物言わぬ証
テレビ電話ではどうしても片づかないという出版社の会議、それも結局は私がいてもいなくても同じであったという実に退屈な会議に出席して、仕事場に戻ってみると、毛利法律事務所と印刷された封筒が届いていた。
私の職業はルポライター、ジャーナリスト、紀行作家、エッセイスト…などなどいくつもの呼び方がある。その私のところに弁護士から来る手紙、それもわざわざ紙媒体をつかった物が来るとしたら、それはたいていろくなものではない。差出人は弁護士毛利裕理とあった。もちろん心当たりはない。封筒には、特に内容物を指し示すような文言も記されていなかった。
開けてみると、そこには私が予想だにしていなかった事が書かれていた。
一週間後、私はリニアの乗客となっていた。
在来線に乗り換え、普通列車の客車に揺られること一時間弱、田舎の小さな駅に降り立った。
その駅は明治時代に開業した当時の駅舎が今日もなお残っており、重要文化財になっている。駅自体は私も何度か訪ねたことがありよく知っていた。ここは何度来ても、まるで時が止まっているかのように昔のままであった。木造の駅前商店が三軒、一応観光客向けの体裁を取ってはいるが、お客の八割以上は地元の人々であろう。駅の貨物線ではちょうど貨車から荷下ろししているところであった。
実は約束の時間に間に合う列車よりも、わざと一本前の列車に乗ってきたので、まだ迎えは来ていない。駅の売店でコーヒーを淹れてもらい、のんびりと貨車の荷下ろし作業などを眺めながら、味わう。駅周囲の田はちょうど稲刈りが行われていた。今年は豊作だという発表があったが、実際、田は秋の太陽に照らされて黄金色に光っていた。
すると、鄙びた光景には不釣り合いの高級乗用車が一台やってきた。駅前のロータリーに静かに停車すると、いかにも運転職人、という感じの初老の運転手がこれもまた静かに、という形容をしたくなる所作で降り立った。白い手袋が実に渋く決まっている。それでなくても彼を観察していたものだから、異邦人の私はすぐに見つかった。
「開高毅様でいらっしゃいますか」
「はあ、そうです」
まだ約束の時間の三十分前だ。
「お待たせしました。どうぞ」
待っているのは私の趣味であって、運転手は私を一秒たりとも待たせてなどいないのだ。だからその言葉は論理的におかしい。運転手は、そんなことなどおかまいなしに車のドアを丁寧なしぐさで開けた。急げと言うわけでもない。しかし、その動作を見てしまうと、もうちょっとゆっくりさせてほしいから待ってくれ、とも言いにくい。
「ああ、すみません。ちょっとカップを返してくるので」
私は売店にカップとソーサーを返すと、私の主観では実に慌ただしく、車中の人となった。しかし車は慌ただしさなど微塵も感じさせぬ滑らかな加速で発進した。
「このあたりも今年は豊作のようですね」
「そうですね。去年よりも良いと聞きました」
運転手の答えは実に簡潔で、しかも私の問いには完璧に答えていた。私がなぜ時間よりも早く駅前にいたのか、尋ねてくるかなあ、などと思ってしばらく黙っていたが、その気配もない。
車は実り豊かな田畑の中を快調に走って、少し山道を走り、峠を一つ越え、牛がのんびり草を食べている牧場のまさにど真ん中を走りだした。柵など何もない。大丈夫なのだろうか。
「柵がなくて牛は大丈夫なんですか」
二問目の言葉を発してみた。
「ああ、たまに事故もあります。でも、統計上は人間の事故よりも少ないそうです」
とのことであった。運転手さんは事故起こしたことおありですか、と尋ねてみたい衝動にかられるが、
(ええ、ありますよ)
とだけ言ってそこで終わられると困るので、やめておくことにした。
やがて正面に、レンガ造りの洋館が見えてきた。いつお屋敷の敷地に入ったのか、まったく気がつかなかった。そのくらい広いのだろう。洋館が目に入ってから2分ほどかかって、車は正面玄関前に到着した。普段、鉄とコンクリートの街に住んでいる私にとっては、まるでおとぎの国に迷いこんだようであった。たとえば農村の木造家屋には人がそこで生きて暮らしているというリアリティが溢れているから、違和感は大きくない。しかしこの光景はどうにもなじめない。それは、私が生粋の日本人であり、この洋館が日本の文化と異質な文化の所産だから、という簡単な図式で理解できるものではないようだ。運転手がうやうやしくドアを開けてくれる。降り立って、あらためて見ると、玄関のホールには豪華なシャンデリアが下がっており、床には赤絨毯が敷かれていた。置かれた調度品の一つ一つも凝った造りで、ふと手に触れた手すりも金色に光っている。
やがて立派な紳士がやってきた。家令だと言う。この日本で家令などという職業の人間は何人いるのだろうか。おそらく百人はいないだろう。
その貴重なる家令氏に導かれて赤絨毯の上を歩き、迷路のような廊下を歩いて、また外へ出た。すると、正面に木造平屋の、いかにも民家然とした小ぢんまりした家があった。妙にアンバランスな光景に見とれている暇もなく、家令氏は洋館の外壁にそってどんどん歩くので、私はただただ彼についていった。
そして、洋館脇の木陰におかれたベンチに、目的の人物はいた。
「開高毅氏でございます」
婦人はまっすぐな目で私を見た。
「お待ちしていました。さ、どうぞ」
家令氏はご丁寧にベンチを少し引いた。
「ど、どうも…失礼します」
ベンチの位置が決まると、音もなく、気配もなく、まるで忍者のように家令氏は去っていった。
元ファーストレディは静かに微笑んでいた。すでに百歳を越えているというのに、美しかった。
「開高毅です。今日は取材に応じていただき、本当にありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。遠くまで来ていただいて恐縮です」
「あの、まず最初にお伺いしたいことがあるのですが…」
「ふふ…私がなぜ、貴方の取材を受ける気になったか、でしょ」
「は、はあ…その、工藤優一氏の著書が出版されていらい、奥様には取材依頼が殺到したと聞きます。ですが今日まで誰の取材にも応じていらっしゃらなかった…それなのになぜ、私の取材を受けてくださるのでしょうか?」
「私、貴方のご著書はほとんど全部読んでいます」
「えっ…それは恐縮です」
「それで、この人なら私の知っていることを全てお話しできると、そう思ったからなの」
彼女はにこにこと笑った。その目は知性と好奇心に満ちあふれていた。彼女の小学生の頃や若い頃の写真を見たことがあるが、そのころの目は今もまったく衰えを見せていなかった。いや、むしろ輝きを増しているかのように見える。
「ありがとうございます…と言うべきなんでしょうか、いや、そこまで私のような者を高く買っていただくと、恐縮を通り越して怖くなってしまいます」
「いいえ、貴方はご自分にもっと自信を持たれてもいいと思いますよ」
彼女はそう言った。優しげに、まるで母親が子供に向かって言うように。辞書に「慈母」という言葉が載っている。もしも実例を示せと言われたら、この人は間違いなく最高の実例だ。そう、この人が言うと本当に自分が自信を持ってもいいんだという強い確信が心の内に広がってくるような気がするのだ。百年を越えて生きてきた人の言葉とは、こんなにも凄いものなのだろうか。
「で、ではまず単刀直入にお伺いするのですが…工藤優一氏の著書、題名でもあるアポトキシン4869…その薬は本当に実在したのでしょうか」
「ええ、確かに実在しました」
彼女はそう言った。私に驚きはなかった。彼女がそう言うのだからそのとおりなのだろう。
「江戸川コナン、灰原哀の二人が、その薬で一七歳から七歳に若返った、ということも事実なのですね」
「ええ、そうです」
もし、今この場にマスコミのレポーターでもいたなら、蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。しかし木の葉をゆらす微かな風の音しか聞こえてこない。
私は持参した「アポトキシン4869」と表題のあるハードカバーを鞄から取り出した。
「この本によると、奥様がその事を知ったのは小学三年生の時、ということですが、これも…」
「ええ、そうです。光彦と二人で、コナンくんと哀ちゃんが当時住んでいた阿笠博士の家に押しかけて…ふふ…光彦が問い詰めたんです」
「当時も…もちろん今も、とても信じがたいことなんですが、奥様はそのことをすぐに信じられた…理解されたということですか」
「そう、哀ちゃんについて確信はありませんでしたけど、コナンくんに関しては小学校ニ年生の頃からうすうす気がついていました。光彦は一年生の夏頃から確信していたようです。三年生の夏休み、哀ちゃんが薬を飲んで倒れる、という事件がありました。それが、私たちが二人の秘密を全て知ることになる、きっかけでした」
彼女は、まるでつい昨日の出来事のように、少年探偵団の話を私にしてくれた。そして四人の思春期の頃の話、コナンと哀、彼女と円谷光彦元首相の結婚の頃の話…そう、全ては、私にとっては写真やビデオでしか知ることのできない、およそ一世紀昔の出来事だ。
そして、日が傾き、約束の時間が迫ってきた頃、ふと…
「…でも、考えてみたら、少年探偵団の仲間で、今も生きているのはこの私だけね…コナンくんも哀ちゃんも光彦も元太くんも…阿笠博士も目暮警部も高木刑事も…」
そう言って彼女は、はるか広がる庭園に目をやった。
「…そうねえ…もう八十年、百年も前のことだもの…」
彼女の頭の中を、大昔の思い出が去来しているのであろう。いかな聡明なる彼女であっても、言葉で全てを表現することなどできない、他人と共有するべくもない、しかし、確かな記憶。
しばらくして、彼女はふっと微笑んで私のほうを見た。
「ごめんなさいね。思い出にふけってしまって」
「いいえ…」
彼女は私の目をじっと見つめた。
「今日お話ししたこと、貴方のお役にたったかしら」
「ええ、もちろん…でもこの貴重な情報をどう扱ってよいのか、少し困っています」
「それは貴方にお任せします」
力強く言う彼女。
「今日はとっても楽しかったわ…また来てくださるかしら」
「ええ、もちろんです。喜んで…」
願ってもないことだ。
「ありがとう。今度までにもう少し記憶を整理しておきましょう…」
それから私は、彼女の元に二度出かけた。最初の訪問時に見た小さな家、それが彼女の住居なのであった。あの立派な洋館には住まず、あえて小さな家に住み、孫夫婦の助けを借りながらも、今もなおできうる限り自分のことは自分でするという彼女。私は四回目の訪問を心待ちにしていた。
熱帯夜が明けて日中真夏日が予想される朝、私はいつものようにネットにアクセスした。
新聞トップに円谷歩美女史逝去の大きな文字があった。享年百十歳。
葬儀は江戸川財団の手で盛大に執り行われた。二十世紀末に生まれ、三つの世紀を生き抜いた彼女。残された人々が故人を偲び、葬儀を盛大に行う気持ちもわからないではない。しかし彼女の最晩年、その静かな時をわずかでも共有した私には、数え切れない花に囲まれた遺影が、大げさすぎるわよ、と、はにかんでいるように思えた。
葬儀が終わって数日して、私の元に一枚のメモリーカードが届いた。差出人は弁護士毛利裕理。中には、円谷歩美が小学校一年生の頃に書いた絵日記から、亡くなる二日前まで書かれた、毎日日記を書きはじめた時からでも百年に及ぶ膨大な日記の原本を一ページづつ丹念にスキャンしたデータが入っていた。弁護士の書状には、これが私の元に届けられたのは、故人の遺言である旨のことが書いてあった。
彼女の元を最初に訪れた日から季節が一巡りした実りの秋、私は再びあの田舎の駅を訪れていた。
駅でレンタサイクルを借り、私はまさに刈り取りが始まったばかりの黄金色の絨毯の中を走った。
一時間ほど走って、立派な山門のある寺についた。この寺の山門や本堂は明治時代中頃に再建されたものであり、国宝に指定されている、との案内板があった。山門を入って境内の奥、ゆるい斜面に墓石が階段状に並んでいる。その一角、他の墓石とは少し離れて三つの墓石が並んで立っていた。いずれも一般的な墓石からすると背が低く、形もシンプルだった。中央は阿笠家之墓、右に江戸川家之墓、左に円谷家之墓。中央の墓には江戸川コナン、灰原哀の養父であった阿笠博士が葬られていた。あの江戸川財団の創始者夫妻の墓と、元首相夫妻の墓に囲まれているという破格ともいうべき扱いも、今の私には良く理解できる。
三基の墓周辺は綺麗に掃き清められ、今朝供えられたと思しき花がまだ瑞々しい。
人気のない静かな墓地に林立する多数の墓石。それらは皆、確かにこの世を生きた人々の存在の証だ。首相経験者や大財閥の総帥だった人物の墓というと、なにやら近づき難い雰囲気のある廟だったり、石碑まがいの巨大なものだったりすることもあるが、三基の墓は周囲の墓よりもむしろ質素に佇んでいる。私は、膨大なビデオ資料を通して知ることのできた五人の人柄にふさわしいと思った。
さて、そろそろ引き上げようと歩きだしたら、ふと、先程の三基の墓と同じ花が供えられた墓があることに気がついた。場所はずいぶん離れた場所だ。見ると宮野家先祖代々之墓とある。墓石には三人の法名が刻まれている。しかし、そのうちの一人、女性の没年月日に記憶があった。取材メモをめくると、そう、十億円強奪事件の犯人とされた広田雅美…本名宮野明美、灰原哀すなわち本名宮野志保の実の姉、その没年月日にぴったり一致しているのだ。まさかと思って墓石の裏面を見ると、そこには建立者の名として、宮野志保、と刻まれていた。
「そのお墓は江戸川の大奥様が御建てになられたものですよ」
はっとふり返るとそこに、高位の袈裟をまとった僧侶が立っていた。この寺の住職に違いない。
私は住職に何を尋ねようかと考えだした。しかし、住職はそんな私の心を見透かすように微笑んだ。
「江戸川の若奥様が今も毎日、こうして御参りされています。何でも、大奥様縁の方々で、他におまつりする方が誰もいらっしゃらないので自分が代わっておまつりするんだという話を、大奥様から直接伺ったことがあります」
江戸川コナン、哀夫妻の長男にして、世界に名を残した推理小説作家工藤優作の養子となった優一。彼が書き残した最後の著書「アポトキシン4869」、その内容について、今も真偽の論争が続いている。しかし、この一基の墓石の存在こそ、そして今も江戸川家の人々によってまつられているという事実こそ、「アポトキシン4869」の内容が紛れもない真実であることの何よりの証ではなかろうか。
住職はそれ以上何も言わず静かに立ち去った。
急に風が吹いてきて、木々がざあざあと鳴った。
(おわり)
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