「…つかまえた」
その腕に飛び込んだ、その瞬間。 聞こえた低い囁きは、たぶん、いや絶対夢ではなかった。
中継地点は目の前だ。姫野初は酸欠の脳でそう呟く。
山あり谷ありの2区もこれでようやく終わり。駅伝の走者はたすきを伝えるために走っていると初は思う。3区の走者、島津の姿は数メートル先。外したたすきは固く握った手の中だ。
「初!」
島津が軽く右手を上げた。その手の中にたすきを捻じ込んで、初はかろうじて顔を上げる。一瞬視線がぶつかり合って、島津は初の肩を叩いてから走り出した。
「…はっ……は…」
足はどうにか止まってくれたけれど、息もままならない。よろよろと数歩、沿道に向かって歩いた初は、眼だけ動かして顧問の姿を探した。他大学の選手が大勢控えている方へと歩くと、背後からタオルを持った係の人が駆け寄ってくるのを感じる。
ふわりとやわらかいタオルを掛けられ、安堵しきった膝ががくりとなった。その瞬間。
「…つかまえた」
耳元に息を吹き込まれ、ぞくんと体が震える。
「…は…?」
吐息のようにそう洩らして、首を捻った途端だった。疲労を訴える体がとうとう力を失って、初は膝からくずおれる。倒れかけた体を支えたのは低く囁いた男の腕で、あろうことか彼は初を軽々と両手で抱き上げたのだ。
ぎょっと眼を瞠って男を見上げる。見下ろしてきた瞳は楽しげで、笑っているように見えた。そしてまったく見覚えはない。
「なっ、な…なん…っ」
「城北大の2区走者、姫野初。俺は沢木祥吾。お前に惚れた。俺と付き合え」
そう言って口元に笑みを浮かべる。身長180センチを越える長身で、初などよりよほど体格のいい男なのに、そうするとまるでいたずらっ子のように見えた。
給水係や選手たちの間を抜けて、祥吾は初を抱いて歩いていく。端的極まりない言葉の意味を捉えかねて、初はぽかんと口を開いたままでいた。
「…な、に、それ…?」
「いい名前だな、ヒメノハジメ。水飲んで一休みしたら、俺と姫初めするか?」
「は…? はぁ!?」
ようやく脳も口も動き始めたらしい。途端にばたばたと忙しなくなった初に、祥吾はいっそう楽しげににっこり笑った。
「やれる元気が有り余ってるようだから、休憩なしでいくとするか」
「ちょ、はぁ!? ちょっ、ちょ、…何!? 何あんた何なんですか!?」
楽しげな笑みを浮かべたまま、男は眼を細めて言う。
「言ったろう? 俺はお前に一目惚れした男だよ。走っているお前にな」
「…は、ぁ…?」
もはや言葉が出てこない。半開きになった口にすばやい動きで口付けて、祥吾は見る間に赤くなる初を見下ろした。ぱくぱく口を動かす初が文句を言う前に、彼はさっさと薄暗がりに駆け込んでいったのだった。 |