが、どうも身代わりのような犯人が自首したり自殺として片付けられたりしていて、その真相は教団に雇われた暴力団による殺人であるとか、背後に存在する某国工作員の仕業だとか、ちゃんねる・ぜろのような巨大掲示板や陰謀史観好きのブロガーの間では、まことしやかに囁かれていた。

 ルネはプリントアウトした地図を取り出して、場所に間違いがないことを確認した。メールに添付されていた画像は簡単なものだったので、地図検索でも調べてみることにした。
 そして、何気にアドレスバーのURLに目がやった時、ルネの頭の中で閃いたものがある。それは、ぽえ村に赤土が投稿した『エディプスの父』という作品についてだ。
 抽象的あるいは実験的な詩のようにも見えた。

pl?nl=35.5.11.922&el=139.0.11.467&la=1&sc=3&prem=0&CE.x=273&C……

 これはURLではないだろうか?

 地図を検索している時、アドレスバーには長いURLが表示されている。サイトによって異なるが、だいたい、その冒頭にあるのはトップページのURLか、その中のディレクトリまでで、後に文字の長い羅列が続く。mapのような単語やpremのような省略形らしいものも含まれていて、後は数字やアルファベットや記号がランダムに並んでいるように見えるが、たぶん、範囲などによる規則があるのだろう。

 ルネは、地図検索サイトを回って、適当に表示した地図のURLから冒頭の部分の後をドラッグし、『エディプスの父』の内容を貼り付けてみた。
 何ヶ所かで繰り返しても、そのURLは存在しないというページに飛ぶだけだったが、あるサイトで試してみると地図が表示された。その中心を示す“+”の場所は、南箱根天陽霊園と数キロしか離れていない。たまたまなのかもしれなかったが、ルネは、それがちょっと気になった。
 偶然というのは時に、ある大きな世界の意志の現われであって、自分を呼んだりメッセージを送ってきたりする。勘違いすることもないとはいえないが、たいしたリスクがないのなら、それに従ってみるのもいいだろう。
 梅雨も近いことだし、とにかく天気のいいうちに伊豆の山を走っておこうかとルネは考えた。

 駐車場の一角に2メートル四方程の係員詰め所があったが、中には誰もいなくて、ちょっと出かけているような様子でもなかった。ビデオカメラが何ヶ所か設置されているが、詰め所の窓から覗くとモニターには電源が入っていない。だが、どこか別の場所から監視しているのもあり得るだろう。

 駐車場の出口方向のちょうど向かい側に看板が立っていた。

リゾート・レストラン みどりの杜 →6km

 メールには“墓前には昼頃までいて、その後、近くのレストランにて会食する予定”とあったが、ここなのだろうか。6kmというのは、ちょっと遠い感じがするが、来る途中でも別荘地の中で店舗のようなものを一軒も見なかった。行けない距離ではないが、墓参オフ自体が中止や延期、あるいは、架空のものだったのかもしれないし、詩人たちと顔を合わせて、どうということもない。
 考えてみれば、ネット詩人という連中の中で、オフで会ったのはトリルくらいだとルネは思った。あと、源さんが赤土というHNの人物なのかもしれなくて、それと、たまたま顔を合わせたsasuraibitoもネット詩人には違いない。

 ルネは、先ほど前を通って来た、もうひとつの目的地に回ることにした。

   ********

 時折、西の方向の視界が開けると、駿河湾が見える。道幅は普通車がかろうじてすれ違えるくらいか、それが無理なほど細いかだ。初め上って来た両側1車線の道に戻るまではアップダウンの繰り返しだが、帰り道だから、ある程度要領はわかる。
 下りでつけた加速を生かしてギアを下げながら上って行くと、急な坂でも、けっこうスピードがついたまま越えられるものだ。
 ある程度勝手がわかっている道なので、アップダウンが多く曲がりくねっているが、だいたい20km/hを切ることなく走れていた。直線の下りがしばらく続けば50km/h近くまで行っているだろう。
 もっと出せないことはないが、慣れない所だし、舗装されているといえ小石がかなり転がっているので程々にしておいたほうがいいとルネは思う。車や人が通るのは、多分、一日にに数えられるくらいだろうから、路上ならまだしも、カーブを曲がり損ねて崖下に落ち、動けなくなったりしたら、白骨になるまで見つけられないこともあり得る。

 後方で車の音が聞こえるが、カーブの間隔が短いので振り返っても姿は見えない。そんな状態は数分続いていた。路面に30キロ制限の表示があるが、そうでなくても、この道では、あまりスピードを出せないだろう。
 ルネは平均30キロ程度で走っているから、車はなかなか追いついて来られないようだった。

 やがて、かなり大きくなった音に後を見ると、車は50メートルほど後ろまで近づいている。ルネは少し脚の回転を少し早めた。傾斜の具合に応じてギアを変える。
 これくらいなら車は追い抜く必要がないだろうと思っていたが、向こうもスピードを上げ、20メートルくらいのところまで近づいて来た。上りの傾斜が少しきつくなる。ルネのミニベロは、やや遅い走りになったが、車はそのままか、あるいは少し加速したように思えた。自分が遅くなったためにそう感じるのかと思ったが、そうではないようだ。ルネは左脇の側溝ぎりぎりまで寄って車を先に通そうとした。だが、車は右に移動して抜いて行く気配を見せない。車との距離は次第に狭まり、あと数メートルになったが、以前として右に出る様子は示さなかった。
 運転者がルネに対して殺意を抱いているのは間違いないと思われた。



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 前方に車がすれ違うための待避所が見えてくる。左側の崖が、すれ違うために車1台分くらいのスペースだけ抉られているのだ。ルネがそこに飛びこんだのは車に追突される寸前だった。
 車も急ブレーキで止まる。乗っているのは来る途中で見かけた爬虫類のような男だった。車も、あの時、彼が手入れしていたものだと思う。
 男がこちらに顔を向けた時、ルネは、蛇が一瞬舌を出すのを見るような、いやな気分が身体に広がるのを感じた。
 だが、そこでもたもたしてはいられない。ルネは待避所の前方と車の間隙から前に出た。前ブレーキをきつく握ったので、スピンターンした格好になる。車の右側を抜けてもと来た方向に走った。下りなので加速して行き、コーナーで車を振り返ると方向転換にてこずっているようだった。
 そのまま夢中で走り、横道があったので、そちらに曲がる。車がやっと通れるくらいなので、あの爬虫類も追って来づらいだろう。けれどもルイは、できる限りの速さで走った。
 斜め上に道路があるらしくて、そこを白のセダンが走っていくのが見えた。この道を行けば、あそこに出られるのだろうか。人目のある場所に行けば、爬虫類も危険な真似はできないだろうと思い、ルネはひたすら走った。道というのは、どこかで繋がっているものだ。

 道路の見えた方向へ横道を登っていくと、背後から車の音がだんだん近づいて来た。爬虫類が追って来ているようだ。自分の脚力でめいっぱいスピードを出せるレベルのギアより下げず、必死でペダルを踏む。ミニベロで来たのは正解のようだ。車体が重めのMTBだったら、うまく上りきることはできなかったかもしれない。 
 酸欠状態で頭の中が真っ白になった時、何とか交互1車線の道に出た。周りの様子に見覚えはないので、初めに来たのを更に上がった所だろう。ルネは下り方向に曲がった。
 爬虫類がなぜ自分を襲撃してくるのかはわからないが、ところどころに人家があり車も通る道に出たので、あまり露骨な行動はできないだろうというルネの希望的な考に反して、4WD車は彼の後をしっかり追って来た。10メートル程の距離でぴったりついているが、カーブが多いので。それ以上近づけない。
 100メートルくらいの直線に近い区間に入ると背後のエンジン音がトーンを変えた。次第に近づいているのがわかる。追突される寸前にルネは歩道に乗った。幅1メートルくらいだが、近くに歩行者は見当たらない。4WDはルネと並走するかたちになった。
 横道やガレージの前では歩道に段差がある。ルネは、再び歩道に乗る度、ハンドルを引き上げるようにして前輪を浮かした。縁石の角でパンクするおそれがあるし、この方がスピードも落とさないまま行ける。
 横の4WDをじっくりと見ている余裕はないのだが、ルネは男が薄笑いを浮かべているような気がした。獲物を追い詰めた蛇やオオトカゲがするような表情だろうか。もっとも、爬虫類が笑ったりするかどうかはわからない。

 下りが終わり、その先は上り気味で右のカーブだった。ギアは前も後もいちばん上になっていたので、ルネは、いくらか下げようと思った。ちょうど横道があり、段差をいつもの要領で越えたが、タイミングが悪かったらしくチェーンが外れる。
 加速がついているので、すぐにスピードが落ちることはなかったが、4WDは相変わらずルネの横にぴたりとつけていた。停まってチェーンをかけるだけの時間的余裕があるだろうかとルネは考えた。
 男は降りてくるかもしれない。筋肉質の身体で、格闘技の心得があるか喧嘩慣れしていそうな感じだったし、何か武器をもっている惧れもあった。そのまま車を歩道に乗り上げ、ルネを轢き殺すことだって遣りかねないだろう。

 その時、車を挟んでルネと反対側に自転車がいるのにルネは気づいた。ロードバイクのようだ。開けられていた車の窓に何か投げ込むと滑るように加速し、カーブの向こうに姿を消す。さっきのワーゲンに積んであったのと同じビアンキで、ヘルメットの後から出ている束ねた長い髪が見えた。
 男は何か叫び声を上げ運転席に蹲った。車の走行が少しブレているように感じたので、ルネは急ブレーキで停まる。男はドアを開けて筒状のものを外に投げ出すと、激しく咳込みながら大きく上半身を出し、深呼吸しているように見えた。前方を見て、慌ててハンドルを取り直したようだったが、ガードレールに激突する。車はひしゃげたガードレールを乗り越え、その時、開いているドアから男が放り出された。車も男も向こうの崖下に落ちたようだ。

 ルネはカーブまでミニベロを押して歩いた。ブレーキを踏む余裕はなかったらしく、タイやのスリップ痕はなかった。
 赤いコーンがふたつ倒れていた。数個置かれていたと思うが残りは車と一緒に崖下に落ちたのだろう。行きに通った時、見た感じでは、道路の端に亀裂が入っているので注意を促しているようだった。ガードレールが車を止められずに壊れてしまったのは多分そのためだ。
 路上に催涙スプレーの缶が転がっている。ノズルを押したままで固定する器具が取り付けられていた。風に乗って漂ってくる刺激臭を感じる。
 ビアンキが引き返してきた。やはり、サングラスもさっきのワーゲンの女性と同じのだ。ルネに向かってちょっと微笑したように感じたが、そのまま、もと来た方向に、かなりの速度で走り去った。

   ********

 ルネは道路の端まで行って崖下を見た。2・30メートル下に木々が見える。ガードレールが壊れているので、身を乗り出すと、身体の深奥から冷たい微動に似た恐怖の感情が全身に広がり、呼吸が圧迫されるような気がした。
 丈の高い樹木の中に落ちたので、初めは車がどこにあるのか見定められなかったが、目を凝らして見ていくと枝や葉の隙間から微かにその存在を認められる場所があった。だが、何も知らない人間だったら気づかないかもしれない。
 男がどこにいるかはわからなかった。木の枝がクッションになって命を取り留めているかもしれないが、そういう可能性もあるということだけだ。

 ルネはケータイを取り出し、来る途中に撮った写真を確認した。赤土の『エディプスの父』という意味不明な文字の羅列のような詩に隠されたメッセージが、地図検索サイトで、ある場所を指定しているものだとすれば、その位置は、あの辺りになる。ルネは走り始めた。
 警察や救急に連絡するのはやめておいた。どういう理由でかわからないが、襲われて生命の危険に見舞われたわけだし、事情を聞かれても説明のしようがない。裏に何があるか、どんなものが絡んでいるかによっては面倒なことになりそうだった。
 ちゃんねる・ぜろやネット上にしばしば書かれていることだが、警察というのは現在の世の中の秩序を維持することを第一に動くので、時と場合によっては真実や個人など、無視されたり踏みにじられたりもするようだ。だからルネに落ち度がなくても味方になってくれるとは限らなくて、状況次第ではどういう対応をされるかわからない。助けてくれたビアンキの女性にだって、何かと面倒なことが起きるかもしれない。

 しばらく坂を下ると、さっき曲がった霊園への横道があった。周囲に見覚えがあるので表示板の文字を確認する必要はないだろうと思う。
 瑞穂の会の施設が見えてくるまでに何分もかからなかった。上った時と下りるのとでは時間に格段の差がある。

 入口の向かい側のガレージに車はなかった。やはり、さっき襲ってきたのは、ここにいた男なのだろうか。
 対向車も後続の車もないので、下りで得た加速をなるべく減らさないよう、左の小道に入る。その先はやや急な上りだが勢いがついているので、そのまま200メートル程20k/hで上がり、道が右へ折れる所まで行って、ルネはミニベロから降りた
 大通り沿いは、だいたい区画ごとに家が建てられているが、奥に入っていくと土地所有者の表示だけがある更地が目につく。競売のボードが立っている敷地もあった。

 瑞穂の会の施設の正面は、近くに来て見ると寂れた印象だった。エントランスに敷かれている大理石には土埃が風紋を作っている。前面一面のガラスも汚れていて、人の出入りがあるような雰囲気はなかった。建物に破損があるわけではないが廃墟の一歩手前と表現しても間違いとは言えないだろう。

 建物の前を通り過ぎると胸ほどの高さの金網のフェンスが続く。下の道路から見えた塔も、近くで見ると塗装の剥げかけた部分があって、縦長の倉庫のような感じだった。
 ルネがフェンスに沿ってさらに進むと、塔の側面の窓が開いていて、そこから外を見ている男の顔が見えた。室内は暗かったが、むしろ、その男から陰鬱な何かが流れ出して、空を陰画に変えている。彼は無表情だったが、まるで、世界に向けて人間の脳や思考を攪拌する電波を発しているように、ルネには思えた。

 さらに進むとフェンスは向こう側に曲がっていて、それに沿った小道がある。行く手の左にある建物の屋根は太陽光発電の装置で埋められていた。教団の敷地の外だから施設の一部ではないらしい。個人の別荘や住宅としては、やや大きめの作りだった。
 100メートル先でフェンスは終わり、そこからは生垣になっている。さらに進むと道の左側は一面に芝生が植えられていて、ところどころに外灯が立っていた。その先には池がある。
 周囲の様子からルネは、もしかしてゴルフ場の中に入って来たのだろうかと思った。池の傍に、電動車椅子に座った老人がいる。ルネが近づくと老人は振り向いた。
 車椅子を使ってはいても、それほど身体の弱い感じには見えなかったが、精悍な顔立ちだからだろうか。血色もよく、痩せても太り過ぎてもいない。
 ルネは私有地に入ってしまったのかと思った。通って来た所に鎖は張られていなかったけれど車止めがあったのだ。
 引き返そうとするルネに、老人は「いいよ」と言った。

「すみません。ここは私有地ですか?」
 ルネは老人の脇まで近寄って尋ねた。
「まあ、そうだが、構わないよ」
 老人は肘掛についているレバーを操作して、ルネのほうに向き直った。間近で見ると彼は、老人とは言ってもその表情からある種の精神的な力が感じられ、また、車椅子に乗ってはいるものの身体に弱々しさは見られなかった。

「なかなかいい所だろう。わたし一人で眺めるには勿体ないよ」
「ええ」とルネは答えた。
「いい自転車だね」
 ツーリング先で会う人は、社交辞令でよくこんなことを言う。
「これで下から上がって来たのかね?」
「ええ、函南駅からです」
 そこまでは輪行で来て、それから霊園まで上がったのだが話が面倒だし言う必要もないだろう。
 老人は「ほう」と頷いた。
「なかなか大変だったろうね。まあ、普通の自転車とは違うだろうけど」
 彼はミニベロの小ぶりのタイヤやサスペンションや変速機に、順に目をやっていた。
「学生かね?」
「昔は。もう、行ってませんけど」
 ルネは若く見られるらしいから、よくされる質問だった。
「まあ、私も昔は学生だったがそうか、社会人か。いずれにしても、若い人はいいね」
 老人は苦笑して言ったが皮肉ぽい口調ではなく、むしろ、ルネの答を愉快に思っているようなので、ルネは安心した。初対面で相手がどんな人物かわからないと、ジョークやユーモアの通じないこともある。
「自転車の選手なのかね」
「いえ、競技とかはやってません。自分で好きに走るだけです」
「でも、函南からこれで上がってくるというのは、いくら若いにしても体力があるね。他のスポーツは何かやってたの?学生の頃なんかは…?」
「いえ、体育会みたいな雰囲気は好きじゃないので」
「そうか、なるほど」
 老人は頷くと、また楽しそうに笑った。

 老人は、それ以上ルネの身辺について尋ねることはなく、それは無関心というより旧知の関係であるからといった感じに近かったような気がする。ひとしきり、この地域の季節による変化や植物や旧跡について話した後、老人はルネに尋ねた。
「ところで君、食事は、もう済んだかな」
 デイパックの中にコンビニで買ったおにぎりがあったが、さっきのごたごたがあったので、まだ食べていない。ルネはこれから、どこかゆっくりできる場所へ行って食べるつもりだった。だが、彼が辞退するより先に、これも何かの縁だからと老人はケータイを取り出し、登録してあるらしい番号に電話をかけた。
「あ、シェフ?食事をもう一人分用意してもらえるかな。それと、若い人だから、酒と何か料理も考えてくれますか?」

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 老人はルネを家の中に招き入れた。エントランスへは数段の階段を昇ったが、老人は横のスロープから入る。ドアは横開きの自動だった。内部も、段差のあるところには横にスロープがつけられていて車椅子でも不自由しないようになっていた。
 老人は奥にある12畳ほどの部屋のドアを開けると、ルネに入るよう促し、後から自分で手際よくドアを閉めた。

 室内はロココ調というのだろうか。けっこう手のかかった造りになっている。部屋の中央には大きな丸テーブルがあって、ルネは勧められた椅子に掛けた。老人の定位置らしい空けられたスペースがあって、電動車椅子はアクションゲームの画面の中のように、スムースにそこへ滑り込んだ。

 老人はルネに、間もなく料理が来るので楽にしているようにと言ってから、テーブルにあったリモコンを取り上げ、ボタンを押した。
 部屋の壁面のひとつはスクリーンになっていて、そこにプロジェクターから投射されたのは映画のようだった。ルネは初対面の人物の家に招き入れられたので何となく落ちつかず、室内のあちこちに目をやったりしていた。

 しばらくしてノックがあり、中年の男性が料理を乗せたワゴンを押して入ってきた。料理人の白いコスチュームだった。彼はテーブルに料理を並べたが、老人の前には深めの皿とオードブルのようなものだけで、ルネの前にはそれに加えて数点が置かれた。
 料理人は前掛けのポケットからソムリエナイフを取り出し、ワインの栓を開けた。老人が簡単なテイスティングをしてから、それぞれのグラスに注がれる。
 テーブルの上をチェックするように見回してから、彼は老人の脇に立って言った。
「先生、それでは私は店の方がありますので」
「ああ、ありがとう。今日は送らなくていいのかな?リューテナンは、出かけていて、まだ帰ってないが」
「はい、今日は自分の車で参りましたので。十国峠を通って御殿場インターの方へ、ちょっとドライブして帰ります」
「そうかね。まあ、いい気候になったことだしね。それじゃあ、気をつけて」

 料理人は退出し、老人はルネに料理を勧めて、自分もリゾットの皿にスプーンを運んだ。
 自分は身体が弱っているのでこんなものしか食べられないのだがフォアグラが入っている。今帰った男は一流の料理人だ。彼とは長い付き合いで、時々ここに来て腕によりをかけた料理を作ってくれる。代官山に店を持っているオーナーシェフだ。小さな看板があるだけで、知らない者は、そこにレストランがあることなど気づかないようなところだが上品な雰囲気で、ちょっと値段は張るが、もちろん料理は美味くて、でも、若者がカップルで行ったりすると気詰まりな感じがするかもしれない。そんなことを老人は話した。
「いわゆる“セレブ”のための場所ですね。」
「でもまあ、君が、そういう場所でさまになるような日は意外と早く来るかもしれないよ。初めウェブデザインをやっていた若者の企業が、瞬く間に時価総額数千億円にまで成長するようなこともあるわけだし」
 話題が自分の仕事に及んでいるような気がするのは偶然なのだろうかとルネは思った。もしかして、この老人は自分についての予備知識をもっているのか…?
「インターネットなんて、それほど儲からないんじゃないかと僕は思ってたんですがね。でも、大きく伸びてたりする企業もあるし」
「そう、目立つ割に実入りは少ないようだ。というか、有名どころが実は赤字経営だなんて噂も流れてたりする。君はなかなか頭がいいね。世の中のことがわかってるようだ」
 年配者はよく若者に“君は頭がいい”という社交辞令を使う。ルネはそんなことを考えたが、老人は話を続けた。
「ネットの人目につくところで景気がよさそうにいろいろ仕事をしていれば、特に先端のITなどというと、多くの人間にはそれらしく見えるものだ。というか、儲かる儲からないよりそういう綺麗な看板を出していることが重要なんだよ。そうすれば、欲に目の眩んだ投資家たちの金をかき集められる。いとも簡単にね」

 老人はワインを一口飲んだ。目を閉じて全神経を舌と喉に集中しているかに見えたが、やがて満足げな表情に変わった。
 ルネも勧められてグラスを取った。酸味や甘味やフルーティーな濃度によって感覚の深奥の微細な領域までが虜にされ、最後にアルコールの優しい陶酔が身体の中を昇って行く。銘柄などはよくわからないが、かなりの高級品なのだろう。

「あのう、もしかして作家の方なんですか?いえ、先ほどのシェフの方が“先生”と呼ばれてましたので」
 沈黙が続くのを避けるため、ふと頭に閃いたことをルネは質問してみた。この老人は知識も豊富なように思える。
「私はそんなインテリに見えるのかな?」
 老人はいかにも愉快そうに答えた。
「それとも、君は作家志望…?そう言えば詩など書いてたみたいだね」
「よくご存知ですね。ネット上で披露してただけで、最近は書いてませんが」
 やはり彼は、自分のことをいろいろ知っているみたいだとルネは思った。
「残念ながら、私には、それほどの文才がないよ」と老人は穏やかな口調で言ったが、その裏に謙遜を隠しているのではないようだった。
「先生といえば他には何だろうね。教師はよくあるとして、医者…弁護士…政治家…」
 老人は半分ほどになった自分のワイングラスを指して、自分はいつもこれだけにしているから後は全部飲むように言って、若いからいいだろう、と付け加えた。ボトルはルネの近くに置かれている。
「ああ、そうだ。君は政治家になるのもいいね」
「え、政治家ですか?」
 ルネは少し笑った。意外な話の展開だし、そんなことは考えたこともない。老人は話を続けた。
「今、非凡な頭脳をもっている若い人たちは、どんな道を目指すのだろうね?少し前なら音楽や文筆といったところだったかな。今は、やはりコンピューター関係なんだろうか」
「それだと、今はゲームデザイナーかもしれませんね」とルネは答えた。
 なるほど、と老人は頷いて、君は世の中のことがなかなかよくわかっていると再び言った。
「優秀な人間が集まるところは競争が激しいからねえ。馬鹿しか集まらない分野なら、上に行くのが簡単だ。ま、それなら何と言っても政治家だろうと私は思うね。今時、政治家になろうなんて本当に阿呆な奴しか考えない。ちょっと頭がよかったら、もっと他のことを考えるだろう。だから政界には、他人から先生と呼ばれて優越感を感じ横柄な態度でいるのが大好きだが何の能もない奴ばかりが集まる」
 だから、むしろ入って行くのは簡単だ。ルネがその気ならレールを敷いてやれれないことはない。ただ、下の方だと金集めにけっこう苦労する、と老人は言った。
 ルネは笑って、その気のない事を伝えた。
 この老人は政界あたりの、いわゆるフィクサーなのだろうか。それなら先生と呼ばれるのもおかしくないが…。

   ********

 ドアがノックされた。老人が応えると初老の女性が一歩だけ部屋に足を踏み入れ、一礼した。
「先生、それでは、また夕方参りますので、ここはその時片付けますね。買い物して参りますが、何かご入用の物がございましたら…」
 今日はこれといってないと老人は答えた。
「はい、さようですか。隣の総裁先生にも伺ってみた方がようございましょうか?」
「いや、もう自分の身の回りのことだって何もわからなくなってるだろうし。聞いてもしょうがないだろう。人間が壊れてしまってるからね。あんたも、あの男の近くに行くのは気味が悪くないかい?」
 女性は困ったような顔で「いいえ、まあ」と曖昧な返事をした。外に出て一礼し、静かにドアを閉める。

「そうだ。先生といえば宗教家もいたね」
 老人はリモコンを操作してカーテンを開けた。
「ここへ来る時、隣にある塔の窓から、ぼんやり外を眺めてる男を見なかったかな。一日中、あんなふうに呆けてるんだが。あれでも“瑞穂の会”という宗教団体の3代目教祖だよ。知ってるかな?」
「名前を聞いたことはあります。何だか古臭い主張のところで、ちゃんねる・ぜろなんかで、けっこう叩かれてたりしますね」
「うん。ま、ぼんぼん育ちには荷が重過ぎたのかもしれないな。教義が時代とかけ離れて会員数は減り続け、新しい試みをすれば古くからの信者の反発を買う。身内から崇め奉られていたので自分はレベルの高い人間と思っていたが、ネットの掲示板に踏み込んだところ論破され罵倒されて自信喪失。それやこれやで奇矯な行動が目立つようになり、それで、今はあそこに幽閉状態だ」
 ルネはカーテンの開けられた向こうに目をやった。男はさっきと同じように塔の窓から外を見ている。
「あの窓から外を見てるのは魚田冬麿という男だ。瑞穂の会は魚田鎌足という彼の祖父が始めて、鎌足の奴はまあ、若い頃は文学を志してたりしたし口が達者だったな。思いつくままに喋り、自説に矛盾が出そうになると、それを糊塗するためにまた出任せの作り話をする。だが、その過程で自分の言ったでたらめを真実だと自分で信じ込んでしまうんだ。人間は死ぬという想念をもつから死ぬのだ、と口癖のように言っていたが、結局、自分も老いさらばえて病の床に伏し、死んでいった。それで今はトップがあんな状態だし、信者の数は減る一方だ。実は他の教団に事実上乗っ取られ、そのダミーになってしまってるんだがね」
 老人はルネに、魚田鎌足に関する裏話をいくつか披瀝した。東京の大学に入った時、下宿に郷里の女性を呼び寄せて同棲したが、それが実家にばれて仕送りを止められてしまった。鎌足が大学を中退しなければならなかった理由は、実はそういう事だ…、などという内容だった。
 向かい側の壁と天井の境目辺りを見つめ、老人は回想しているように見えた。初代教祖と知り合いだったのかもしれない。
「人間は、超自然的なものを信じたがる傾向にある。肉体に、いつか死が訪れることは否定のしようがないが、自分の存在がそれで全く終わってしまうとは認めたがらない。自意識が並外れて強い人間ほどそうだね。だから、浜の真砂は尽きても新興宗教の種が尽きる事はない」

 老人は「ああそういえば、冬麿も作家志望だったようだ。鎌足と同じだね。何かの因縁かな」
本も出したが、多分たいして売れなかっただろうな。義理で買う信者は多少いるはずなのにと笑った後、今日は楽しいからと、ルネにもう一杯だけワインを注いでくれるよう所望した。
 「ああ、そうだ。さっきの話の続きをしよう。少し部屋を暗くするが、いいかな」と言って、老人は部屋の証明を落とした。
 スクリーンの映像は鮮明になり、リモコンで音声も上げられた。

 チャイナドレスの女性と旧日本軍の将校らしい男性が小舟に乗っている。風景からそこは中国のように推測された。
 映画のテーマらしい音楽が流れる。やはり中国を思わせる旋律だ。ルネは聞き覚えがあった。昭和に活躍した作曲家が書いたもので、何人かのJ-POPのアーティストがカバーしているから、若い世代にも馴染みがある曲だ。

「かつて私は、こんなものにも関わっていたんだよ。監督や脚本家はそれぞれクレジットされている通りだが、筋書きをはじめ多くは私の考えで作られている」
「映画のプロデュースですか?凄いな」
「プロデューサーというより、映画会社を経営してたんだがね。でも、日本の外でのことだ」

 ルネは、そのテーマ曲が気に入っていたので、CDの解説を読んでいた。第2次大戦前に作られたと書かれていたように記憶している。当然、映画もその時期だろう。70年か、もうちょっと昔のことのわけだ。今流れているのはリメイクなのだろうか。しかし老人は、自分が筋書きを考えたと言っていた。
 老人はルネが怪訝な表情をしていたのに気づいたらしい。
「私の歳はいくつに見えるかね」
 ルネはあらためて観察した。老人は視線を合わさず、ルネのするがままに任せている。
 顔の皮膚は血色がいい。痩せた感じはあるが、それほど体力が衰えているようには思えなかった。車椅子は病状などで一時的に使っているのかもしれない。ある程度の年齢になれば老化にはかなり個人差が出てくるから、見かけでは判断できなかった。

「私が生まれたのは19世紀だよ」
 老人はルネぼ反応を楽しもうと待ち構えているかに見えた。
「関東大震災の頃には君くらいか、もう少し上の年齢だったかもしれない」
 老人は遠い所を見るような目をしたが、具体的には、それ以上何も語らない。
「そうすると。でも、それでは…」
 単純に計算しても、百歳をかなり超えていることになる。
 老人は微笑を浮かべながら頷いた。
「ま、百年以上も生きていると、さすがにパーツのいくつかは交換せねばならなくなるがね」
 自分の腹部に視線を向け、そこに右手を置いて彼は続けた。
「臓器移植というやつだよ。三つほど元気なのと取り替えてる。こちらの眼は角膜も取り替えた。血液を全部入れ替えたりもしている」
 それが、もし本当だとしても、日本の普通の医療で、そんなことをやっているのだろうかとルネは疑問に思った。
 老人はルネの考えを察したのか、こう付け加えた。
 「ま、昔からの縁で、そういう商売の連中の頼み事をを聞いてやることもあるから、これは役得とかキックバックというやつかな」
 それから彼はルネを一瞥したが、彼に何かの反応期待しているのではないように見えた。
「ま、別に信じなくてもいい、というか、表に出したくはない事だしね。でも、昭和史の裏側について書かれたものなど読んでいくと、けっこう私の名前を見かけたりするようだ」

   ********

 その時、着信音が鳴って、老人はケータイを取り出した。
「え、リューテナントが?そうか。ううん仕方ないね。どういう経緯でそうなったかはだいたいわかるが、これは、まあ、事故だね。そういうことにして所轄には適当に処理させよう」
 通話が終わったらしく、ケータイは折りたたんでテーブルの上に置かれる。
「私が使っている者が早合点して、君にちょっと失礼があったようだが」
 ルネには電話の内容が想像できた。たぶん、自分を襲ってきた爬虫類のような男の事だろう。老人はルネに対する怒りの感情をもっているように見えなかった。それからも、ただ淡々と語った。
「彼は君が私のことを探っているジャーナリストか何かだと思い込んだらしい。下で写真を撮ったりしていただろう?」
 ええ、とルネは頷いた。
「ま、ここは、いうなれば治外法権みたいな場所だからね。来る途中で警備員の待機所を見ただろう?この地帯の分譲と管理をしている企業が警備会社を雇っていて、ほとんどの事はそちらで処理されるから、特に呼ばなければ警察は入ってこない。君は何も気に病む必要はないよ」
 老人は男の生死や怪我の状態について何も語らなかったが、むしろそのことが彼にとって最悪の結果であることを暗示しているように思えた。

「あ、メールが入ってるみたいなんで、ちょっと失礼します」
 老人に断りを入れてルネは携帯を取り出したが、電源を切っていたしメールの着信があったわけでもなかった。老人が言った“リューテナント”という言葉が気になったのだ。ルネを襲って崖から転落した爬虫類のような印象の男をこう呼んでいたが、どんな意味なのだろうと思ったのだった。

 カタカナで携帯サイト検索してみたが、出てくるのは人名や地名でどうも要領を得ない。それで、次に辞書サイトにメールすることにした。subjectにdefineと調べたい単語とを入力して空メールを送ると、英英辞典による意味などが返信されるサービスで携帯にも対応している。
 スペルがわからなかったのでreutenantで調べたが「No definitions found for "reutenant"」という返信だった。該当する単語はないらしい。rieutenantで再び送ってみる。レスでは前のと同じ文章に「perhaps you mean Lieutenant」が加わっていた。「define Lieutenant」で、「1 definition found」が返ってくる。
 “代理人”とか“代表”という意味の他に軍隊での階級を表わしたりしているらしい。国や陸海軍等の違いによって多少異なるが、captainのすぐ下のランクだ。ルネはcaptainが大尉であることは知っていたが、そうするとリューテナントは中尉ということになる。

 以前ネット上で独白のような文章を読み、その中に“大尉”と呼ばれている男が出てきたことがルネの頭に浮かんだ。文章を書いた男のようだが彼は“赤土”というHNのネット詩人だと思われ、また、ホームレスのネズミヤシゲルと親しかった源さんなのかもしれなかった。
 その文章はカルトの指令により国外で訓練を受けた後、破壊工作に従事したり、一家惨殺事件の犯人であったりする一見荒唐無稽な内容だった。

 Lieutenantの意味にひととおり目を通してルネはケータイを閉じた。
 ルネがケータイに目をやっている間、老人は脇にあったノートPCを前に引き寄せてマウスやキーを操作し、ディスプレイを眺めていたが、ルネの様子を見て手を止め、言った。
「ああ、さっきの話の続きだが」
 ミネラルウォーターのグラスを取ろうとしていたルネは、それを止めて老人の口もとに注目する。
「ところで、君、ゲームは好きかね?」
 老人は唐突に話題を変えたが、意味ありげな感じがしないでもない。ルネは少し迷ったが、とりあえず間違いではない答えを述べておいた。
「流行っていたり評判のものだと興味をもって、どんなものか見てみたりはしますけど」
 さっきから頭の隅に引っかかっていた疑問があって、どう切り出そうか迷っていたのだが、このままだと話が別の方向に進みそうだった。ちょうど質問の仕方を考えついたのでルネは実行に移した。
「ところで、あのリューテナントという方は自衛隊あたりにおられたのですか。それとも外人部隊とか…」
「さっきも言った通り、君は何も後の事を心配しなくて大丈夫だ。彼はゲームオーバーになった。君はゲームに勝って、ただ、それだけのことだから」

 老人はしばらく沈黙した。自分の言葉を反芻しているようにも見えたが、別のことを考えていたのかもしれない。
「そうだな、君の質問に答えると、自衛隊や外人部隊ではないが、そこにはキャプテンもいる」
 老人は微かに笑ったが、何か意味ありげだった。
「セカンドリューテナント、つまり少尉もいる。いや、いたと言う方が正しいかな」
 プロジェクターはPCへの接続に変えられ、スクリーンにデスクトップが投射されていたが、それはブラウザに変わった。
 北千住、転落、死亡…。老人はキーワードを打ち込んでニュースサイトのログを探しているようだったが、やがて目当てのものをみつけたらしく、ルネに顔を向けて、ごらんという暗黙の意思表示をした。どうも、この記事には“少尉”のことが書かれているらしい。

 北千住駅のホームで転落した男性が電車に轢かれて死亡した記事だったが、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どのように(How)したかというニュースの基本要素を最低限だけ満たした数行だけの文章だった。正確に言えばWhoに関しては“警察は男性の身元を調べています”で、事故が起きたのは、たしか、ルネがトリルとオフで会った日の夜だったように思う。
 キャプテンが“大尉”の意味である事は知っていた。“少尉”というのも、あの独白の中に出てきた人物だ。“大尉”すなわち神聖十字軍の破壊工作要員だった頃の赤土の部下で、ホームレスに紛れ込んで逃亡していた赤土に接触し、幹部だった蝙蝠一家を裏切りという名目で殺害するよう伝えたのが“少尉”だった。

「“少尉”は消されたんですか?」とルネは尋ねた。こういう場合、事故を装った殺人があるのはミステリーの中だけではない。
「さあ」
 そう答えて老人は一呼吸おいた。
「私は、作家でも政治家でも宗教家でもない。今は映画屋でもなくて、そうだ、いうなればゲーマーかな」
 老人はグラスに残っていたワインを飲み干すと、ルネがボトルに手を伸ばすより早く、それをテーブルの脇に除けて、それ以上は飲まない意思を示した。
「あの女の子をホームレスに近づけ、いろいろ情報を得ていたから、護衛するつもりで尾行していたのかな。だが返って彼自身が殺られてしまった。いや、単純に足を踏み外して線路に落ちたのかもしれないよ」
「それもあなたが進行させたゲームの中ですか?」

 老人は無言だった。トリルが自分に近づいて来たのにはやはり何か裏があったのかどうかをルネが考えている内に、スクリーンに映っているPCの画面が変えられる。見たことはない何かのアプリケーションのインターフェースだが、そこにはメールの文面らしいものがあって、ルネはそれが暗号化されたメールを復元したものではないかと想像した。

   ********

report No.406

ゲームマスター様

2Ltです。

明日香は帰途につきました。
向こうの駅で降りたあたりで接触してみます。

大尉はさすがに侮れないので、近づくことは出来ませんでした。
気づかれたようで、尾けられましたが、何とかうまくまいたようです。

敬礼。


   ********

「ま、私にもこれくらいの情報なら入ってくるが」と老人はルネにスクリーンを示した。
「2Ltというのは2nd Lieutenantの略ですか?」
「そう、つまり少尉だ。これが彼の最後の報告になった。大尉を見くびったのが命取りになったんだろうな」
 スクリーンにあるIEの中でカーソルが、お気に入りを開いている。
「これは、君も見ているだろう?」
 映し出されたのは、あの独白のページだった。半島での“器物”破壊の試験について書いてある文章がルネの記憶と重なり合う。
「向こうで肉体的にはもちろん精神的にも極限状態まで戦闘能力を高められているから、普通の人間の中にある殺人という行為の前のボーダーラインは消滅している。対象の息の根を止めるのに躊躇することがなく、余裕をもってそれを楽しめるくらいだ。階級だけ少尉を貰っていても実戦経験もない自衛隊の元1等陸曹程度では太刀打ちできないわな」

 少尉は老人に報告を送っていたらしい。それなら、とルネが思ったことの答は、老人から先に述べられた。
「君はもう、わかっているかもしれないが、この少し前、女の子が君とデートしていたのも報告を受けている」
「彼女は死んだというメールが来ましたが」
 老人はルネの言葉に直接反応を示さなかった。
「少尉もだが、いろいろ人間が死んでるようだね。化けて出てくるかな」
 老人は冗談めかして言うと、画面をやはりブックマークしてあったページのひとつに変えた。
「インターネットの中にも、けっこう幽霊がでるみたいだね」


   ――――
 インターネットをさまよう幽霊

最近、メールで不思議なことがあるのよね。
時々Mailer-Daemonから存在しないアドレスとして
帰って来るメールがあるんだけど。
それを私、送信した覚えがないの。
ヘッダを見ると、たしかに私が使ってるプロバイダを経由してるし、
おかしいんだよねえ。
ファイルも添付してるんだけど、
だけど、そんなの出してないんだよなあ。

それで、そのアドレスなんだけど、
以前、あるサイトで試聴した音楽が気に入ったんでCDを買ったことがあって
それは、まあインディーズというか、自分の演奏して録音したのを
ネットで通販してるわけだけど、
そのミュージシャンのなんだよね。

Helterさんっていうんだけど、
最近、亡くなったって噂を聞いて、調べてみたら
どうもマジでらしい。

これって、ネットの都市伝説?

   ――――

 老人は少し含み笑いをした後、画面をスクロールさせ、あるビジターが寄せているコメントの位置で止めた。

   ――――

送信者欄に表示される名前やアドレスはメーラーの設定で好きなようにできるんだけど、偽装してもヘッダを見ればバレるね。考えられるのは、PCの中にある情報をメールで送信するようなツールを知らぬ間に送り込まれること。「トロイの木馬」というクラッキングツールの一種じゃないかな。
その方が亡くなったのなら、たぶんメルアドが契約切れになってるんだろう。それで、トロイが送信したメールは宛先が無くなってるから、Mailer-Daemonが返してよこすわけだ。添付ファイルって、どんなのかな?専用のソフトで読み込まないと、内容はわからないかもだけど。
最近のウイルスはメールの添付ファイルじゃなく、サイトにアクセスすると入れられちゃうようなこともあるらしい。まさかとは思うけど、あなたが買ったというCDも調べてみた方がいいかもね。

   ――――
「僕もHelterさんのCD、持ってますけど、ウイルスが入ってたのかなあ?」
「相手を選んだんだろう。だから、君に送ったCDには入れなかったんじゃないかな。君はスキルが高いしバレる可能性がある。」
「スキル…、そうでしょうか?」
 PCやネットに関しては、まあ初心者ではないだろうが、スキルが高いと言われるのは妥当でないかもしれないとルネは思ったが、老人には謙遜しているように見えたかもしれない。
「“敵を知りおのれを知れば一戦危うからず”という言葉がある。そういう意味でHelter君はなかなか賢かいやり方をしてたね。その一方で、あのお嬢様たちは“知らぬが仏”というやつだったが」
「お嬢様たち…というと、レイカたちがHelterさんのCDを買ったんですか?」
「うん、だが、“敵を知る”というよりは曲や詞が、どこかの剽窃だと叩くつもりで細かく分析するためだったらしい」
「そんなことまで少尉氏が調べたんですか?」
「彼ではないよ。それに、少尉はまあ端末のようなものだったしね」
「端末…ですか?」
「プレイヤーのひとつと私との接点かな」
「少尉を通して命令を伝えてたわけですね」
「私は命令などしないよ。ヒントを与えたり、時にはアドバイスする。ゲームマスターというのはそのくらいがいいところだ。だが、彼がいなくなったので、そのプレイヤーはゲームの続行が難しくなったかもしれないな」

 それはさておき、と老人は続けた。
「あのお嬢様の取り巻き連中はHelterくんのCDを購入し、当然、それを聴くわけだ。パソコンだとディスプレイに歌詞が表示されるようにしてあるから、皆、パソコンを使って聴いた。それでスパイウェアがインストールされて、連中のパソコンの中にある情報は、みんなHelter君に送られてしまったというわけだ。まだツールが削除されていなければ10回起動するごとに新しい情報が送られるから、このブログを書いてる人のようなことになる」

「そういうことがあって、Helterさんも消されたわけですね」
 ルネは、こう質問したが、老人が不用意に多くを軽々しく喋るとは期待していなかった。
「ううん、それだけではなく、もうちょっと厄介なことがあった」
 予想に反して、老人は話し始めたが、概略は、こんなところだろう。

Helterは高瀬川雅堂を恐喝していた。スパイウェアで集めた情報を分析することでレイカグループやレイカ自身の行動がいろいろと明らかになったのだが、その中に、レイカが詩壇や出版・マスコミの関係者をはじめ、朗読会を企画した各地のイベンターにも身体を与えていた事実があった。後で彼らから彼女に来たメールには、また彼女の体が欲しいという卑猥な文面もある。それらが家元に送られ、Helterは3000万円を要求した。受け入れられなければすべてをWinnnyに流す…。誹謗中傷や嫌がらせの工作をしていたりしたことよりも、この決定的なショックと、レイカが死んだとはいえ、いつ世間に流布されて名家の体面を汚すことになるかわからない不安に苛まれたからではないか。Helterが消されたのは家元のために行なわれたわけではないから、彼は脅迫者がすでにこの世にいないのを知ることもなく、誰とも知れぬその影に怯え続けたのだ。

「家元が殺されたということはないんですか?」
 ルネの言葉に老人は首を横に振った。
「世の中のあれこれを謀略で説明するのが好きな者なら、そう考えるだろうね。でも、彼はたぶん自殺だろう。彼を殺す必要のある者はいないからね。物盗りにでも入られたのなら別だが、そういうこともないだろう」
 老人の言葉をルネは意味ありげに感じた。意識してそうしているのか失言なのかはわからないが、老人は話の方向を逸らした。
「あのお嬢様も、何不自由なく育ったにしては、なかなかのやり手だったね。むしろ私は感心したよ」
 老人はミネラルウォーターを一口飲んだ。
「昔、戦争中のことだが、身体を張って諜報活動をしている女と関わりをもったことがある。いい家柄の生まれだったが運命に翻弄されたんだな。見た目が綺麗なだけでなく心根もよくて、いい女だったが」
 老人の視線は遠方の虚空に向けられている。

 レイカはどんなものを手に入れるため、詩人としてのし上ろうとしたのだろう。詩を書くのみで生活できているのは極端な話では一人というくらいだから、金儲けをしようとするのなら、他に効率のいい方法があるだろうが、文化人としてのプライドを満足させるのにはいいかもしれない。小説を書いて成功するのだと、まだ競争率が高そうだ。
 そういえば、さっき老人が、政治家なら上にいくのが簡単だと言っていたなとルネは思った。

「ところで、話題を変えるが、いいかな。今、突然思い出したことがあるんだ」
 これまでの話の経緯で質問したいことはあったが、それをやるのは随分不躾だし、たぶん答を得られないような気がした。ルネは老人が話すのに任せた。


それは戦争中、大陸の深い森の中でのことだ。私は軍の諜報機関に関係した仕事もしていて、その時は本隊と離れて敵の状況を偵察に出ていた。その一帯では戦闘が行われていたから硝煙が薄く立ち込めていたように記憶しているが、それは遠い過去のことで時間の靄の彼方にあるからだろうか。とにかく、そこで私はその中の木々の向こうから近づいてくる男の姿を認めた。彼は戦闘中のように身構えた姿勢をとるでもなく自然に歩いて来た。その男は、どこの国かはわからないが、見た感じ、将校と思える軍服を着ていた。彼は私にやあという感じで手を上げ笑顔を向けた。全然敵意は感じられない。彼は金髪の白人で、どう見ても敵側の人間だったのに、私も彼に対して警戒の感情が沸かないのは不思議なことだった。私たちは木の根本に腰を下ろした。私は彼に煙草を勧め、マッチで火をつけてやると彼は美味そうに一服し、顔を上に向けて煙を高く吐き出した。それから私たちの間に会話があったの。私は英語と中国語なら少しわかるけれど、それ意外の外国語の素養はない。だが、彼の話す聞いた事のない言葉をどういうわけかすんなりと理解していた。
初めは何の話をしたのだろう?よく覚えていないが、故郷のことや家族のことといった四方山話だったのだと思うが、その土地の自然や母親の作る料理のようなものだったのではないかな。
彼は私にこんなことを語った。やがて、日本・ドイツ・イタリーの同盟三国は連合国に敗北する。だが、それはあなたの国にとって、むしろ幸いなことだ。日本は瞬く間に敗戦の痛手から立ち直り、未曾有の繁栄を成し遂げるだろう。
日本がやがて戦争に負けることは客観的な情報と判断能力があれば当然予測できることだった。私、いずれにしても、それは私が死んだ後のことだろうと言った。私は大陸での諜報工作に深く関わっていたから、おそらく戦犯として処刑される。場合によっては自決するのかもしれない
彼は私の未来について語った。いや、あなたはもっと先の百歳を越えるまで生きるだろう。そして、そこで、ある世界のマスターになるだろう。長い時間を生きた後、あなたは“エディプスの父”として死ぬ
おかしなことだが私はこのことをずっと忘れていたんだ。何十年も後の今になって突然思い出した。なぜなんだろう。何というか、以前見て、それまで忘れていた夢の内容を、また夢の中で思い出すようなことかな。だが、あれはけっして夢ではなかった。


「どうなっているんだろう。何だか変な話をしてしまった。歳のせいでアルコールに弱くなっているのかもしれんが。でも、君にあった時、何かが始まったんだ。そうだな。それはちょうど、マルチメディアのファイルをダウンロードするような感じで、先程それが終わり、記憶が甦ったのだ」
 老人はまるで首の運動でもするように何度か頭を傾げた。
「ある物事を全く忘れてしまっていて、ある時思い出す。君に、そんなことはあるかね?」
「忘れてしまっていて記憶のない時期というのはあります」
「ほう」
 老人はルネに視線を向けた。それは彼が興味を示したことの表れのようだった。
「僕は小学校2年より前のことを、あまり覚えていません。その頃の友達なんかは僕のことをよく覚えてたりするみたいですが、僕の記憶の中で、その辺りはただ空白になってます」
「精神分析医なら、もっともらしい理由をつけるんだろうね。その頃、君がお母さんと離れて暮らすことになったからとかね」
 やはり、老人は自分のことを調べてあるのだとルネは確信した。
「僕のことは、よくご存知のようですね。母は精神科の病棟で死んだらしいですが」
「まあ、あまり詳しいことまではわからないが」
 精神科の病棟で死んだことについて、ルネはよく知らない。周囲の大人たちは彼にその話をするのを避けていたようで、それに彼もあえて尋ねることはしなかったのだ。子供の耳に入ることはないだろうと大人たちが思って交わす会話を子供はしっかり聞いていたりするものだが、彼がもっている情報はそんなふうにして得たものだけだ。

「君とデートした女の子も心療内科に通ってたかな。ああそうだ。他にメル友もいたっけね。精神分析だと、また何とか言うんだろうか。宗教屋ならカルマだとか持ち出すことだろう」
 Helterのウイルスか、あるいはもっと他のスパイウェアが自分のPCにも入り込んで、老人はそこから情報を得ているのだろうか。でも、それだと母親のことまで知ることはできないだろう。PCの中に、それに結びつくようなものはないはずだから。ルネは老人と話しながら、いろいろ想像を巡らしたが、これといった結論は出ない。
「カルマなんでしょうか。その二人は亡くなったみたいですね」
「同じような病気なのを知ってメル友になり、薬などの情報交換をしていたようだから、接点もあったんだね。カルマとも精神分析ともつかない話ではあるが、因果応報あるいは自業自得という言葉に近いのだろうかね」
「僕はトリルが死んだというメールについて半信半疑だったんですが、あれは本当なんですか?」
「彼女が飛び降りを図ったのは不思議な因縁なのかな。それとも同じ死に方をすることで、かつて自分の犯した殺人を贖罪しようとする気持ちが無意識にはたらいたのか。フロイトが言い間違いの心理について述べているが、それと似たようなことではないかとかね。あの共犯の男の子を呼んだのは、むしろ、そういうのが背景にあると言ったら考え過ぎかな」
 老人は軽く笑ったが、それは自嘲のようにも見えた。
「あなたにもポプラさんからのメールが行ってるんですか?それと、“共犯”って…」
「あの二人は飛び降り自殺に見せかけた殺人では実行犯で、スパイウェアを仕掛けたHelter君の時には、彼がネット恋愛中であるのを利用し、わざと誤解を与えるような書きこみをしておびき出す役目を果たした。巨大掲示板などでよくある“釣り”みたいなものだね。ま、とにかく、あの二人は計4人の殺人に関わっている。女の子の方に精神科への通院歴があるとはいえ、口外すれば自分たちが極刑に問われる可能性は高い。ということで、他のメンバーは口封じされたが二人はそれを免れている」
「ま、あの青年はあの子に惚れてたんだろうな。だから、むしろ積極的に共犯関係を結んだ。考えてみれば、恋愛とか結婚とか、男女の結びつきは心理的に共犯関係と似ているような気がしないでもない」

「でも、随分いろいろとお調べになってますね。僕のことも含めて」
「まあ、ソーシャルネットワーキングとかを謳っている秘密めいた会員制ブログなどでの噂が実は筒抜けなのはACCESS PALに限ったことではない。それくらいは当然、君にもわかってるだろうが」
 老人は画面を変えた。文字列が並んでいて、それはアクセスログのようだった。
「これは、君のアクセスログの一部だ。IT企業は時価総額の高さを競ったりしているが社員は薄給である事が多い。だから特にスキルの高い者などは不満を鬱積されているものなのだ。表向きは個人情報保護を謳ってはいるが内部の人間を手なづければセキュリティなどあってないようなものだよ。大手プロバイダでも大規模な情報流出があっただろう?」

 それから老人は、こんなものもあると言って、あるサイトの認証画面にIDとパスワードを打ち込み、ログインした。
 ※氏名、※現住所、生年月日の他、電話番号、小中高大別の出身校、職業などの項目ごとにテキストボックスがあり、※が付いているのは必須、その他については“不明の場合は空欄にしてください”となっている。
 老人がルネの戸籍上の名前や住所を打ち込んでいる。数カ所のテキストボックスが埋められるとボタンがクリックされた。
 学歴、家族構成、年収、勤務先から趣味、資格、身長、体重の一覧があり、交友関係などは別ページへのリンクがある。
 ルネの情報は“調査中”となっている欄が半分以上だが、それでも、これを見れば彼という人間の輪郭をつかむ事ができるだろう。
 どうやって調べたのか住基ネットの番号まで載っていた。
「あるところが作っているデータベースだ。裏ルートで官庁からも情報を得ている。ここは誰もが閲覧できるわけではない。存在自体があまり知られていないのだがね」

 老人はテキストボックスのページに戻ると、また何か打ち込み始めた。名前の欄に並んだテキストはルネの記憶にあるものだった。
 高校の頃一緒にバンドを組んでいた女の子だ。下北沢の小さな劇団にしばらくいて、その後、結婚したらしい。現在の友人たちのコメントや夫の経歴や勤務先まで、かなり詳しい情報が掲載されていた。
「彼女もメンタル系のカウンセリングを受けているようだね」
 それまでスクリーンを見ていた老人は、一旦ルネに視線を向けてからPCのディスプレイに視線を戻した。
「ところでだが、私はほとんど、このパソコンの画面でウェブサイトを見たりメールの送受信をしていただけだ。ゲームはディスプレイの中で進行していたんだ。登場するキャラはハンドルネームを使い、オフとは違う姿をしていたり、むしろ別人格を演じて、それを楽しんでいることだって多い」
 老人は、お気に入りの中に作成されている“game”フォルダを開き、手持ち無沙汰を紛らすかのように、いくつかのサイトにアクセスする。ルネの知っているオンラインRPGもあれば、初めて見るものもあった。画面は動的で賑やかだったり、幻想的なイラストの世界が広がっていたりする。
「ま、さっきも言ったように、私はゲーマーだということだ」
「ゲーマーですか?では、あなたがゲームマスターですね」
 ルネの言葉に老人は「ほう」と興味があることを示す表情をしたが、それはあらかじめ計算された演技のようにも見えた。
「ゲームマスターか。では、私はどんなふうにゲームを進行させたのかな?」

 ルネは、これまで頭の中でまとめられていた内容を話し始めた。話しているうちに思い出したり整理されたりするものもあって、自分がコンピューターに変容するシミュレーションを体験しているような感覚を味わう。
「有名メルマガや人気サイトを運営していた青年に融資して起業させ、それを乗っ取って看板にする。彼が自分で作った拙いシステムでやっているようなところだけれど、コンピューターやネットの事は何もわからない投資家たちの信用は獲得できた。そして、急成長した暴力団の企業舎弟にとっては用済みで、むしろ邪魔な存在となった青年を始末する。また、ここで収集した個人情報が傍系組織に流れ、ヤクザの常とはいえ無思慮な連中が恐喝・詐欺・売春強要のネタに使い、それに関係していたあるメルマガスタッフがユーザーの反応から不審に思うようになった。口封じの必要に迫られたので、その仕事はカルトの地下工作員や、コントロール下にある詩人グループに任せた。暴力団とカルトにはどんな接点があるのか、と言えば、それこそがゲームマスターだったわけですね。ゲームのメンバーはヤクザやカルト、そして政財界やマスコミの中にもいるわけだし」
 スクリーンに映っているのは、羽根の生えた凛々しい顔立ちの若者やティアラを着けた少女や半獣半人の男が異星の荒野のような風景をバックに描かれたCGだ。
 ゲームの舞台設定は神話的世界であることが多い。そこは英雄やモンスターや美女や恋愛譚や魔術やトリックスターが咲き乱れる花園のようであり、
謎、残酷、カオス、生と死といった人間存在の地底が時折姿をあらわす場所でもある。

「でも、工作員に詩人グループを始末させた辺りはゲーマーの面目躍如でしたね。さしずめ裏ワザといったところでしょうか。彼が昔、思いを寄せていた、というのではないかもしれませんが、カルトが見せしめの対象として、その元女性信者の殺害を計画していて、その実行は幹部が潜り込んでいる詩人グループが行なう、という話ををさり気なく聞かせる。工作員は女性信者を救うため、詩人たちを次々に消していった。見せかけた心中や集団自殺の状況には疑惑があったのに警察が捜査を終了した辺りにも、ゲームマスターの手腕が発揮されたわけですね」
 老人は言葉でも表情でも、ルネが述べた事について肯定や否定の意思を示すことはなく、緩やかなスタートで話し始めた。
「私の名誉のために言っておくが、私は初めから、あの詩人さんたちとの約束を破るつもりではなかったんだ。だが、スパイウェアによる情報漏出で、事態が変化した。
もし、実際Winnyにでも流されたら、そこからネットのにわか探偵たちは私の存在を推理するかもしれない。ヒキコモリやニートの戯言とたかを括っていたら足元を掬われないとも限らないからね」

 スクリーンには、ちゃんねる・ぜろのトップページが映っている。
「殺人の請負は、お嬢様の詩集を大手出版社から刊行し宣伝には力を入れる。書店では平積みするよう営業が動く。というのが交換条件だった。そのキーポイントを手繰って行ったら私の姿が見えてしまうかもしれない。リスクを最小限にするには“死人に口無し”だったのだよ」、
「sasuraibitoの自殺も何だかおかしいと、ちゃんねる・ぜろで、ちょっと騒がれてましたね。遺体発見の状況に疑問点が多いけれど、警察はすぐに自殺と発表したって」
「あれについては今日、君が敵討ちをしたわけだ。図らずも、なのだろうが」
 それから老人は「Helterくんの敵討ちでもあったね」と付け加えた。
 つまり、トリルたちがおびき出して彼が実行犯であったわけだ。ルネの頭の隅に、オークリーのサングラスを前頭部に乗せた男の顔が、爬虫類の紋様を思い出すように浮かんで消えた。

   ********

「何で、こんなに喋ってしまったんだろう?やはり、いつもはグラス一杯で止めるワインを追加したのが良くなかったのかな。君からみたらたいした量ではないだろうが、こんな身体になってしまったし、若い頃のようにはいかん」
 老人は、今、何時かなと独り言を呟き、PCの時計に目をやった。
「ちょっと失礼。ま、君は、やっててよ。若いんだから、まだ飲み足りないだろう」

「キッチンの床の開き戸を上げると下に庫があるから、好きなのを持って来たらいい」
 まだ、ボトルには半分くらい残っていた。帰りはほとんど下りだから楽だとはいえ、あまりアルコールが回っていては危険だ。
 ルネは、今あるだけで結構だと老人に告げ、ワインを取りに行くことはしなかった。

 老人は部屋の隅にあるデスクの抽斗からから円形の器機を取り出して来た。掌に治まるくらいの大きさでコードがついている。。老人は、そのコードをPCに接続した。ルネは初め、変わった形のマウスかと思ったが、そうではないようだった。
 老人は円形の器機を片手に持ったまま、もう一方の手でマウスを掴んでデスクトップにあるアイコンのひとつをダブルクリックした。スクリーンには呼び出されたアプリのスキンが映っている。カーソルが動いてメニューと思われる中から選択し、画面が変わった。
 先程の話で、老人は臓器を移植しているらしいから、その状態をチェックしているのだろうか。心臓のペースメーカーはよく知られているが、そのようなものが身体に入っているのかもしれない。
 画面の中はすべて英語で専門用語らしい単語が多く、どんな意味なのかルネにはよくわからないが、医療に関係したものなのだろう。老人は器機を肝臓の上辺りにかざすようにして画面の数値をチェックしているようだ。それからメニューに戻って別のアイテムを選択した。器機を身体の別の部位に当てて一人で頷いている。
 それから、老人は器機を心臓の上に移動させた。画面を見てルネは、老人の鼓動と同じリズムでアイコンが点滅し、グラフの振幅が大きくなっているのだろうと推測した。老人はポインターの位置を移動させ、何ヶ所かの数値をすこしづつ増減させている。

 ルネは車椅子の後から老人に手を回して自由を奪った。老人の手を押さえて器機を心臓の上に固定し、次にマウスを奪う。老人は一瞬動揺を示したがたいした抵抗はしなかった。もう身体にそれだけの力がないのかもしれない。
 マウスを操ってポインターを画面の中の▼に合わすと色が変化した。ルネはクリックしたままマウスのボタンを押し続けた。警告の表示が出る。英語だが、多分、ペースメーカーに設定されている数値を下げますがよろしいですか?というような意味だろう。Yesを選択して、またボタンを押し続けた。
 ▼の横のボックスに表示されている数値が下がって行き、30になった時、老人から器機をもぎ取って部屋の隅に放り投げる。USBポートから外れていく器機のコードがPCを半回転させた。
 老人はルネにやめるよう促す小さな身振りをしたが、すぐに身体の力がほとんど抜けたようだった。だが、ルネを見つめる視線は比較的しっかりしていて、でも、ルネはそこに驚きとか怒りとか憎しみといった感情を見なかったように思う。老人はその時、それらを失ったのではなく超越してしまったかのように見えた。

「“エディプスの父”として死ぬ。それが何を意味しているのか、まだ自分にはよくわからない。ま、例え、私が見たものが夢や幻であったとしても、もしいつか、それが現実になるのなら、それは、このリアルな世界を超えた何かが存在していることの証明になるのかもしれないと、あの白人に会った後、私は思った」

「でも、あなたは僕の父ではない」
 老人は頷いた。それは自分への何かの確認も込めているかのようだった。
「君のお父さんについてもちょっと調べてみて、チベットの近くまで行ったということまでは掴んでいるんだが、その後の情報はないんだ」
 老人の顔は青ざめてきていた。目を半ば閉じ、口から脈絡のない言葉が、涎のように洩れる。
「地底の空洞に存在すると言われる高次な世界、シャンバラを目指したのかもしれないな。あの辺りにある入口を、かつてはアドルフ・ヒトラーも探していたそうだが」
 チアノーゼは、更に進行しているようだったが、彼は変わらぬ調子で話し続けた。
「そうだ、数日前、関釜フェリーで半島に渡った男もいた。その後の、消息は掴めていない。もう、結果が出る頃だが」
 老人からはもう喋る力も失われたらしく、話は、しばらく途絶えた。やがて、最低限の充電がなされた携帯電話のように、彼の声が甦った。
「そう、ゲームだ。ゲーマーたちはタックスヘブンの銀行口座に膨大なポイントを貯め込む。美味い物を食べたり高級な服を着たり、車や女や家や何やで精一杯贅沢をしても、一生の内でその何パーセントも使えないようなポイント。憑りつかれたようにそれをさらにひたすら増やしていく。ゲームオーバーに陥ることだけは何としても避けながらね。私はそのゲームの画面を見てプレイしていたに過ぎない。この世界のすべてを知っている神ではないのだ」

 ルネの内面が老人に対する怒りや憎悪の色で塗られていることはなかったように思う。今はむしろ、どこまでも透明な世界が続いているのではないだろうか。
 老人は多分、何かが衰退していたので結末の方向を選択し、ルネはただ、そこにブロック崩しのゲームがあったのでクリアしたようなものだったのかもしれない。
 ドアを空けて部屋を出る。

   ********

 ルネは玄関から表に出た。ミニベロに跨った時、今日は空の色が綺麗だと思った。太陽は傾き始めている。地球は自転と公転を続けているが、自分は永遠の切り口である現在が次々提示されるのを、ただ見ているだけだ。塔の男は、そこだけ静止画像のままであるように、何も変わらずにいる。

 爬虫類のような男がいた家のガレージは依然として空で、人のいる様子もなかった。そこからの坂道はできる限りのスピードで下ったから、周囲に気を配っている余裕はなった。あるいは、また、どこかの家の窓からルネを見ている者がいたのかもしれないが、その後ずっと、追って来る気配は感じなかった。
 下っていくと盆地に出る。真っ直ぐ行けば観光用の牧場があるのだが、交差してジャンクションのような構造になっているところを熱函道路に入った。適度な下りなので直線区間だと車体の軽いミニベロは50キロ前後のスピードが出る。沽券に関わると思うのか、それとも釣られてなのか、ここでは当然、制限速度オーバーなのだが、車が次々に追い抜いて行く。
 走るに連れ、かなり傾いた陽光が左側の林の木々の間から、連続して焚かれるフラッシュのようにルネのサングラスに飛び込んできた。
 ふと気づくと、ルネに並走している車がある。昼間のことを思い出してぎょっとしたが、見覚えのある黄色いワーゲンだった。中で先程の女性が軽く手を振り、それから、ルージュを取り出して側面の窓に赤い文字を書いた。

 TTYL

 鏡文字で書いてくれているようで、ルネの側からは正常なアルファベットに見えた“Talk To You Later”を表わす、90年代あたりのWebで使われていた略語だ。

「どこで?」とルネは尋ねたが声は届かなかったかもしれない。だが、彼女は、また、ルージュでこう書いた。

 MANY WORLD

 前方に対向車の姿が見えた。ワーゲンは加速して走り去る。
 後部ガラスの向こうのルパン三世キャラたちも遠ざかって行く。富士子…、そして銭形。ちゃんねる・ぜろに“銭形”というHNの住人がいたな。ルネはふと思う。

 MANY WORLD…。
 多世界?













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