第二章 その1
第二章 My Foolish Heart
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翌朝八時に出勤してきた鍋島は、刑事部屋に入った途端にその空気の異様さに気がついた。
西天満署二階の北西部分、フロア面積の約三分の一を占めている刑事課は、壁で区切られた
独立した部屋ではなく、フロアの中央を通る廊下とはやや低めの間仕切りカウンターで
区別しただけの比較的開放感のある部署だった。つまり、二階に上がって廊下を半分ほど
進めば、誰もが刑事課の前に立つことになる。廊下を挟んで向かい側には四つの取調室が
あり、所轄署ではめずらしく独立した課を形成している少年課との共用だ。フロアには他に
生活安全課とその取調室もある。しかし少年課にしても生活安全課にしてもごく普通の
独立した部屋であるのに対し、どういうわけか刑事課はまるで銀行の支店のようだった。
理由は分からない。
その刑事課が、いつもの出勤時の様子とはまるで違っている。もちろん部屋のレイアウト
などにはまったく変わりはなかったし、そこにいる刑事たちにも目に見えた違いが現れている
わけではなかったのだが、二年近くもこの部屋に通っている鍋島は、カウンター端の間仕切り
戸の前に立った途端にその張り詰めた気配を察することができた。
部屋にいる刑事は四人で、うち一人は低い声で電話を掛けていた。残りの三人はみな、
自分の席に着き、それぞれに押し黙って書類仕事をしているようだった。全員、まるで尻が
椅子に張り付いているかのように誰一人立つことなく、じっと俯いてデスクに向かっていた。
そしてその誰もに、ひどい重荷を背負っているような暗い深刻さ、悲愴さが感じられた。
また、普段ならこの時間にはすでに二、三人はいても良さそうな容疑者や参考人、それらの
身内などの外来者もいない。
そして、何より決定的におかしなことは、部屋に常時一人や二人いるはずの役職の人間が、
課長を始め誰一人見当たらないのだ。
「何かあったんか」
鍋島はすぐ前の四係のデスクにいた池田という巡査に声を掛けた。彼も同じ
ようにデスク・ワークをしていたのだが、よく見ると他の刑事たちほどの緊迫感はなく、
ただみんなに合わせておとなしくしている、という感じだった。
領収書の計算をしていた池田巡査は驚いたように顔を上げると鍋島に気づき、それから
周囲を見回しながら、
「あ、ええ──どうもそんな感じです」
と言って目の前の先輩刑事に振り返った。その目は、鍋島に対して助けを求めているかの
ように不安げだった。
「どこにいてるんや」
鍋島は課長たちの所在を池田に訊いた。
「たぶん署長室だと思いますけど」
「自分、何時に来たんや」
「十五分ほど前です。そしたらもうすでに皆さんこんな感じで」
池田は声をひそめて答えた。「僕が挨拶しても、誰も返事してくれへんのですよ。気づいて
さえもらってないようでした」
「おしっこチビりそうやったやろ」
鍋島は着任してまだ二ヶ月あまりの後輩に同情した。そして自分の所属する一係のデスク
には誰もいないことに気づいた。
「一係は俺が一番なんかな」
「いえ、係長と湊主任が来てます。さっき一瞬だけ戻ってきて、非番の島崎主任の
とこに電話してましたよ。それからまたすぐに出て行かれました。おそらく他の皆さんと
一緒に署長室にいてるんやと思います。ここにいる皆さんは、それぞれの班の待機番……
みたいな感じやないかと思うんですけど」
「いったい何やろ」
と鍋島は首を傾げた。しかしまだ他の刑事たちの深刻さが今ひとつ彼には伝わりきって
いないらしく、連中を訝しげに眺めながら自分の席へと向かった。
途中、三係の刑事の後ろを通るときに「おはようございます」と挨拶すると、その刑事は
こちらに背を向けたままで口を開いた。
「──腕、磨いといたほうがええかもな」
「はい?」
佐々木という巡査長はゆっくりと顔を上げて鍋島を斜に見た。
「あんたの腕や。腕と言うたら──分かるやろ」
「──真誠会ですか、東条組ですか」
鍋島は管内に拠点を置く指定暴力団の二大勢力の名を挙げた。
先輩刑事の言った彼の『腕』とは、射撃の腕前のことだ。所轄署の一捜査員としては
めずらしいことだったが、鍋島は府警内で定期的に行われている射撃の競技会で常に上位に
入る実力の持ち主である。警察学校に入った当初から、柔道や剣道といった武道はその体格が
ハンディキャップとなるせいかあまり上達が見られず、いつも同僚に負かされてばかりだった
ため、彼はこれらについては早々に見切りをつけた。そして、代わりに射撃の訓練に力を注いだのだ。
成果は上がり、今や所轄署の強行犯係にいながら、本部四課が時折行う管内の暴力団関連
施設への大がかりな踏み込み捜査などでは、所轄署からの応援要員として四係の捜査員と
ともに借り出されるようになった。実際、その腕を発揮するような事態には滅多とならなかっ
たが、それでも一係よりははるかに拳銃携帯の有難味を思い知らされるのが暴力団関連の
部署なのである。鍋島のこの発言も、そういう経緯に裏付けされてのことだった。
「せやない。ヤァ公とは違うんや」と佐々木は言って顔をしかめた。
「とにかく、早よ署長室へ上がり。相方が出て来たら行くように言うとくから」
「分かりました」
鍋島は巡査長の苦痛とも見て取れる表情に不吉なほどの悪い予感を抱きながら席に着いた。
ゆうべのうちに何か重大な事件が起きたことは推測できた。しかし、その時点で呼び出しは
掛からなかったし、今現在、マスコミが騒いでいる様子もない。それに、少なくともこの
周囲に限って言えば本部の連中の姿も見当たらない。
こうして普段通りに出勤してきて、先に来ている者からそれとなく緊迫した状況にあること
をほのめかされているだけだ。中には池田のように、まるで何も知らされていない者もいる。
こんなことは普段ありえない。
つまりそれほど深刻な事態だということなのだろうかと鍋島は思った。だからこそ自分も
部屋に入ってすぐにその空気を感じ取ったのかも知れない。
佐々木の言うとおり、拳銃の携帯許可が出るかも知れないなと思いながら係長のデスクに
ある出勤簿に判を押すと、鍋島は部屋を出て署長室に向かった。
途中、少年課の前を通り過ぎるとき、鍋島は少しだけ開いていたドアの向こうから、
「何でです?」
という、怒ったような 若い捜査員の声を聞いた。
昨日の傷害事件は、鍋島たちが病院を訪れて母親に事情聴取を行った際、彼女の口から
息子の犯行であるとの供述を得ることができた。そしてその段階で少年課と話し合った結果、
事件は刑事課の手を離れたのだった。
生島修は最初に鍋島たちが取り調べて以降はずっと口を閉ざしているらしいが、子供の
相手は少年課の専門だから、詳しい動機などはいずれ明らかになるだろう。要するに父親
失格、社会人失格の男がその審判を下されただけのことで、やったのがたまたまその息子
だったに過ぎないのだ、と鍋島はできるだけ自分の内面に蠢く暗い感情を少年の
それとオーバーラップさせないようにと意識しながら、四階までの階段を上った。
署長室に着き、すぐにその隣にある、日頃は幹部連中が会議に使う部屋に通された鍋島は、
刑事課で感じたあの張り詰めた空気をさらに研ぎ澄ませた、一瞬にして息苦しさのあまり
目眩がするような緊迫感に迎えられた。
「──あの、おはようございます」
鍋島は言って鶴が首を突き出すような会釈をした。そうしながら部屋の顔ぶれを確かめた
のだ。署長、副署長、刑事官といった上層部の他は、すべて刑事課と少年課の面々のよう
だった。
「うむ」
署長たちと同じ並びにいた植田課長が言った。うめいているような声だった。
鍋島はすぐ前の席に着いた。そして改めてメンバーの一人一人を確認した。刑事課からは
植田課長以下高野、安田、林、麻生の係長四名と、湊、近藤、桐山の主任三名の計八名が
顔を揃えており、九人目となる鍋島は初めてのヒラ刑事だ。少年課はもう少し数が多く、城戸
課長と二人の係長、三人の主任、他にも四人の刑事がいた。
生島修が何かやらかしたかな、と鍋島は思った。
しかし、だとすれば刑事課の連中がこんなにも多いのが解せなかった。一係から四係まで、
すべての班から均等に捜査員が出て来ている。暴力団担当の四係もさることながら、経済犯罪
が中心の二係などは昨日の一件とはほとんど接点はないはずだ。
やっぱり、ただごとではないんだなと思いながらシャツのポケットから煙草を 出して
テーブルに置くと、絶妙のタイミングで後ろから灰皿を持った手が伸びてきた。
「あ──どうも」
しなやかなその手の持ち主は、署長室付きの総務課の婦人警官だった。そこからイメージ
されるいわゆる『お茶くみ』的な存在ではなく──だいいち、お茶くみ係を雇うような予算は
府警のどこをひっくり返したって出てこない──署長の対外的スケジュールの管理・調整
から、来訪者の応対、会議の準備等、要するに署長の秘書のような仕事をすべて一人で
こなしていた。署内でも一、二を争う美人で、三十歳、階級は鍋島と同じ巡査部長だった。
婦警は「おはよう」と小声で言うと、今度はコーヒーを出してくれた。高級品でこそ
なかったが、ちゃんとソーサー付きのカップに角砂糖とフレッシュが添えてある。一見して
刑事課のそれとは違うと分かる、本格的な煎れ方のものだ。
艶のあるダークブラウンの液体から立ちこめる薫りの良さに、幹部たちの会議はいつも
こんな風なのかと鍋島がちょっと浮ついた気分になりかけたとき、小牧富雄刑事官が
口を開いた。
「今朝、つい二時間ほど前や。前の鉾流橋のたもとで、全身ずぶ濡れで瀕死の重傷を負った
男が倒れてるのを、ジョギングで通りかかった男性が発見した。すぐ向かいに警察署が
あるっていうんで、直接ここに駆け込んできた。うちから二人が同行して現場に駆け付けて
みたら、倒れてる男は──少年課の杉原巡査部長やったんや」
「は」
鍋島はまさに、目を丸くして城戸課長を見た。そこで城戸が話を引き継いだ。
「杉原はどうやらゆうべのうちに河に落ちたみたいで、どっかから流されてあの場所まで
辿り着いたらしい。それで何とか自力で岸まで上がってきたものの、それ以上の余力は残って
へんかったんやな。発見されたときはほとんど意識を失っとったが、巡査に声を掛けられると
少しだけ意識が戻ってな。相手が同僚やと分かると、署に連れていってくれと、とにかく
それだけを繰り返して言うたそうや」
城戸は苦渋に満ちた表情で説明した。「しかし、動かすと危険やと判断した巡査は自分で
署に戻って連絡した。うちと刑事課から数名が駆けつけたとき、杉原はほとんど虫の息やった」
鍋島はまだ驚きを隠せないまま、呆然と話を聞いていた。部屋には城戸の声だけが響き、
誰もが俯いていた。
「……まさか、亡くなったんやないでしょうね」
鍋島はようやく言った。
「死んでない。死んでないが、首まで棺桶に入ってる状態や。一緒に救急車に乗っていった
うちの主任からついさっき連絡が入った。脳挫傷、肋骨が二本、鎖骨が一本、右薬指と親指の
計六ヶ所の骨折。顔やら背中にも傷があってそれほど深くはないが、何しろ河に浮いとった
んやからな。ボンボンに腫れてエゲツないことになっとる」
「……誰にやられたっていうんですか、杉原さんは」
鍋島は怒ったように言った。「酔っ払って自分で河に落ちたとかじゃないんでしょ」
「河に落ちたぐらいで出来る怪我やない。もちろん、自殺でもない。あそこまで自分で自分を
傷つけるなんて不可能や」
それまで黙っていた少年課の本間係長が吐き捨てるように言った。現場に駆けつけ、
実際に杉原の怪我の様子を見たのだろう。
「鍋島くん、きみはこれから杉原巡査部長の自宅に行く秋田係長に同行してくれ。奥さんに
連絡せんとあかん」
と、ここで植田課長が言った。幹部の面々を前にしているせいか、少し改まった言い方だった。
「え、まだ知らせてないんですか」
「さっきからずっと電話を入れてるんやが、誰も出んのや。ひょっとして奥さんの身にも
何かあったのかも知れんし、そうなると一刻を争う」
「分かりました」
鍋島は少し離れてところに着席している少年課の秋田操子係長を見た。頷いた秋田係長は
少し不安げだったが、すぐに幹部たちに振り返ると言った。
「じゃ、行ってまいります」
鍋島は出来ればゆっくりと味わいたかったコーヒーを半分以上残して立ち上がり、秋田に
歩調を合わせながらドアに向かった。
そして彼は部屋を出る間際に振り返ると、幹部たちの誰とはなしに問い掛けた。
「拳銃の携帯許可、出してもらえますよね」
一瞬の沈黙があったが、署長が何も言わないのを確認した副署長が鍋島を見て頷いた。
「持って行きなさい」
秋田係長とともに階段を三度折り返した途中で、鍋島は上ってくる芹沢に出くわした。
芹沢は相棒が少年課の係長と一緒にいることに違和感を感じたらしく、下りてくる二人を
怪訝そうに見上げていたが、同時に当初の鍋島と同じことを考えたらしい。彼が自分の前まで
来ると囁くように訊いてきた。
「昨日のガキが何かやったか」
「違う。とにかく早よ上がれ──そんで、冷静に話聞けよ。美味いコーヒーも出るしな」
「ちくしょう、もったいつけんなよ」
芹沢は冗談ぽく言って鍋島の肩に拳を当てたが、彼の表情に事態の深刻さを見て取った
のか、それ以上は何も言わずに階段を上って行った。
「──彼、杉原さんとは親しいみたいやね」
秋田がぽつりと言った。鍋島は頷いただけだった。
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